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『ツェルニー』と『なんとかのエチュード』と『ピアノのための3つのノットゥルノ』

 それから俺とかなは、また連絡を取り合って、定期的に会うようになった。かなは基本的に土日祝が休みの仕事だから、シフトで交代勤務の俺と休みが会うことがあまりなかったんだけど、かな自身も、自分の休みの日に演奏にかかわる予定を入れていることが多いからか、週末に会えないことについて、かなが俺にから文句を言うことは一度もなかった。


 そういえば、交代勤務について特に何の説明もしないで書いてたけど、俺が言ってる交代勤務は、俺が働いている工場での勤務形態の話であって、警察官とか消防士とか鉄道員とかの24時間勤務や48時間勤務とは違う。日勤や準夜勤、夜勤が順番に入れ替わっていく勤務で、毎日日勤帯で働いている人よりも、実質的な休みが多い。 

 実質的な休みが多いって書いてもうまく伝わらないだろうから、たとえば、夜勤2日・日勤2日と続く勤務の場合で説明する。あ、曜日付きのほうがわかりやすいかもしれない。じゃあ、水・木と2日夜勤で、その次に日勤ってなる場合と仮定して。木曜の夜勤の次の日勤が始まるのって何曜日だと思う?俺が『続く』って書いたから、水・木の次なら金曜でしょ?って思う人もいるかもしれないけど、正解は、土曜になる。なんでかというと、木曜の夜勤の勤務終わりは金曜の朝になる。つまり、夜勤と日勤の勤務時間は重なる部分があって、そのまま続けて働くと、トータルの就業時間が日勤を二日働くよりも短くなってしまう。つまり、勤務日数は同じなのに就業時間に差が出てきてしまうから、夜勤・日勤の連勤は出来ないいことになる。というか、普通に考えて、夜勤が終わってそのまま続きで日勤に入って夕方まで働くとか、しんどくて無理だしね。だから、夜勤明けと夜勤入りの間には、必ず、調整の休みが入る。今例にあげた水・木夜勤で次が日勤の場合は、夜勤明けの金曜の朝から翌日の土曜の朝までのほぼ丸一日はフリーになる。逆に夜勤の入りの場合は、たとえば土・日に夜勤したら、月曜の朝から火曜の朝までが休みになるって感じだ。

 日勤っていうのは、普通に昼間働いてる会社員と同じ勤務時間だと考えてもらえればいい。

 で、実質的な休みが多いっていうのはどういうことかというと。日勤だと、残業無しでも会社が終わるのは夕方になってからだし、そこから次の日の始業の間の時間はたかがしれてる。でも、交代勤務の合間は、さっきから書いてるように、ほぼ一日の休みがあるから、感覚的に余裕がある。睡眠時間なくてきつくない?って思われるかもしれないけど、夜勤中は仮眠できるから、特にトラブルがない限り夜勤明けでも割と元気だし、何より、夜勤明けで直帰したとしても、明るいときに部屋で大人しく寝るのはなんだか苦手だから、なんだかんだ起きてあれこれしてる。あと、さっきはわかりやすく説明しようと思って、日勤と夜勤の切り替わりで説明したけど、この二つ以外にも準夜勤っていうのがあって、準夜勤の場合は夕方から早朝までの勤務になるから、夜勤の次が準夜勤って交代勤務の場合は、一日どころか一日半も休みがある。これってもう、ほぼ土日休みの人と活動時間変わらないんじゃないかって思う。あ、さっきから勤務の切り替え時の休みのことばかり書いてるけど、ちゃんと公休もある。公休っていうのは、明け休みとか入り休みのような()()丸一日の休みっていうのじゃなくて、カレンダー上でもちゃんと一日休みとなってる日のことを指している。だから、夜勤・公休・準夜勤って勤務の場合は実質二日半の休みってことになるから、1か月の間に何度も三連休があるような感覚だ。あと、平日休みのほうがいろんな店も空いていて、出かけるときに都合がいいこともいっぱいあるし、土日の安みが少ないとは言っても、連続の休みがなかなかないだけで、なんだかんだで土日のどちらかは公休か勤務の切り替えの休みに当たるから、土日休み皆無ってわけでもないしね。そんな感じで、俺はこの交代勤務を割と気に入っていた。


 長々と俺の勤務形態について説明したけど、そろそろ俺とかなの話に戻ることにする。

 俺たちが会うのは、俺の夜勤明けの休みが週明けにかかったときとか、逆に、夜勤に入る前の勤務終わりとか、俺の交代勤務が切り替わるタイミングが多かった。初めのうちは、ちゃんと公休で一日会えるときに会う約束しようと頑張ったんだけど、さっきから書いているように、俺は交代勤務だから、土日の両方が公休になる日はまずなくて、どちらかしか休みじゃないか、土・日どちらも勤務になっているかだ。かなはかなで、学生時代より頻度は減ったといっても、月に一度か二度は演奏活動をしているから、当然、演奏がある当日は会えない。それに、かなは一人で演奏しているわけじゃなくて、基本は誰かの伴奏だ。相手については、この前俺が聞きにいったバイオリンの原田が一番多いらしいけど、他にも何人か音楽仲間がいるそうで、その人たちの伴奏をしていたり、あと、何人かで合奏したりってこともあるらしい。相手もプロやセミプロだからしょっちゅう会って一緒に練習しているわけではなさそうだけど、さすがに、ぶっつけ本番ってわけにはいかない。だから、本番が近くなると、平日だったら夕方や夜に仕事が終わってからとか、週末だったら本番前日とかに、時間を作って集まって合わせ練習をしているとのことだった。

 だから、たとえ俺が公休で一日空いていたとしても、かなも同じように空いているわけじゃないし、かなの予定はかな一人だけでどうにかできるものじゃないから、俺の休みに合わせて休んでほしいなんて言えるはずもなく。一日じゃなくてもいいから休みが合う日をって考えたときに、約束の日が明け休みや入り休みとなることが多くなっていた。


 これは俺がかなにふられた話だけど、その理由は会えるタイミングが合わないからではないと思う。がっつり時間を作ってどこかに出かけたりってことはほとんどできなかったけど、それでも、頻度で言えばけっこう会ってたと思うし。

 たとえば、かなが午後から練習がある日は、夜勤明けでそのままかなの部屋まで迎えにいって、近くでモーニングを一緒に食べたりとか。夜勤入りの前の日で、かながディナーコンサートがある日は、演奏会が終わる時間に店の近くまで迎えに行って、ファミレスとか夜遅くまでやってる店でご飯を食べたりとか。食事の後はかなを部屋まで送っていって、そのまま俺も止まって次の日は朝寝坊して、かなが作ってくれる朝兼昼ご飯を食べたりとか。

 かなが勤めている会社は有名企業だけあって福利厚生がいいらしく、かなが住んでいる部屋は割と広めで、ピアノが置く余裕があるほどだった。かなは俺がいるときも、毎日ちょっとずつでも触らないといけないからと言ってピアノを弾くこともあった。俺はピアノ・・・というか楽器は全般的によくわからないけど、見た目は普通のピアノなのに、サイレント機能がついているデジタルなピアノだそうで、スイッチかなんかの切り替えで音が出なくなる仕様になっていた。俺がいるときの練習では、かなは、サイレント機能をオンにして、ヘッドホンをつけてピアノに向かっていた。そういうときの俺は、ベッドでごろごろしていたり、ソファーでテレビを見たりしているんだけど、こっそりかなに近づいて横顔を眺めるのが好きだった。ヘッドホンをしているから余計に外の音が聞こえないんだろうけど、かなは俺に全然気が付いていなくて、真剣でかつ楽しそうな顔は見ていてずっと飽きなかった。

 ピアノは少しでもサボるとすぐ下手になってしまうらしく、技術を維持するために、毎日欠かさず弾いている練習曲があって、それがツェルニーという名前だそうだ。このツェルニーっていうのは何十曲もあって、かながよく弾いているのは、楽譜を前から順番に弾いていくと、右手、左手、両手をそれぞれ重点的に練習することができるらしい。楽譜は一応広げているけどほとんど見ていないようで、つっこんでみたところ、「子供の頃からずっとやっているから、もう覚えている」ということらしい。俺も聴いてみたいと言ってみても、夜は「近所迷惑になるから」、昼は「ただの練習曲で聞いてもつまらないだろうから」となかなか聞かせてくれなかったけど、頼み込んだら、昼に弾くときだけ、ヘッドホン無しで俺にも聞こえるように弾いてくれるようになった。曲の善し悪しはよくわからないけど、右手がよく動く曲が続いたら、次は左手がよく動く曲になって、その後、両手をどちらも動かす曲が続いた。なんかいろいろ動いていてすげえなあとは思ったけど、確かに、かなが外で演奏する曲とは雰囲気が違うかも?と思ってしまった。それをそのまま伝えたら、かな曰く、今弾いてくれたツェルニーというのは、ピアノ界(?)の立ち位置的に九九のようなものだとのことだ。だから、ドレミを覚えて簡単な曲が弾けるようになれば誰でも習うし、何度も繰り返すうちに知らないうちに暗記(正確には暗譜というらしい)してしまうし、難しくないけど基礎が詰まっているから大人になっても何度も弾いているとのことだ。ただ、九九を自慢げに人に聞かせる大人がいないように、ツェルニーも、人に聞かせるような曲じゃないらしい。

 じゃあ逆に、聴かせるような練習曲はないのかと尋ねると、少し日にちがほしいと言われて、それからしばらくしてから、昼間にかなの部屋に行ったとき、かなはものすごく難しそうな曲を弾いてくれた。ショパンのなんとかのエチュードって曲らしいけど、これを聴くと、ああ確かに、ツェルニーは九九だなと思わざるを得ない難しさだった。なんとかのとか書いてるのは、ぼかしているわけじゃなくて、しっかり覚えられなかったからだ。というのも、エチュードっていうのは練習曲って意味らしくて、それからたまに、かなは、なんとかのって名前がついてるエチュードとか、エチュードなんちゃらって数字がつくような曲を弾いてくれたんだけど、いっぱいありすぎて、覚えるのはとても無理だ。でも、全部、すごかったのは確かだ。

 かなの演奏はこんなにすごいのにどうして伴奏しかしないのか尋ねると、かなは少し考え込んだようで、しばらくすると、学生時代に辞めたピアノのレッスンを再開したことを教えてくれた。それからまた何ヶ月か経ってから、かなは、珍しく、演奏を聴きにきてほしいと言ってきた。部屋で練習しているところは見ていても、演奏本番に誘ってくれるのは学生のとき以来だから驚いた。前も書いたけど、交代勤務のリーダーが希望休を取るのはいろいろと面倒だから、それまで体調不良とかやむを得ないとき以外で休みを取ったことはなかったんだけど、他のシフトのリーダーや課長に頭を下げて勤務の調整をして、なんとか都合をつけて休みをもぎとって、演奏を聴きにいった。

 会場は、以前にも俺がこっそり聴きにいった商業施設の地下にあるイベント会場で、前来たときはこっそりと上の階から見えないように聴いていたけど、今回はちゃんと椅子に座った。演奏が始まって数曲はバイオリンメインの曲で、バイオリニスト(例によって俺が勝手にライバル視していた原田だ)のMCで演奏会は進んでいたけれど、突然、原田がマイクをかなに渡した。


「みなさん、こんにちは。ピアノを担当します、かなです。私は、いつもは伴奏を担当しているんですが、今日は、久しぶりに、ソロで演奏してみたいと思います。リストのピアノのための3つのノットゥルノから、第三番です。それでは聴いてください」


 そう言ってかなが弾いた曲は、とてもやさしくて、美しいメロディーで始まった。次第に転調を繰り返して(かなに教えてもらったから、俺も転調という単語を知ってる!)激しいクライマックスに向かっていく。何かを伝えきったかのように盛り上がった後は、落ち着いて終わっていく、そんな曲だった。初めて聴いた曲だから、どうやら、たまに聴かせてくれるエチュードではないらしい。それとも、知らないだけでこれもエチュードなのか?まあ、なんでもいいか。いい曲だったし。


 弾き終わった後、かなは立ち上がって客席に向かって一礼して、ピアノの上に置かれたマイクを原田に返して再び座る。拍手が一通り収まった後、原田がにやにやしながら言う。


「えーっと。かなちゃんは、『ピアノのための3つのノットゥルノの第三番』って言ってましたけど、実は、この曲、もっと有名な名前がついてるんですよね。ご来場いただいた皆さんの中も、ご存じの方が多いかと思いますが、ここは一つ、知っていても内緒にしてくださいね。かなちゃん、普段は伴奏者として僕のステージに一緒に出てくれるんですが、どうしても今日は、この曲を弾きたかったそうなんです。でも、本人すごく恥ずかしがり屋だから、もう一つの曲名はどうしても言えないそうなので。というわけで、曲名をご存じの方は、どうか、かなちゃんを応援してあげてください。知らないけど気になるなって方は、ぜひ、おうちにお戻りになったら、『ピアノのための3つのノットゥルノ』で検索してみてくださいね」


 会場の中から、笑い声が湧く。どうやら、ほとんどの人がそのもう一つの曲名というものを知っているらしい。その後も演奏は続いたけど、かながメインで弾く曲はあれだけだったから、どうやら、俺に聴いてほしい曲というのは、その別名があるという曲らしい。原田は「応援」って言っていたけど、どういう意味だ?伴奏だけじゃなくて、ソロで弾いたかなを励ましてやれって意味か?レッスンに行ってきちんと先生に指導してもらってるみたいだし、これからはソロで弾く機会が増えるってことか?いろいろ考えたけど、肝心のもう一つの曲名を知らないから、結局分からない。

 だから演奏が終わってからきちんと調べようと思ったけど、いろいろな曲を聴いているうちに、肝心の『ピアノのための3つのノットゥルノ』という単語をすっかり忘れてしまったから、後になっても調べることができなかった。

 次にかなに会ったときに尋ねてみたけど当然教えてくれなくて、それからは、部屋で二人のときも、あの曲は二度と俺の前で弾いてくれなかったし、かなの演奏の日と俺の休みがなかなか重ならない関係で聴きに行くこともできなかったから、いつしかあの曲のことは頭の中から消えていった。


 そのもう一つの曲名が愛の夢だと知ったのは、かなにふられて随分と経ってからだった。

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