待つのは落ち着かない
仕事終わりの更衣室。
着替える前にまず携帯を手に取り、新着のメールを確認する。送り主や題名を見ながら下向きの矢印を連打するが、定時後すぐのこの時間に届いているメールなんて、せいぜい、どこかの居酒屋からのダイレクトメールくらいだ。分かっているのに、気が急く。結局、待っていたメールは、ない。
がっくりと肩を落としていると、後ろから声がかかる。
「おい、大島。俺もロッカー開けたいから、そこで固まってないで、服出したらちょっとどいてくれ」
同じチームの先輩だ。入社してこのチームに配属されてからずっとお世話になってる人だ。
「すいません、すぐどきます」慌ててロッカーから私服を出し、後ろに下がって着替え始める。
「最近ずっとこんな感じだな。なんか楽しいことでも待ってんのか?お前の話を聞いてやりたいとこだけど、俺はもうすぐあっちだからな~」
先輩は、中国工場での指導員兼駐在員になることが決まっている。俺の勤めてる工場での生産品は、マニュアルさえあれば作れるという単純なものではないので、現地での指導は欠かすことが出来ない業務だ。内心、中国工場って何か大変そう、もし自分なら、どうせ海外なら、アメリカやヨーロッパの工場にいきたいとは思うが、今、ものすごく生産が伸びてる工場だから、栄転には間違いない。
「先輩が期待するような話なんてないっすよ。それより、先輩の赴任の話を聞かせてくださいよ、俺、こっちの仕事しっかり守って待ってるんで」
本当に、俺が話すことなんてないし。
家に帰ってビールを空ける。
その分、夜は炭水化物を取らないようにしてるんで、ビールの量がついつい増えても、許されるだろう。許すって、誰がだよ、俺かよ。
むなしく心の中で一人つっこみをする。
テーブルの端に置かれた携帯が、つい視界に入る。ここのところ毎日こんな調子だ。
連絡先を教えろと言われて、とっさに会社の名刺を出して、自分の携帯番号とメールアドレスを書き加えていた。こんなこと、キャバクラではしたことがない。そもそも、あの店に行く以前は、地元の友達と飲んだ後に、ノリで大人数で行くか、会社の先輩に連れて行かれるくらいだ。名刺をもらっても、自分の名刺を返すことなんてないし、聞かれても連絡先は絶対に教えない。あの店だって、あいつの退職の話を聞くために居酒屋で飲んで、店を出て、次はキャバクラって言うから入っただけで...。久々に会えた地元の友達の顔を浮かべるはずが、茶色のおかっぱ頭が浮かんで、思わず、肩を落として息を吐く。
正直、好みだった。小さくてかわいくて。何より、ピアノを弾くときの笑顔が眩しくて。後ろ姿からでも楽しんで弾いてる様子が分かって。目が離せなかった。
あーでも、ないんだろうな。
諦めてるのに、頭からいなくならない。
気持ちを切り替えるためにも、風呂に行くか。工場に大浴場はあるから、いつもは仕事が終わって風呂に入ってから帰るんだが、今日は、先輩にロッカー前で話しかけられたときに慌てて着替えてしまったから、入りそびれてしまった。
狭いユニットバスで簡単にシャワーを浴びて部屋に戻る。何もないと分かっていても、机の上の携帯電話につい目がいく...が、なんかアンテナ光ってるし!
慌てて二つ折りの携帯を開くと、見知らぬ番号の着歴が。まさかと思いつつ、先週、美人のバイオリニストにもらった名刺を取り出して見比べる。090以降の8桁、全てが一致した...。
なぜ、あの短時間でかかってくるんだ。己のタイミングの悪さを呪いつつ、掛け直すかどうかを悩んだところ、着信音が響いた。慌てて取ろうとして、メールの着信音だと気が付き一呼吸おく。
登録してないアドレスで、これも、手元にある名刺にあるアドレスだ。mireiから始まるアドレスは、完全に、営業だろうけど...。
『先週はどうも!もうお客様にはならないだろうから、用件だけ。「今週の日曜、13時、◯◯でいかがですか?急なお誘いなので、ご都合つかないようなら無理なさらないでくださいね」だそうです。私は伝言係はしたくないので、これ以上は、現地で当人でお願いしますね。美麗』
お店の雰囲気と結びつかない文章に驚く間もなく、内容から目が離せない。なんだこれ、待ち合わせ場所を検索すると、どうやら、地元の有名メーカーの工場跡地に建てられた公園らしい。駅から少し歩くが、落ち着いた雰囲気で、デートにぴったりの場所らしい。公園で待ち合わせ?まさかのデート?都合つかないなら無理するなってどういう意味だ?俺が行かなければ、他に用事でも入れるのか?ひたすら混乱する。
とにかく、この週末、予定を入れたのが土曜日で、日曜日が空いてることにほっとした。