バイオリニストとの会話
愛の挨拶が終わってからも、何曲か演奏があって、ディナーコンサートは終わった。
原田と名乗ったバイオリンの男は何枚かCDを出しているようで、いつのまにか、出入口にはテーブルにCDを積んだ仮説の売店が出来ていて、原田はその横に立ち、帰る客に挨拶をしていた。
かなはというと、ピアノの椅子に座って、数人の子どもたちに囲まれていた。
ギャラリーコンサートの時のような元気な子どもという感じではなく、小学校の高学年か中学生くらいの女の子たちで、次々とかなに話しかけていた。女の子たちもどうやら顔見知りのようで、自分が持ち込んだ楽譜を自慢げに見せたり、かなが演奏していた楽譜を覗き込んでみんなではしゃいでいるようだ。
俺の視線に気が付いたかなが、俺に向かって会釈をする。俺も話しかけたいとは思うものの、女の子たちの会話に割り込むわけにもいかず、俺も、会釈だけして帰ることにする。何か話しかけたそうな顔をしてくれた気がするが、気のせいだと思う。いいんだ、俺は、演奏前に少し話せたから。
出入口の前で、原田が俺に声をかけてくれた。ちょうどほとんどの客が帰って、残っているのはかなに話しかける女の子たちと、それを待つ母親たちだけのようで、俺の後ろは誰もいなかった。
「こんばんは。初めていらっしゃったお客様ですよね?本日は、お越しいただきありがとうございました。楽しんでいただけましたか?」
俺より背の低いその男は、俺を見上げながら自信たっぷりにそう声をかけてくる。卑屈になる理由なんて何もないし、この男は、コンサートに来た客に対してただお礼を言っているだけだ。分かっているのに、なぜだか背を丸めて、小さな声が口をつく。
「いや...なんていうか、すごかったです。クラシックは全然分からなくて、どこかで聴いたことがあるなって思う程度の曲ばかりだったんですけど、曲の前後に解説もしていただけたんで、楽しめました」
「男性でお一人で来てくださるお客様は珍しいので、楽しんでいただけているかと、僕も少し緊張していたんですよ。そうおっしゃっていただけて良かったです」
「あ、やっぱりそうですよね。勢いで行くとは言ったものの、ディナーコンサートなんて来たことないし、男一人ってなんとなく浮いてしまうんじゃないかと、けっこう心配でした。ただ、演奏が始まってからは、周りがどうこうとかは全然気にならなくて、楽しんで聴いてましたよ」
「すみませんね、うちのかなが急にお誘いしたようで」
はっとして、原田を見る。原田はにこやかな顔を崩さず、でもどこかにやついた様子で、言葉を伝える。
「お客様で急にキャンセルが出てしまって。そのことを本番前の打ち合わせでお店から聞かされたときに、かなが、あなたをお誘いするって言い出したんですよ。来ていただけて、お店としても、僕としても大変助かりました」
「はあ...それはどうも」
「『うちの』かな」って言い方がどうにも気にかかる。こいつ、わざと言ってるんじゃないのか。自然と手を握り締めてしまう。
「かなは、あの子は昔からピアノが大好きな子だったんですよ。最初は僕の伴奏だけだったんですが、気が付いたらどんどん知り合いを増やして、今ではあちこちで弾いてますので、もし
良かったら、これからも聴いてやってくださいね。もちろん、僕が一緒にいるときも、ぜひいらしてくださいね」
何も言い返せない。何なんだ、こいつは。
無性にイライラする。
俺の表情に気が付いたのか、原田は、こう付け加える。
「すみません、ちょっと言葉のニュアンスがうまく伝わらなかったようで。僕とかなは、師弟関係もあるんですけど、今は大切な仲間という間柄ですよ。さすがに今は大人になりましたけど、中学から見てる子なので、お客様が心配するような目では見れないんで」
思いきり苦笑される。
別に俺だって、かなのことはかわいいなって思ってるけど、変な目で見てるわけじゃなくて...
多少はそういう目もあるけど、楽しそうに演奏するかなを見るのが単純にいいなと思っただけで...
何か言い返そうと思うのに、言葉が出てこない。
「あ、すみません、お帰りになるお客様がいるので、少し失礼してもいいですか?
いつもありがとうございます。今日はいかがでしたか?」
かなに話しかけていた子どもたちも帰るようで、その母親たちに向けて、原田が声をかける。
その後ろで、かながピアノから立ち上がって、俺に手を振り、会釈してくれる。かなまで出入口に来ると、また子どもたちにつかまりそうだと思ったのだろうか、それとも、もう今日は俺と話す気はないのか、椅子から立ったまま動かない。
もうしばらくここにいて、親子たちが帰ればかなと話せるんじゃないかと思ったが、初めて来る店で、慣れないディナーコンサートの場で、最後まで居座る勇気が持てなくて、俺はそのまま出入口に向かって歩いた。せっかくかなが手を振ってくれたのに、振り返すことすらしなかった。
そのまま車に乗って、エンジンをかける。もしかしたら追いかけてきてくれないかなと少しだけ期待したんだけど、そんなはずもなく、俺はそのまま車を走らせた。さっきのかなの音を思い出そうとするたびに、原田の顔が浮かんできて、俺は、思いきり大きな音量で長淵の曲をかけたまま車を走らせた。