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『あ』

 かなの演奏を聴きに行った日の夜、俺は、自分の携帯とにらみ合っていた。

 あの演奏を聴いて、上のフロアから覗いて少しだけかなを見たら、ちゃんと会いたくて仕方なくなった。最後にかなに会ってから4年以上が経っている。突然連絡して、なんて思われるだろう。というか、まず、なんて書き出せばいいんだろう。分からなかった。

 何時間考えても何も思い浮かばなくて、とりあえず、『あ』とだけ書いて送ってみた。メールのタイトルも何も無し。本文にこの一文字だけ。

 意味不明と思われるだろうか。もっとちゃんと考えてから送ればよかった。送った後に後悔する。1分。3分。5分。一定時間毎に携帯の画面が暗くなるたびに、ボタンを押して表示される時計を見る。それを何度も何度も繰り返して。また暗くなったから、ボタンを押そうとた瞬間、ディスプレイにぽこん、とメールの通知が届いた。

 もしかして。

 震える指でその表示されたアイコンを押したら、俺が待っていた返事があった。


『こんばんは。どうしたの?』


たった二言だけの返事。でも、かなだ。かなだよ。返事をもらえた。

 慌てて返事を返す。


『こんばんは!お久しぶりです!俺です、大島です。やっと中国から帰って来ました!』


 そしたらすぐに返事をくれた。


『お帰りなさい!お仕事お疲れ様でした。大変だったでしょう?』

『大変だったけどやりがいあって楽しかったよ。まあ、最後は工場閉鎖っていう残念な結果になっちゃったけど。』

『えっ、工場閉鎖って、その言葉だけで大変そうな感じがするね。』


 よし、何とかやりとりが続いている。緊張しながら、何気なさを装って次の文を送ってみた。


『もしよかったら、その辺の話とか聞いてくれないかな。』


 なんて思われているだろう。どう思われてるんだろうか。悩んだのは少しの間だけで、すぐに返事をもらえた。


『もちろん!このままメールしてくれてもいいし、電話でも構いませんよ』

 ああ違う、そういう意味じゃなくて。俺はかなに会いたいんだ。会って話がしたい。


『出来れば、会って話したい』

 

 そう送って数分後。


『いいですよ。いつにします?』


 やった!

『俺はいつでもいいよ。何なら今からでも。』

『今から?優君、よっぽど話したいんだね。でも、今日は遅いから、日を改めてお願いできないですか?』


 しまった。がっつきすぎた。

『ごめん。さすがに今日は急過ぎだね。誘っておいて申し訳ないんだけど、俺は今交代勤務やってるから、絶対に土日空いてるわけじゃない。だからこっちから休みの日を伝えて、その中でかなの予定と合う日にするって形でもいい?』


 かなに了承してもらってから、自分の休みの日を伝えるけど、なかなか予定が合わない。平日は仕事が遅くなることも多いらしくてかなが嫌がって、かといっての、土日はそもそも俺が休みの日が少ないし、かなも予定が入っていることがあって、二人の予定が合う日を待つと、だいぶ先になってしまう。


『さっき断られてごめんだけど。やっぱり、今日会えないかな?少しだけでいい。俺がかなのほうに行くから。』


 そう送ったところ、しばらく間が空いた後に、あるファミレスを指定された。かなが通っていた大学と同じ市内だが、地区が違うから、卒業して引っ越したんだと思う。この時間なら俺の住んでいる部屋から30分もすれば着くだろう。そう伝えて、車を走らせる。道も空いているから思っていたよりも早く着いた。

 

 そこは住宅街がすぐ近くにあるファミレスで、1階部分が駐車場で、2階が店舗になっている。階段を一歩ずつ上がるたびに、心臓がばくばくと音を立てるのが分かった。ドアを開ける前にいったん深く息を吸って、腕にぐっと力を込めて扉を開けた。

 俺の決意なんて当然知らないだろう店員が、やる気のない声がけをしてくれる。何名様ですか?の問いかけを流して、首を伸ばして店を見渡せば、入り口から見える席からこちらをのぞいているかなを見つけた。


 演奏をしていたときとは違って、下ろしたさらさらの茶色のストレートの髪に、以前会ったより大人びた表情。でも、くりくりした大きな目は変わらない。にこっと笑って手を振って、俺に合図してくれた。


 音を立てる心臓を無視して、何事もないかのような顔で足を動かし、向かいの席の椅子を引く。


「こんばんは!久しぶりだね、優君」


 4年以上振りのかなの声だ。それだけで胸がいっぱいになるけど、極力顔に出さないように努めて、年上の余裕ある笑顔を頭に思い浮かべながら話す。


「本当だね。なかなか連絡できなくてごめん。あと、今日も急なのにありがとう」

「うん、急だし、『あ』しか書いてないメールでびっくりしたよ」

「本当ごめん。なんて書いていいか分からなくて、あんなふうになった。ごめん」

「あはは、いいよ~別に」

「あ、それで、何頼んだの?」

「うん、私は夜ご飯食べちゃったから、ドリンクバーだけ。優君は?」

「俺もそれでいいや」


 本当は朝食べてそれっきりだったけど、かなの演奏を聴いてからなんか胸がいっぱいで、その後もなんてメールを送るかとかそんなことばかり考えてたから、ちっとも腹が減っていなかった。


店員を呼んで、ドリンクバーを注文する。あ、当時のファミレスは今みたいにタブレットなんてものなかったから、店員を呼ぶしかなかったんだ。先に来ていたかなのドリンクもなくなっていたから、二人でドリンクバーに向かう。横に並んだかなは相変わらず小さくて可愛くて、隣に並べることが妙にくすぐったくて、なんとも言えない気持ちになる。


 二人してドリンクを持って席に戻ってから、改めて向かい合う。


「じゃあ・・・お酒じゃないけど、お疲れ様ってことで」

 かなが、俺が持つグラスに自分のグラスを軽くぶつける。

「あ・・・かなも、お疲れ様」

「ふふっ、ありがと」


「あ、それで、これ、お土産なんだけど」


 袋を一つ渡す


「えっ、ありがと。えっと・・・ドライマンゴー?」

「あ、うん、一応お土産なんだ。もしよかったら食べて。あ、賞味期限まであと少しだから、気をつけて」


 かなが袋を裏返して表記に目を通している。


「あ、本当だ。確かに、休みの予定合わせてから会うんだったら、賞味期限かなりぎりぎりか切れてたかもだね。だからこんなに早く会いたがってたんだ」

「実はそうなんだよね・・・。帰ってからいろいろあって忙しくて、それでなかなか連絡できなくて、そうこうしているうちに期限近くなっちゃってさ」


 嘘だ。かなのことを忘れていたわけじゃないけど、会いたくなかったわけじゃないけど。でも、仕事を優先させて連絡しなかった。今日どうしても会いたくなったのは、かなの演奏を聴いて、少しだけど姿を見て、それで、なんか我慢できなくなったからだ。でも、なんとなく、それを言い出せなかったし、言いたくなかった。


 でも、かなはお土産のドライマンゴーの賞味期限を見て、無理に会いたがった理由を納得したようだった。


「・・・ん??セブ・・・フィリピン?え?」


 あ、しまった。


「優君、このお土産のドライマンゴーだけど、フィリピンのお土産みたいだよ。中国の工場に行ってたんじゃなかったの?」

「あ、いや、お土産はフィリピンので間違いないんだけど、でも、仕事してたのは中国で間違いないっていうか」


 慌てて、昨年の金融恐慌後の出来事を話す。工場の閉鎖が決まったこと、休暇がたまっていたから日本に戻る前にまとまった休みが取れたからフィリピンで海に潜ってたこと。戻ってから交代勤務のリーダーになって慣れるまで大変だったこと。

 一通り話し終わるまで、かなは黙って話を聞いてくれた。


「・・・って感じだったんだけど」

「本当、大変だったね」

「うん・・・」

「・・・でも、私連絡ずっと待ってたのに」

「うん・・・ごめん」

「中国に行って落ち着いたら連絡くれるって言ってたのに」

「ごめん・・・最初は本当に忙しくて、それでなかなか連絡出来なかったんだけど。そしたらどんどん連絡しずらくなって。そのままずっとできなかった。ごめん」

「・・・」

「・・・俺のこと、もう、嫌いになった?」

「・・・」

「そうだよな・・・」

「・・・」


 かなは黙って下を向いてしまった。


 これ以上なんて声をかけていいかが分からなくて、黙って待つことしか出来なくて。


 それから、体感的にはかなり長い間。実際には数分しか経ってなかったけど、かながコップを持ってストローに口をつけた。

 飲み物を少し飲んでから顔をあげたかなは、俺をじっと見つめて口を開いた。


「嫌いじゃないよ。嫌いだったら、あんな『あ』しかないメールに返事なんてしないよ。それに、いきなり会いたいって言われて、いいよって返事しないからね。」


「あ、うん・・・」

 かなの雰囲気に思わず気圧される。


「あのね、待ってたよ。ずっと待ってた。改めてだけど、おかえりなさい、優君」


 本当に嬉しそうな満面の笑みを浮かべるかなの顔を見て、俺は胸にぐっとこみ上げるものがあって、思わず泣きそうになった。泣かないけど、年上の男の意地で。


「俺も、かなに会えてすげー嬉しい。ただいま」


 なんだかいい雰囲気になってきた!・・・ところだったんだけど、

「なんだかんだでもういい時間だね。私、明日は朝から仕事だから、今日はそろそろ解散でもいいかな?」

と言われてしまった。俺が中国での話から始まる何やかんやを話しているうちに、すっかり時間が経って、日付が変わってしまっていた。


 当たり前だけど、ストレートに大学を卒業していたとしたら、かなはもう社会人3年目になってるはずだ。明日の仕事の話が出てきた流れで聞いてみたら、さらっと勤めてる会社を教えてくれて、そこは、俺でも知っているようなものすごい大企業だった。さすがこの地域で一番の学校を出たことはある。かなの話もいろいろ聞きたかったけど、かなは昼間は演奏してるし、今だって俺に時間取ってくれたし、明日も仕事があるからちゃんと休まないといけないのは確かだから、残念だけど、かなの言うとおり、ここで解散ということになった。

 かなはファミレスまで徒歩で来たようだったから家まで送ると伝えたんだけど、すぐ近くだからと断られた。後ろ姿をしばらく見送って、やっぱり遅くて心配だからと慌てて車に乗って追いかけたんだけど、駐車場から道に車を出してかなが歩いた方向を見たら、もうその姿はなかった。

 嫌いじゃないとは言われたし、時間を取って会ってくれた。待ってたって言ってくれた。勤務先の会社も教えてもらえた。でも、近所のファミレスまでは呼んでくれても、住んでるところは教えてもらえなかった。これって、どういうことなんだろう。

 気になるけど、いきなり距離を詰めて前みたいな態度を取るのは違う気がする。


 今日『は』そろそろ解散って言ってたことに希望を見て、次の約束のためにメールを送る。そしたら、ちゃんと返事をくれた。お互いの予定が合うのはだいぶ先になっちゃうけど、でも、約束が出来た。俺はその次の約束に、賭けることにした。


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