表情の向ける先
そんな正月休みだったわけだけど、休みが明けてからも俺とかなの関係は特に変わることはなかった。相変わらず俺は交代勤務だから土日が休みになるとは限らないし、かなはかなで、演奏だったり、共演者との合わせ練習だったりで予定が入っていることも多かった。
でも、俺とかなの休みが合うときは、かなの家でかなが作るご飯を食べるとか、どこかに食べに行くとかして、その後はかなの家に泊まったりしてた。その次の日もそのまま休みの場合はかなの家でごろごろ過ごしたり、どこかに出かけたりとかしてたから、客観的に見ても、一般的な社会人の男女のお付き合いってやつだったと思う。
そんな関係が何年か続いて、いつのまにか俺はもう30代を迎えたいい大人ってやつになっていて、かなも20代後半に入っていわゆる結婚適齢期となっていた。俺の同期や地元の友人はこの頃どんどん結婚していったから、結婚式に出席するために土日休みの申請をすることが増えていた。
かなのほうでも、自分と同じように総合職として採用された同期や年の近い先輩や後輩が結婚することが増えているらしい。週末にピアニストとして活動しているのは職場では知られている話だったから、半ばプレーヤーも兼ねたゲストとして招かれることも多いようで、同じような曲を使い回すわけにもいかないからと、あの頃のかなはいつにもまして熱心に練習していたと思う。
結婚した同僚のうちの女性の多くは、結婚を機に、働き方を変えたり、退職したりして、大企業の総合職という、いわゆるエリート職を手放したらしい。逆に、男性の同僚や、女性の同僚のうちのごく少数は、働き方を全く変えないみたいで、そういうのを見てかなも何か思うことがあったらしい。結婚についてどう思っているかストレートに聞かれたことがあったんだ。
正直に言うと、そのときの俺は、今のままがよくて、かなと結婚したいとは思っていなかった。
交代勤務の仕事は体力的にはきついけど、別に耐えられないこともないし、むしろ、リーダーとして働けることにやりがいを感じていた。俺の年次や学歴なんかを考えると日勤帯ではまだリーダーになれなかっただろうから、日勤で一工員として働くよりも、交代勤務のリーダーとして働く今の働き方のほうがよっぽどいいと思ってた。
かなと付き合ってもう何年も経つし、こんなことを聞いてくるってことは、かなは俺との結婚も人生の選択肢の一つとして考えてくれてるんだろう。だから、もし俺がここでプロポーズしたと場合、多分、前向きに考えてくれると思う。
でも、結婚するとしたら、かなはこれからどうなるんだろう。結婚したかなの同僚の多くのように、働き方を変えたり、仕事を変えたりするんだろうか。
俺は学生のときのかなを2年生のときの半年かそこらしか知らない。だから、かなが就職活動をしていたときの様子を全く知らないから、どんな気持ちがあって、あんな大企業で総合職として働くことを決めたのかを知らない。ただ、出会ってからのかなの様子を見ると、仕事に力を入れていないとまでは言わないけど、演奏活動も続けているし、仕事第一でバリバリ働いているようにはとても見えない。
だから、結婚して俺に合わせてくれって言っても、きっと嫌だとは言わないと思う。それなりに仕事をして、演奏もして、俺と一緒に暮らしてって、そういう生活を、かなは楽しんでくれるとは思う。
・・・だけどさ、それって、俺に合わせてかなの人生変えるってことだよね?
何かあったら、かなは仕事を辞めて、俺が養うとか、そういう話になるんだよな?
・・・なんか、嫌だな。
つい、そう思ってしまった。
だから、こんな言葉が口をついた。
「俺がどう思うかっていうよりも、まずは、かながどうしたいかじゃないの?」
って。
かなのほうを見ないでそう吐き捨てた俺を、かながどんな顔で見ていたかを俺は知らない。
それからも表面上は俺とかなの付き合いは変わることはなかった。かなは相変わらず可愛かったし、俺と会うときは、会えて嬉しいって顔をして甘えてくれる。
でも、かなの演奏活動が入る日が増えたのか、俺が休みでも、かなに会えないという日が気持ち、前よりも増えたような気がする。あと、部屋に行ったときに気付いたんだけど、いつのまにか、かなの本棚に資格関連か何かのテキストが増えていた。かなが休みで俺の仕事が夕方までって日は、前までは、夕飯を作って部屋で待っていてくれることがほとんどだったのに、机の上でテキストを広げていることが増えた。俺が部屋に入ると机の上は片付けて、「お仕事お疲れ様でした」って笑って迎えてくれるんだけど、夕飯は、どこかに外に食べに行くことが増えた。
あの日も、かなと一緒に地下鉄に乗って、市の中心部に向かった。入ったのは和食の居酒屋で、カウンターの上にいくつもの大皿に乗ったおばんざいが並んでいる。どれもおいしいから、俺もかなも気に入っている店だ。うん。おいしい。この店。おいしいんだ、でも・・・。
一通り頼んで、料理が出てくるのを待つ間、「たまには前みたいにかなの作ったご飯が食べたい」の言葉を飲み込んで、こう話しかける。
「かな、最近、勉強していることが増えたよね?」
「うん。実はね、もうすぐ会社で英語の試験があるの。自由参加だから今までは受けていなかったんだけど、今年は受けてみようかなって思って」
横並びのカウンターで、かなは、目の前のメニューを見ながらさらっと答える。
「へえ。会社で英語の試験なんてあるんだ」
「うん、そうなの。研修生扱いでね、若手社員が海外の支社に出向できる制度があるんだけど。論文と、英語の試験があるんだよね。やっぱりだし巻き卵は外せないよね~頼んで正解だね」
海外支社の言葉に俺の心臓は飛び出しそうだったのに、かなの関心は目の前のメニュー表にあるみたいで。
「へえ。かなも、海外勤務とか目指してるんだ?」
できるだけ平静を装って聞く。
「ううん、そういうわけではないんだけど。でも、せっかく制度があるのにチャレンジしないのも微妙かなって思って。さっき優君が来るときにやってたのは、英語の試験のテキストだよ」
「普通の本みたいだったけど、会社独自の試験ってわけじゃないんだ?」
「いやいや、そんな特殊なやつじゃなくて。ただのTOEICだよ」
「そうなんだ。大変だね」
「も~。本当だよ。ある程度の点数以上を取れば次の年から免除になるから、私の同期は前年までに受けて免除になってる子がほとんどだから、今回一緒に受けるのほぼほぼ後輩で。今までどれだけさぼってたんだってバレバレだよね~恥ずかしい。だからせめて、悪い点数だけは取りたくないなって思って勉強してるんだ」
そんなことを話しているうちに、料理が目の前に並び出す。
だし巻き卵の大根おろしに醤油をかけるかなの顔は嬉しそうにきらきらとしてる。
嬉しいときのかなの表情は変わらない。でも、それは、俺と一緒にいても、俺に向けられないことが増えているような気がして、なんだか少しさみしく感じた。




