■狂人を憐れむ歌 生と死の境界
※この物語は作者の妄想に基づく完全なるフィクションです。登場する団体、地名、氏名その他に於いて万一符合する事があったとしても、それは創作上の偶然である事をお断りします。
※大正時代の表現の一環として一部差別用語を用いております。そこに他者への侮蔑の意図は一切ありませんことを何卒ご容赦ください。
妾は椛の朽葉が敷詰められた地面の上に斃れてゐた。
白銀の望月が煌煌と照る夜である。
視界には椛の梢と此方を覗く娘がゐた。
白い膚に長い碧髪をもつた、天女の如し女である。
纏う猩猩緋の洋装は椛の葉よりも鮮やかな紅をして、燃えてゐるやうであつた。
「ねェ、ひとつお願ひがあるのだけれど」
横臥した儘、女に云つた。
躰を起こそうにも力が入らず、また月が眩ひからと掌で顔を覆ふこともできない。
眸を瞑ることすら叶わぬ妾に動かせるのは唇と舌だけであつた。
女は、妾の掌を諸手で包み乍ら、何ですか、と尋ねた。
「妾は間もなく死にます。その前に、妾の體を喰つてしまひなさい」
陸軍の兵隊が館に攻入つたのはつい先刻のことである。
妾は女を庇わんと、護拳片刃刀で袈裟に斬られてしまつたのである。
娘二人で館を逃れ、此処まで奔走したが、遂に限界に達してしまつた。
「サ、早く。この儘ぢや妾は、本当に死んでしまうよ」
妾が急かすと、よろしいのですか、と女はまた問うた。
「良いから云つているのよ。あなただつて、妾を喰ひたくて仕方ないのではなくて」
女は答えない。
沈痛な面持ちをして、お兄様に逢ひたいと云つたのはお前様の筈よ、と抵抗する。
詰るようでもありながらも温かひ言葉であつた。
「それは、あなたに託します」
兄様。
倦疲れた脳髄に、精悍な貌をした男が浮上がる。
妾の想ひ人。
此の世で唯ひとり、妾を鬼だ狂人だと云わず、妾を可愛がつてくれた御方。
願はくば、兄様にお仕へして、ふたりだけでひつそりと生きたかつた。
妹背や夫婦といふ範疇には収まらぬ、清らかにして聖なる純真な慕情である。
この本懐を果たさぬが為、妾はこの女に喰われてやるのだ。
きっと妾の精神は、女の中で生き続けることになるだろう。
兄様なら、姿形が変わつたとしても、妾をこの世界から見出してくれる筈。
妾の小さな躰を抱寄せて、今度こそ共に生きよう、と仰つてくれる筈。
否、妾が兄様を探すのだ。そして逢へたなら、心配掛けてごめんなさい、勝手に居なくなつてごめんなさい、と謝るのが筋といふものだ。
「懐刀なら裡に仕舞つてあるから、それを使ひなさいな」
生娘の血肉ならさぞ旨ひことでしよう、と云えば女の細ひ咽頭が鳴つた。
黒曜石の如し眼が炯炯と光つている。
嗚呼、やはり。
この娘は鬼なのだ。
麗しき姿をしてゐるとは雖も、立派な人喰鬼なのだ。
僅かな緘黙と逡巡の後、鬼女は鷹揚に頷ひた。
妾の懐から黒檀鞘の短刀を取出すと、女らしい二本の脚で妾に跨がり、襦袢ごと緋染めの着物を開けさせる。
肚を決めた鬼に、もう躊躇はなかつた。
鞘を投捨てて、逆手に握締めた得物を振りかざす。
月の冷ややかな光を受けて、濡れたやうに輝く刃は容易に妾の頸を穿つてくれた。
鬼女は刃を抜かず、胸元まで妾の躰を切進める。
傷ひとつない手指と短刀で肋骨を砕き、折り、遂に心臓を探当てた。
女は、ほう、と嘆息を零す。
頬に朱が差し、陶然とした表情であつた。
妾は急におかしくなつてしまつた。
端から見れば、女の方が余程の狂人なのだから。
女は、心臓を鷲掴みにすると、ひと思ひに引抜いてみせる。
繋がつた幾本もの血管が伸びてしまつたが、女は一本一本丁寧過ぎるほど丁寧に除いていく。
赤墨色の肉塊を丸裸にした頃には、脈動は完全に静止してゐた。
女は藍鉄の空に馳走を掲げて、徐に口に運ぶ。
ぐちやりぐちやりと、畜生らしい品性に欠けた咀嚼をして、嚥下する。
円ひ瞳に泪を溜め乍ら、口許を血で穢す姿は、如何なる白痴美の追随も赦さぬ無垢の極みに在つて、只只綺麗であつた。
妾が最期に見たのは。
空に照り続ける満月と、力尽きて梢から離れていく一枚の椛であつた。