第9話 優秀
帝都アインスワルツに本社を置く、最高級宿屋内。
ストノス侯以下三名の貴族達は、強王国へ出立する準備を整えるため、宿泊した部屋へ戻ろうとしていた。
既にレイ達から同行の合意は取り付けている。説得にそれほど時間がかからなかったのは拍子抜けしたが、その件については気を揉む必要はない。重要なのは先方を待たせないよう、急ぎで部屋を引き払うことなのだ。
廊下を歩き、目的の場所へたどり着くと、二人の貴族達が先に入室する。それからストノス侯は室内へと足を進めた。自分が最後尾である為に、廊下に誰もいないか確認する。
──問題はない。ストノス侯は静かに扉を閉めた。
「やりましたな、ストノス侯!」
「ようやく我らにも運が向いてきましたぞ!」
二人の男達が両腕を突き上げて叫ぶ。狂王という化物から抑圧され続け、溜まったストレスを解放させた人間の、躍り上がるかのごとき咆哮だ。
「声を落とせ。耳があるやもしれん」
ストノス侯は二人の貴族達へ手振りを交えつつ頭を冷やすよう告げる。もちろん、彼らの気持ちは痛いほど分かる。ハイラント王国への通行許可をもらう為の、女帝との交渉は破談し、斬首を待つばかりであったところで、竜人を強王国へ迎えるという狂王からのもう一つの命令を達成出来そうなのだから。これで感情を抑えろというのは酷だろう。
特にこの二人の盟友とは、これまで幾多の無理難題をこなしてきた。それに比して苦労も蓄積している筈だ。
ストノス侯は感謝の念を視線に込めて、目の前で熱い抱擁を交わしている二人の男達を見つめる。
彼らの顔はここ数年でかなり老け込んだ。年齢的には四十前後なのに、もっといっているように見える。そしてそれは自身も同じだ。かつては持て囃された端正な顔も、今では枯れ木を思わせる。
しかし、だからこそ、感情を爆発させるにはまだ早い。
「喜ぶのは無事に帰れてからだ。それまではポーカーフェイスを保つように」
任務はかの竜人を狂王に会わせるところまで。気を抜けば、この降って湧いた最後の希望が失われるかもしれない。ストノス侯はそんな結末は嫌だった。
「侯よ!!」
一人の貴族が鋭い声を飛ばしてきた。
突然どうしたのかとストノス侯は疑問に思う。
「何なんだ一体。声を落とせと言っただろう」
「ほお」
「……ほお?」
「はい。ほおです」
何かの暗喩かメッセージだろうか。脈絡のない言葉にストノス侯が混乱していると、眼前の貴族が上機嫌な様子で言った。
「頬が弛みきっておりますぞぉ?」
ストノス侯はハッとする。それから手を当ててみれば、確かに自分の口元はだらしのない曲線を描いていた。
「ポーカーフェイスはどうされたのですかな?」
「体は正直なようですな!」
底意地の悪い笑みを浮かべながら、二人はストノス侯を煽る。
「せめて今くらいはよいではありませんか」
「然り! ここは帝国最高の宿屋なのですぞ。各国の要人すら利用するだけあって、防音もしっかり施されております」
ストノス侯は室内を見回す。護衛の私兵は左右の隣室に待機しており、この場には自分達しかいない為、目はない。
「……いやしかし、万が一にも漏れればことだ。それに、相手方を待たせるのも不味いだろう」
「今日まで我々が生き残れたのは侯のお陰なのです。最大の功労者たる貴方が喜ばずしてどうされるのですか」
「これ以上の我慢は心が壊れてしまいますぞ。ささ、侯よ。時間がないならばこそ、今すぐに共に分かち合いましょう!」
背中を押してくる二人に、ストノス侯の精神は揺れる。
「良いのか? 私は……本当に喜んでも良いのか?」
対面の二人が深く頷いた。
ストノス侯は堪らず、勢いよく顔を上げる。そして吹きこぼれる感情に従い、口を大きく開ける。
「うおおおおおおお!!!」
両拳を握りしめて叫ぶ。
「うおおおおぉぉぉおおうおうおうぉぉおおお!!」
息が続く限り絶叫し、やがて声が嗄れ、顔が真っ赤になる。それでも感情が収まらずに息継ぎをすると、次の瞬間には再び歓喜を吐き出す。
「私は頑張った!! 頑張ったんだあああ!!!」
ストノス侯はどんどんと床を踏み鳴らす。柔らかな絨毯が衝撃を吸収してくれるお陰で、どれだけ跳び跳ねても外野にはバレなかった。
思い出されるのは、狂王からの高圧的な命令。それは常に死と隣り合わせだった。成否を報告するだけでも極度のストレスがかかり、言葉一つに細心の注意を払わなくてはならず、胃は盛大に荒れた。
日々悪夢にうなされ、ただでさえ少ない睡眠時間が削られてしまい、深く染まった隈はより濃さを増す。まさに悪循環である。
そしてそんな生活が二年も経つ頃には、妻からは男として見られなくなった。それは多忙によるすれ違いが原因ではない。むしろ良妻である彼女は、自分の傍に寄り添ってくれたのだ。
では何故なのか。
──この顔のせいである。
この邪悪に執心する魔術師のごとき顔が、妻から女としての欲望を奪ったのだ。手を握れば諭されるし、肩を抱けば身を引かれる。認めたくはなくとも、拒絶されているのは明らかだった。
なのに──。それなのに、彼女は必ず自分の隣に座ってくれるのだ。
だがしかし、その善意は却ってストノス侯を苦しめた。届きそうで届かないもどかしさがあったのだ。
「俺は逃げなかった! やりきったんだ!!」
ストノス侯は自己を肯定する言葉を繰り返す。自分以外の誰にも出来なかっただろうという思いと共に。
そこまで感情を放出して、ようやくストノス侯の視界に二人の仲間の姿が入る。
「お前達もだ!! ここまでよくついてきてくれた!! ありがとう、本当にありがとう!」
「侯!」
二人の成人男性がストノス侯の胸へ飛び込んでくる。骨と皮ばかりの身体つきであるストノス侯はそれを受け止められず、床に倒れ、押し潰される。
重い。
──しかし、心は羽のように軽かった。
それからしばらくの間笑い合い、やがて一人一人立ち上がる。空気には未だ興奮の色が残っていたが、叫び声は発さない。任務はまだ終わったわけではない、という認識を全員が共有していたから。
上質な思考回路を持つ三人の貴族達は脳を冷却させる。そして各々、一人用の椅子を持ち寄り、そこに座って膝を突き合わせる。今どき、貴族令嬢のお茶会でも見られないような密談現場の風体だ。
「さて、喜ぶのはここまでにするとしよう。早速だが本題に入る。……諸君らも理解している通り、我々にはもう後がない」
ストノス侯は沈痛な面持ちで現状を宣告する。
「いいか。何としてでも、竜人殿に狂王と面会していただくのだ。そうでなくては民が……いや、改めて二人に聞きたい。仮に今回の任務に失敗した場合、どのような事態が想定される? 自由に述べてくれ」
「人体実験を隠そうともしなくなるでしょうな。大手を振るって民を浚う筈です」
「女帝を欲し、帝国へ攻めることも考えられますぞ。それも各国への根回しもせずにです」
「うむ、相違ない。私も同じ意見だ。付け加えると、宣戦布告すら出さないだろう。……野蛮な襲撃だ」
それはつまり、強王国は確実に世界地図から抹消されるという事だ。
いくら大国とはいえ、そのような暴挙は許されない。非難声明を出され、集中砲火に遭うだろう。まだ東大陸で侵略戦争を行っているという、オーベルング王国の方がルールを守っていると言える。
そしてそのような事態に追い込まれた場合、列強たる強王国でも耐えられない。例えば他の五大国と超大国から一人ずつ強者を派遣されるだけで、強王国領はまるごと更地になってしまうだろう。一人の強者の威力とはそれ程のものであり、一軍に勝るのだ。
──忌々しい。ストノス侯はそう思う。それだけ好き放題やっても、狂王は国を捨てて逃げられるだけの力を持っているのだから。
「我々がやるべきことは少ない」
ストノス侯は襟を正す。貴族である自分にとって、この仕草が集中力を高めてくれる。
「あの方達のご気分を損ねないようにするのだ。同じ馬車に乗って、我々が心血を注いで歓待をする。それだけで良い」
余計なことをする必要はない。僅かな会話からレイ達に対して抱いた疑問や突っ込みどころも、ストノス侯の仕事には関係ないのだ。
「そうですな。あの方は吸血鬼ではありますが、話によると吸血衝動を抑えられるそうですし問題はないでしょう。まあ、たとえそれが嘘でも、我らにとっては危険な綱渡りなど今さらのことです」
「ふふっ。それどころか天使なのではありませんか? このようなタイミングで私達の前に現れてくれたのですから」
軽い笑い声が漏れる。
自分達が日常的に相手をしている存在がこれ以上ない化物である為に、種族の垣根など些細なことだった。助けてくれるなら悪魔でも不死者でもモンスターでも人間でも等しく英雄だ。
「さて、分かっているとは思うが、あの方達の目的を詮索したり駆け引きを試みたりはするな。ひたすらに肯定し、称賛だけしていれば良い」
「畏まりました」
「狂王へお通しするまでの時間稼ぎ、ということですな」
ストノス侯はその言葉に対して首肯すると、話のまとめとして発破をかける。
「あと一息だ。最後の力を振り絞るぞ!」
はっ、という二人の力強い返答を受け、ストノス侯は荷物をまとめ始めた。
◆
レイは馬車に揺られていた。
いや、揺れているというのは正確なところではない。強王国の侯爵が所有するこの馬車は、対象の警護とその威光を示す目的から、非常に高性能な作りとなっており、三半規管をかき乱す振動とは無縁な、快適な空間が広がっている為だ。それはランドの尻尾が車内に収まっている事からも分かる。空間に余裕があるのだ。
だからこそ、レイは対面に座るストノス侯に話しかける。彼が折角の空気感をぶち壊していた為に。
「そう固くなる必要はないぞ、ストノス殿」
「法王陛下。寛大なるご配慮、痛み入ります」
「…………」
あまりに丁寧過ぎる返答だ。レイは頭を抱えそうになる。
なんでもストノス侯の話では、強王国の王がランドに会いたいらしく、王城へ招待するとのこと。
それならばと、レイは自らが吸血鬼である事や、法国という国家を築くために動いている最中だと伝えた。前者については、帝国の上層部には吸血鬼だと知られたので、隠蔽する意味をそれほど見出だせなかったから。そして後者の狙いとしては、ランドから教えてもらった交渉のコツ──上位者としての態度を示すという手段を試す、絶好の機会だと考えた為である。
とはいえ、それも今では軽率な判断だったと確信していた。レイは重い動きで、ちらりとストノス侯の様子を窺う。
「そのような崇高な仁徳すらお持ちでいらっしゃるとは……。法王陛下の慈愛には、神すらもひれ伏すことでしょう」
怖い。
怖すぎる。
先ほどからずっとこの調子なのだ。言葉こそ称賛の類いのものではあるが、彼からは宗教に狂った者と似たような、話が通じない臭いがする。
何というか、ストノス侯の理想通りに振る舞わなくてはならないような強迫観念に囚われてしまうのだ。少しでもそれから外れると、何をされるか分からないような恐ろしさがある。
「いえ、ストノス侯。それは違いましょう。神は私達の前にご降臨なされたのですぞ」
「まさに。伯の仰る通りですな。私には見えますぞ。御方の背に後光が差している、その偉大なお姿が」
ストノス侯の左右に座る、そこそこ年のいった二人の貴族達が大袈裟にレイを称えた。
それに対して侯爵はすぐさま首を振る。
「それこそ違う。法王陛下を神なんぞと同じにしては失礼だろう。あんなものは敵でしかない」
「はっはっは。確かにそうですな」
穏やかに笑い合う男達にレイは戦慄する。
彼らに冗談を言っているような雰囲気はない。談笑しているのは表面的なものに過ぎず、よく見れば目の奥が笑っていないのだ。
それが恐ろしい。
恐らく、ストノス侯は不死者である為に、神聖な存在を敵視しているのだろう。しかし、それにしても過剰な褒め方だ。彼の発言は、神よりもレイの方が格上だという考えを示しているのだから。
(吸血衝動の話をしたのは失敗だったか)
ストノス侯が "咬みつき衝動"を抑えられているというのは分かる。したがって、今回に限っては大丈夫だろうと判断し、レイは自らの吸血衝動を抑えられると説明したのだ。
(あの話をしてから、より持ち上げが酷くなったし……。多分、今までに"衝動"を抑えられた不死者と出会ったことが無かったんだろうな)
レイはエストという前例があったので、そこまでの驚きはない。
一方でストノス侯は、レイとは違ってようやく自分と同じ境遇の者を見つけられたと思っているのだろう。
ではそんな共感を覚えている相手には何と声をかけるのが正しいのか。レイは頭の中で慎重に言葉を組み立てる。そして意を決すると、ストノス侯へ話しかける。
「ストノス殿。先も言ったように、楽にしてもらって結構だ。我らは国は違えど、仲間のようなものではないか」
「おお、私ごとき木っ端を仲間と仰ってくださるだなんて。流石は法王陛下──流石は、法王陛下!!」
何が流石なのか。
レイは身の危険を感じる。自ら木っ端などと言って卑屈になられては、流石に引いてしまう。
過大評価も行き着くとこまでいけば、恐怖を感じるものだとレイは思い知った。
(何らかの作戦なのか? 本心であるより、そっちの方が安心出来るのも歪な話だが……。仕方ない、この辺で止めておくか)
彼らの態度を変えさせる計画を諦めると、レイは頭を捻る。
質問したいことは幾つかある。とりわけ彼らが帝国に来た目的なんかは聞き出したい。
「ところで、君たちは何ゆえ帝国へ赴いたのだ? 私達は法国に関する話で足を運んだのだが」
喜色に満ちていたストノス侯の瞳が、一転して彷徨うように泳ぐ。
王が己の目的を話すという譲歩を行っておきながら、その問いかけに答えない選択を取るのは非常に困難だ。レイ自身、皇帝のそれにはかなりの強制力があると学んだばかりである。
「ふと気になってね。聞かせてくれないか」
「あ、そ、その……」
「どうした?」
「申し訳ございません! 国家の機密に抵触することでして、お答え出来ません!」
ストノス侯は勢いよく頭を下げた。左右の男達も同じくらいの激しい動きでそれに続く。
「お答えするのが当然の身だとは理解しております! しかし、何卒お許しください!」
想定以上の反応にレイが面食らっていると、横にいるランドが圧力をかける。
「へー。陛下のご質問に答えられないって言うのかい? それは驚きだね。あ、そう言えばそうと、陛下はこの馬車に乗って帝国を出発されたんだった。そうだよね、ストノス殿」
「あ、ああああ……」
ストノス侯が声にならない声を出す。
その様子に、レイは疑問符を頭に浮かべる。
──いくらなんでも怯えすぎでは無いだろうか。
確かにランドの発言は脅しになっている。レイ達──つまりは法国と強王国が接触を持ったと帝国に知られたんだぞ、と迫っているわけだ。それもストノス侯たっての希望で。
彼らにとっては苦しい状況だろう。しかし、それにしたって苦しみ過ぎているように思える。まるで死にかけの蛙だ。
(いまいち背景が掴めないな。一貫しているような、していないような……。まあ、あまり苛めるのは気分が良くない。ストノス侯の言ってることは強王国の貴族としては当たり前なんだし、悪いのはむしろこっちだな)
「頭を上げてくれたまえ。なに、そこまで気にする必要はない。ちょっとした好奇心から聞いただけさ」
眼前の男達が頭を上げ、こちらを見つめる。
彼らの瞳孔が異様に開いているのはレイの気のせいだと思いたかった。
(だから怖いんだよ、その目は!)
敬意が重い。
そしてランドがさりげなくウインクしてるのがうざったい。悪役を買ってあげたよ、と褒めて欲しそうな顔をしている。レイは眉間を抑える仕草を堪えると、霧散した気合いを集め直す。
「……では、ストノス殿。その代わりと言ってはなんだが、アルビアート殿への贈り物はどんなものが良いか教えてくれないか? いかな突然の訪問とはいえ、手ぶらというのは味気無い」
これは彼らに聞いている形を装って、ランドへ質問している。ここで重要なのは中身ではない。贈るべきか否かをレイは知りたかったのだ。
ただし、狙いを定めたその問いかけにランドが答える事はなかった。対面のゾンビが口を開く。
「いえ、そのようなお気遣いは無用でございます。陛下は竜人殿とお会い出来れば、それだけで大変満足されると思います」
「そうか」
レイは短く返す。というより、それ以外に術がなかった。
「陛下、それに付随して一つよろしいでしょうか」
ランドが丁寧な口調で言う。賢い彼が横入りしてきたのには相応の理由があるのだと思い、レイは首を縦に振った。
「ありがとうございます。──それでストノス殿。そもそもの話、なんでアルビアート陛下は僕に会いたいのかな? 僕って別に有名人じゃないと思うんだけど」
それはレイも気になっていた点だ。耳を大きくして返答を待つ。
「その質問にお答えするには、一つお伺いしなくてはならないのですが、クエレブレ殿は西にある山脈にお住まいなのでしょうか?」
「うん、そうだよ。というかそうだったね」
「ではその際、何度か強王国の人間とお会いになったと思うのですが……」
「あー。そんな事もあったっけ? 色んな種族がいっぱい来たから、忘れちゃってたよ。あははは」
「は、はあ。そうなのですか。ただ、そんなわけで陛下はクエレブレ殿の存在を知られたのです」
「そういうことね。経緯は分かったよ。じゃあ目的の方は?」
ランドが問うと、ストノス侯は困ったように答える。
「それは……申し訳ございません。私にも分からないのです」
「分からない? なんか途端に会いたくなくなってきたなあ」
「そ! それだけはご容赦ください!」
ストノス侯の落ち窪んだ顔が、一層痩けたようだった。左右の男達も冷や汗を垂らして震えている。
その明確な怯えの態度に、何か事情があるのだとレイは確信した。
「安心されよ。一度交わした約束を違えることはない。クエレブレは私が引きずってでも連れていくさ」
レイがそう告げると、彼らは目に見えてホッとした。
レイもホッとした。
(良かった……。この持ち上げは素じゃなかったのか。なら納得出来る。詳しくは分からないが、何か追い詰められているっぽいな)
彼らはレイとランドの機嫌を損ねるのを恐れているのだろう。どうあっても、ランドを強王国の王に会わせなくてはならないようだ。
そしてそこまで分かると、多少の情も湧いてくる。それは彼らが更なる波乱──帝国との戦争に身を置くことになると、レイが知っていたからかもしれない。
「ストノス殿。何かあるなら、話してくれて構わないぞ? 吐き出すだけでも楽になるからな」
それは軽いトーンで放った言葉だった。
しかし彼にとっては違った。
「うぐっ……ふぐうっ」
「……は?」
「うううっ……失礼いたしました。とんだお目汚しを……。ただ、こんなに優しくしていただいたのは、もう五年も前のことで……」
嗚咽がもれ、しゃくり上げる。それを隠すようにストノス侯は頭を垂れた。
そんな悲しげな光景を目の前で展開されても、レイの心はさほど波立たなかった。つい先刻友達になった少女も突然泣き始めたな、という感想が浮かぶくらいのものだ。
これはレイが薄情なわけではなく、大人が人前──それも赤の他人の前で泣くという行為に、どこかみっともなさを覚えてしまうからだろう。
「ふむ」
レイは無感動に呟くと、ランドに指示を出し、持たせていた荷からハンカチを受け取る。空間に物を保管出来るレイが荷を用意していた理由は、普通の旅人だと見せかける為だ。
レイはストノス侯へハンカチを渡そうとする。これでも吸血鬼だとバレない程度には社会に上手く溶け込んできた経験があり、取り繕うことくらいは当たり前に出来る。それに優しくしておいた方が彼の心証も良くなるだろうという打算もあった。
──しかし、そんな冷たい考えは直後に一変することになる。
「申し訳ございません。法王陛下の御前で、関係のない話をしてしまいました」
顔を伏せたままの力強い声。震えを抑えようと、血が滲むほど握り締めた手。
辛い事情があっても、それでもストノス侯は職務を全うしようとしていた。
それは一人の、戦う男の姿だった。
レイは身を乗り出すと、ストノス侯の両肩を掴む。
反省したのだ。全ての種族を民にするなどと言っておきながら、自分は憐れみを感じやすい者ばかり、気にかけていたのではないかと。
真に全てを助けたいと望むなら、それがたとえ中年の男のためだろうと、走らなくてはならない筈だ。
「君は、疲れているのか?」
ストノス侯は顔を上げ、不思議そうな表情をする。
不死者の肉体は疲労しない。だからレイの質問は意味不明だろう。
だが、その精神は生者と同じように蝕まれるのだ。
「疲れているのではないか、そう問うたのだ。心を偽らずに教えてくれ」
「…………はい。ずっと頑張ってきましたので、もう疲れました」
「そうか。ならば──」
レイはストノス侯に向けて手を翳す。
「ストノス殿、少しでも癒しになってくれればと思う」
彼の安寧を願って、レイは魔法を行使する。
(そうだ。俺がやるんだ。それが助けを求めている者の叫びなら、誰だろうと関係ない!!)
「〈吸命〉!」
「────ぎゃあああああ!!!」
ゾンビの口腔から絶叫が迸った。
びくりとレイの体が震える。
「ああああああ!!」
床に転がり、ゾンビは苦しみに喘ぐ。やつれていた顔がさらにこれ以上ないくらいに歪んだ。
「あああ、あ……」
事切れたように、ゾンビは倒れ伏す。
重い静寂が場を支配する。
レイは目の前で起きたことに呆然とする。
「な、何を!」
「血迷ったか、貴様!」
左右の男達が糾弾してきても、レイの体は固まったままだった。
回復する筈の生命力が削れていく。
その相反する事実は、レイの思考をズタズタに引き裂く。〈吸命〉は最も初歩的な不死者への回復魔法である。なのに何故、眼下のゾンビは死にかけているのか。
いや、結論は分かっている。ただ、それが現実だと脳みそが認めないのだ。
「ち、違う」
ゾンビは生者である。
「違う!」
「何が違うというのだ!」
「これは強王国に対する侵略行為だ! すぐに法国へ派兵を!」
騒ぎ出す男達にレイは焦りを覚え、冷静になるよう告げる。
「待たれよ! ま、まずは落ち着くのだ!」
こんな馬鹿げた誤解から開戦されては目も当てられない。とにかく、なにがなんでも納得してもらう必要がある。
不死者への回復魔法は、当然のごとく不死者にとっては癒しになるが、生者に行使した場合には毒になってしまう。そしてそれは逆もまた然り。
ではその理屈を説明すれば、事態は解決するのだろうか。
実行に移す前に相談すべきと判断したレイは、ランドの方を向く。
しかし救いを求めた相手は、冷や汗をかいていた。
不味い。
これは不味い。
非常に不味い。
退っ引きならない状況だ。
入国を待たずして戦争に突入など笑えない。
「話を──」
「だ、大丈夫だ」
まるで墓地から湧き出るように、ゾンビ──ではなくストノス侯は身を起こす。
「二人とも頭を冷やせ……私は大丈夫だ」
「しかし!」
「繰り返す、大丈夫だ」
苦痛に顔を顰めながら、ストノス侯は定位置に座る。それから意思の力で表情を和らげたように、こちらを見つめてくる。
誤解だと分かってくれたのか──、そう思ったレイの顔色は明るくなる。
「感謝いたします、法王陛下」
「……ぇ?」
「そういうことだったのですよね」
救いはなかった。
彼が何を言っているのかさっぱり分からない。
どうしてそんな澄んだ笑みで感謝をしているのか、そして同意を求めているのか、何もかもが理解出来ない。
(な、何だ、こいつ? まさかマゾヒストなのか?)
絶対に違うと分かっていてもそう思わずにはいられなかった。レイが混乱していると、別口から声が上がる。
「ああ、なるほど……」
「そうか、そうだったのか。これはなんという失態を……。法王陛下、即座に思い至らなかった私をお許しください」
取り巻きの二人が意を得たように、何度も首を縦に振る。
(おい! ふざけるな! 何でお前達はたったそれだけで理解してるんだよ! おかしいだろ!)
地獄の底へと叩き落とされたレイは、腹の底から怨嗟の叫びを上げる。
どうしてこうなったのか。レイは声に出して絶叫したかった。
(畜生っ! 頼む、ランド。何とかしてくれ。もうお前しかいないんだ)
この混沌はレイが引き起こした事態であり、ランドに丸投げするなど最低な行いだ。しかしながら、もはやそれ以外に打開の手は浮かばなかった。
先ほどは冷や汗をかいていたが、頭の良いランドならばこの短い時間で立ち直り、一発逆転の策を編み出している筈。そんな願いを込めて隣に視線をやろうとした瞬間、ランドはスッと座席から立ち上がり、レイの足元に跪いた。
「流石でございます、陛下」
逃げられた。
顔を伏せ、こちらを見向きもしない。
これは間違いなく、お前がどうにかしろという態度の現れだ。
レイは恨みがましい目でランドを見つめる。
しかし当たり前のように反応は返ってこない。
いや──違う。
よく見れば、ランドの肩はワナワナと震えていた。
(こいつ……笑ってやがる……)
味方はいなかった。
──否。
敵しかいなかった。
「おお、竜人殿も歓喜に身を震わせておられるぞ!」
「そうとも! 我らと心が一つになっている御様子だ!」
お前ら全員バカなのか、とレイは口が滑りそうになる。無論、実際にはレイが愚かなのだが。
そんな風に思考を展開している間にも、ストノス侯一派の話はどんどん先へ進む。
「法王陛下に満足していただけるかは定かではありませんが、私の邸宅はそれなりのものでございます。宿としていかがでしょうか?」
「侯! いくら貴方といえども、一人だけ抜け駆けするなど卑怯ですぞ! ここは私めに!」
「はん、子爵であるそなたにどれ程のもてなしが出来るというのか。ここは伯爵たる私にその役目を!」
(ダメだこいつら……。会話にならない。……俺はもう知らんぞ。勝手に勘違いしてるのはそっちなんだ。俺は悪くないからな)
こちらにとって都合がいいように話が進んでいるのだ。わざわざ不利になる必要などない。それに何より、こういった状況では言質を取られるようなことは慎むべきだ。
レイはそうやって自分を騙すことで、現実から目を逸らした。
この時、レイは知る由もないが、ストノス侯は内心でこう思っていた。
(私は何を言っているんだろう)と。
そしてまた二人の貴族達も思っていた。
(ストノス侯は何を言っているんだろう)と。
さらにはランドまでが思っていた。
(こいつは何を言ってるんだろう、って皆して思ってるんだろうな)と。
そんな異体同心、あるいは五者一様の体で、馬車は強王国へと進んでいった。