名前
「お帰りになるところを呼び止めちゃって申し訳ないです。大島さん、今日は演奏を聴きにきてくださってありがとうございました。急なお誘いだったのに、ご都合つけてくださって、感謝してます」
通路を曲がって、狭い座席の前をちょこちょこと通って、今、俺の向かいにかながいる...!やっぱりすごくかわいい。ステージの上にいるときよりさらに小さくて、そんな小さなかなは、赤色のノースリーブのドレスを着ていて、そこから伸びる細い腕にドキッとするし、上から目線だと嫌でも見えてしまう鎖骨の窪み、さらさらの茶色いおかっぱ頭はつむじも覗けてしまって。じろじろ見るつもりはないはずなのに見てしまって、そういうのも全部かわいくて、余計に緊張した。
「いえ、こちらこそ、無理を言ってすみませんでした。美麗さんや綾さんにも、ご迷惑をおかけしました」とりあえず謝ると、きょとんとした顔をされる。「いえ、迷惑だなんて。先日、お店にいらしてくださったのに、演奏をお聞かせすることが出来なかったので。それに、しばらくはお仕事の都合でお店に来られないんですよね?」「仕事の都合?」俺の給料的に店に通えないことを言ってるのだろうか。
「メーカーの工場勤務ですよね?お仕事の都合って、土日勤務や夜勤とかのことじゃないかって、美麗や綾さんが言ってましたけど」
えっ、あの人たち、店で延長した俺にあんなに冷たかったのに、なんか、かなには上手に言ってくれてたんだ。何それ、優しい。気遣いに内心泣きそうになるが、へたれな俺は、素直に今の給料じゃなかなか通えないことを吐いてしまう。
「え...そうなんだ。なんだ、土日や夜が空かなくなるわけじゃないんだ」かなが下を向いてつぶやく。本当はただ稼ぎが少ないだけだってことを、どう思われたんだろうか。せっかくあの二人が上手についてくれた言い訳を自分で潰したくせに、口の中が勝手にからからになる。
「あ、ところで、いかがでしたか?本日の演奏は」気を遣って、かなが話題を変えてくれた。
「それは、すげー、あ、すみません、ものすごく、楽しかったです。楽しいだけじゃなくて、面白いも、かっこいいもありました」
「そうなんですか?」
「はい、まず、最初のピタ◯ラスイッチからかっこよかったし面白かったです。俺、けっこうあの番組好きで時間が合えば見てるんで、知ってる曲で始まって安心しました。リコーダーの音がかっこよすぎて、音楽の授業で習ったあの楽器と同じものとは思えなかったです。なのに、かな...さんとリコーダーのサイズが全然合ってなくて、ギャップがありすぎて」危なっ。頭の中で勝手に呼び捨てしてたから、そのまま口に出すところだったと反省する。
かなは一瞬俺を見つめた後に、「そうですよね、名前、悩みますよね。この前は恵理だったから」と言った。俺が呼び方でつまったことを、店の名前か本名か、どう呼べばいいか悩んだと受け取ったらしい。
「きちんと名乗らず失礼いたしました。改めまして、鈴村かなです。かなは、ひらがなで書くことが多いです。本当は漢字もあるんですけど、そっちを書くと違う読み方をされることが多いので、こうなっちゃいました」そうか、鈴村かな、か。かな、なんだ。ヤバい、名前を知っただけなのに、めちゃくちゃ嬉しい。顔が勝手ににやけてくる。
「それより大島さん、サイズ合ってないとか、何気にひどいじゃないですか~」俺がにやけてる理由も勘違いしてるのか、かなが膨れる。ていうか、膨れてもかわいい。にやにやするのを止められずにいると、
「あの、お話中すみません。今日はありがとうございました。かなちゃん、そろそろ撤収準備をしたいから」とリーダーから遠慮がちに声をかけられる。周りを見渡すと、他の客はほとんど帰って、あとは、彼らの友人らしい学生が数人残るだけだった。
「こちらこそ、長々とすみません。あ、今日、すごく楽しかったです。ありがとうございました」頭を下げて帰ろうとする。
「あの、大島さん」かなが俺を見る。
「感想の続き、聞きたいから、今度メールしますね?」なんでそこで語尾を上げて疑問文にするんだよ。無駄にかわいいじゃねーか。
「だったら、俺の携帯...」ごそごそとポケットを探ると、「大丈夫!知ってますから」と遮られる。なんで...あ、あれか。美麗さんから名刺もらったのか。そもそも、俺が名乗ってないのに、名前知ってくれてたもんな。納得して、頷く。
「かなさんに伝えたいこと、まとめておくんで」そう言うと、かなも笑顔で頷いてくれて、みんなのところに帰っていった。