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第5話 皇妹

 エルマーナはドレスの端を持ち上げ、忙しなく足を進める。

 廊下をすれ違う羊頭の文官やエルフの騎士、ひげもじゃ貴族に兎耳メイド達から遠回しの注意を何度か受けたが、それでもエルマーナの性急な動きは変わらなかった。いや、むしろより慌ただしくなっていた。

 エルマーナは急いでいるのだ。途中で止められれば無駄に時間を取られ、結果的に歩行速度は増すばかりである。

 無論、しっかりとした教育を施されてきたエルマーナが、皇城内に流れる荘厳な空気を壊しているのには理由がある。




 現在の帝国において、皇族の直系である存在はアルシアとエルマーナの二人しかいない。

 適齢期であるアルシアは婿を迎え入れておらず、また世継ぎもいない。そのために万が一を考慮し、エルマーナは大事に育てられてきたのだが、ここでとある問題が発覚した。

 それは戦闘能力の伸びが極端に遅かったということである。

 決して停滞はしない。いずれは大輪を咲かせるだろう事を確信させる成長過程を見せていた。しかしながら今すぐにでも命の危機が無くなる程度には強くなって欲しい帝国からすると、それは大きな障害だったのだ。


 エルマーナの周囲のメイドや騎士達は優しい。彼女の並々ならぬ努力を目にし、肌で実感してきたから。

 だが、それはエルマーナの視点では、才能の無い自分への気遣いとしか思えなかったのだ。

 だからこそエルマーナは発想を転換し、アルシア唯一の弱点を消そうとした。そうすれば自らの姉は誰にも負けない。もう自分には一人しかいない、愛する家族が死ぬことは無い。


 そう心から信じて。


 ──しかし、生まれついての肉体欠損の再生という、未だ実現されていない技術の開発より、自分が強くなる方が現実的で効率も良いのだが、まだ子供であるエルマーナにその判断がつかなかったことは悲劇であろう。




 エルマーナの顔は上気する。(じき)に自分の願いが叶うと思って。

 というのも、皇帝陛下が旅人をもてなすらしい。これは異例の待遇だ。一介の輩への対応としてはあり得ない。

 その事実を元に、エルマーナは旅人が貴重な経験を積んできた強者だと予想し、そして生きた話を直接聞こうとしているのだ。


(きっと足の治し方も知っている筈……)


 エルマーナが期待に胸を膨らませていると、前方にアルシアとゼリイの後ろ姿を捉えた。メイドや騎士を引き連れているためにチラリとしか見えないが、その大所帯こそがそこに皇帝がいる証明だ。

 エルマーナは息を整える。このまま話し掛けては失礼に当たるから。

 落ち着くまでの暫しの間、エルマーナは二人の話し合いに耳を傾ける。


「あの赤い剣に込められた力は異常でしたな。我が国の至宝にも匹敵するほどの品だと思われます」

「ほう。あの甲冑と同等か。それは凄まじいな」

「申し訳ございません。ワタシの失態でこちらの情報も漏れてしまい……」

「レイピアの件か? 確かに差引きではマイナスだな。しかしあれは積極的に攻めた結果だ。私の考えでは、それはミスでは無い」

「……感謝申し上げます」

「それよりも──」


 その後も鍛冶師がどうの、業がどうのという会話が交わされたが、エルマーナにはまるで分からない部類の話だったし、興味をそそられるものでも無かった。したがってエルマーナは勇気を出して会話に割って入る。


「陛下! 少しだけ私に時間をください!」





 緊急事態である。


 貸し与えられた上品な衣服を見事に着こなしたレイの心は、その身なりとは反対に、不運にも平野で雷に打たれた遊牧民の如く荒れ果てていた。

 原因は豪奢な長テーブルの上にポツンと置かれた一つの皿にある。

 そこに乗っている料理は、謎の魚と多種多様な野菜で彩られた、一口で飲み込めそうな前菜。これがレイの前に立ちはだかり、そして背筋を凍り付かせてくるのだ。

 ──逃げたい。そんな気持ちの発露から、レイは周辺視野で他の席の様子を窺う。

 殆どが空席だ。自分の右隣にランドが居て、対面にもう一人が座っている。テーブルの長さに比べると、あまりに寂しい食事の席だと言わざるを得ない。


(うっ! 頭が痛い…………気がする)


 前菜の香りが鼻腔を通ったことで、レイは現実に引き戻される。

 とはいえ、嫌な匂いというわけではない。そして食べられない、食べるわけにはいかない、等の事情があるのでもない。たとえ味が感じられなかろうと、食べた物がどこにいくか不明であろうと、食事そのものは普通に行えるので、レイの正体が吸血鬼だと見抜かれる心配は無い。

 では何故、窮地に陥っているのか。それは──


 こういった場における、マナーの一切を知らない為である。


 レイは静かに怒鳴るという、矛盾した特技で助けを求める。


「お、おい、ランド! 何をどうすればいいんだ!? 全然分からんぞ! 何だこの葉っぱは!? どうやって食べればいいんだ? フォークとかナイフも沢山あるぞ? いや待て! ナプキンはどこに置くのが正しいんだ!?」

「煩いなあ」

「助けてくれ! さっき全力で補佐するって言ってただろ!」

「殊の外気に入られたようだし、取り敢えずは好きにすればいいんじゃないかな。というか、むしろ好都合じゃないか。基本的なマナーすら知らないような野蛮人が王だなんて思われないさ」

「それはそうだが、そうするとあれだろうが! そっちは上手くいっても、あっちの狙いが外れてしまうだろ? だから俺達がすべきなのはそれらの両立であってだな……。分かるだろ!?」


 はあ、とランドは溜め息を吐く。


「さっぱり分からないよ。ふざけてるのかい?」

「いいから、早急に打開案を考えてくれ……!」

「少し落ち着きなよ。今さら足掻いてもどうしようも無いじゃないか。ほら、深呼吸して」


 この状況で落ち着いてなどいられないが、確かに焦っていると普段はやらないような失態まで犯してしまうものだ。

 やけに冷静なランドに八つ当たり気味の感情を抱きつつも、レイは深呼吸をする。

 ──僅かに精神が安らいだ気がした。レイは声を落としてランドへ話し掛ける。


「よし。落ち着いたぞ」

「そうかい。それは良かったよ」

「ああ。それでランド、俺は次に何をすればいいんだ?」


 ランドの頬がひくついた。


「全然落ち着いてないじゃないか……。これじゃゴーレムと変わらないよ……」


 失礼なことを言わないでもらいたい。分からない事があれば分かる者から聞くのが一番手っ取り早いのだ。無駄を省いたと捉えて欲しいところである。


「……もういいや。それで打開案だっけ? それなら僕の真似をすれば間違いは無いと思うよ。君は視野広いだろうし、こっちをチラチラ見ないでも何とかなるだろうからね」

「おおおお……! それは素晴らしい案だ。お前を仲間にして良かったよ」

「……その言葉はもっと重要な場面で言われたかったよ」


 少々寂しげに呟くランドを、レイは視界の端に入れておく。無論、ランドの行動を真似ていると悟られないよう、十二分に注意を払うのは忘れない。

 それから外側の食器を手に取ろうとした時、初々しくも可憐な声が向かい側から届いた。


「レイ殿」


 レイの動きが固まる。


「お話しの最中、申し訳ありません。少しよろしいですか?」


 レイは正面を向く。そして自分では爽やかだと思っている表情を作ると、対面に座っている少女へ返事をする。


「いかがされましたか? エルマーナ殿下」


 テーブルを囲むもう一人の存在。それは女帝の妹だった。

 女帝本人がホストとして自分達の相手をするのだろうと思っていたレイの予想は裏切られたのだ。


「レイ殿のお話を聞かせていただけませんか? 私、冒険譚が大好きなのです」


 エルマーナは両手を胸の前で組んで嘆願した。

 レイは丁重に辞退する。


「殿下、大変申し訳ございません。私としても殿下の願いを叶えることが出来れば望外の喜びなのですが、語れるほど派手な旅路では無かったので、どうかご容赦を」


 頭を下げたレイに対し、エルマーナはゆるりと首を横に振った。


「私はそうは思えません。陛下が賓客として直接遇する方は、他国の王族を除けばレイ殿とお連れの方が初めてですから」


 レイの瞳に鋭い輝きが宿る。それを隠すように僅かに目を伏せる。


「──身に余る光栄です」


(王族に匹敵する評価だと? これは考えを改める必要があるな……)


 皇配のことは後で考えるとして、今は可能な限り女帝の心証を良くするように動いた方が賢いかもしれない。

 というのも、レイは法国の将来性が高いことを自覚していたからだ。

 軍事力である己とランド、技術力であるエリヤ、資本としてレイの空間内に膨大な財宝、国威を示すレウスロッド、さらにそれらを押し上げるための領土は広く、周囲の環境を考慮すれば資源も豊富な筈。

 つまるところ法国には、現時点で巨大な国家へと成長するだけの土台が揃っているのだ。


(だからこそ危険視されるんだ。法国の成長を、帝国がただ指を咥えて見ているわけがない。その辺も、俺が法国の存在を隠しておきたかった理由なんだが……。そうも言ってられないかもな)


 法国を隠しておいたとしても、何かの拍子に発覚すれば目の敵にされてしまうだろう。それくらいだったら、今の内から友好的だとアピールすべきだ。

 犯罪なんかも自首した方が多少は刑が軽くなる。それと同じ理屈だ。

 同盟は無理でも、敵対はされないように持っていく。最高でなくとも最低限の結果は出す。


 ──と言いたいところなのだが、そうなると必ずランドが出張ってくるだろう。


(やはり同盟は必須。初志貫徹だ。となれば……女帝を陥落させるのが最善か)


 女帝からの絶対的な信頼さえ得られれば、何が起きても──皇配関連の件は多少面倒な事にはなるだろうが──同盟を結ぶことが可能となるだろう。まさに最高の結果と言える。

 やるべきことを再確認したレイは、エルマーナに語る冒険譚について思いを巡らせる。戦でも馬から仕留めるのは基本だ。


(女の子なんだから、鉱雪結晶(こうせつけっしょう)にまみれた竜巻が収まった後の景色について話すか? 結晶の実物も見せれるし喜ぶ筈だ。……いやでも、この子は冒険譚が好きだと言ってたな。なら、ここはモンスターを豪快に倒した話をすべきだろう。出し惜しみは無しだ。とっておきを披露しよう)


「それでは、お言葉に甘えて失礼します」


 レイはぽつぽつと語り始めた。





 結論から述べよう。

 レイのとっておきの話はウケなかった。

 悲しくも早い段階でそれを察知したレイは、早々に話を切り上げ、別の話題にすり替えた。しかしそれも手応えを感じられなかった為に、もう一度話を変えたところ、ようやく芳しい反応が返ってきた。

 内容はヒュドラ討伐。

 再生する九つの首を持ち、小山と見紛うほどの巨躯を揺らす強大なモンスターに、エルマーナは興味を示したのだ。

 ただし、その話もそろそろ幕が下りようとしていた。


「──というわけで、九つの首を同時に落とし、私はヒュドラを打ち倒したのです」


 話を締め括ると、レイはエルマーナの反応を窺う。

 エルマーナは数度満足げに頷いた。


「ありがとうございます。大変興味深いお話でした」


 手応えあり、とレイは内心で薄く笑う。


「それで……その後ヒュドラの亡骸はどうなったのでしょうか」

「……亡骸、ですか?」


 レイは戸惑う。最初に出てくる感想が亡骸についてとは、一体どういう了見なのか。


「いえ、レイ殿に何かあるわけでは無いのです。ただ……そのヒュドラが死した後まで辱しめられていなければいいなと思っただけで……。お気を悪くされたのならお詫びします。も──」

「大丈夫ですよ。謝罪の必要はありません」


 レイはエルマーナの瞳を見つめると、優しげな声音で同じ言葉を繰り返す。


「大丈夫です」

「……そうですか。感謝いたします」

「勿体無いお言葉です」


 レイは軽くお辞儀をしつつも、やはり彼女はプロスト帝国の皇族なんだな、と思った。倒された化物の側にも寄り添えるのだから。


「殿下の御心を悩ませているヒュドラの亡骸に関してですが、伝染病などの発生を防ぐため火葬しました。ですので、一切の心配はございません」


 無論、嘘である。

 ヒュドラの死体は素材として有効活用した。モンスターに限らず、強大な存在の肉体は宝の山なのだ。基本的には武具防具の強化の為に利用する。ただ、エルマーナの前でそんな事を言う必要はない。


「……それなら良かったです」


 エルマーナは慈悲深い笑みを浮かべた。

 レイも笑顔で応対する。

 やはり真実を伝えなくて良かった。危うく無垢な子供の、健やかな成長を妨げるところだったのだ。現実の残酷さや過酷さを知るのは、まだまだ先でいい。


(子供で思い出したが、メルーシャの年を聞くのを忘れてたな。多分、あの感じだと成人はしていないとは思うが……。あの娘の成長も注意深く見守らないとな。それに他にも子供がいるんだし、しっかりとした教育機関を設立したいところだ)


 レイが思い描く国を形にするには、そういった部分が非常に重要となってくる。

 ゆえに参考すべき例として、一般的な教育機関である大学に目を向ける必要があるだろう。無論、それは帝国にも存在しているため、調査の項目にチェックを入れている。


(教室の風景くらいは見てみたいな。帰りに立ち寄ってみるか? 女帝に言えば許可をくれるかもしれないし)


 脳裏に浮かぶのは想像上の授業の景色──ミノタウロスの大きな背に隠れる妖精の姿だ。

 なんだかカンニング対策が大変そうだな、とぼんやりと思った辺りで、レイは頭を軽く振って想像を消す。今はエルマーナとの会話に集中すべき時である。


 レイが正気に戻ると、室内に控えていたメイドがテーブルの上の前菜の皿を下げにきた。

 その後、三品目であるスープを運んでくる。

 ちなみに、前菜の一つ前にも謎の料理が出されたが、それが何だったのかはレイにはついぞ分からなかった。


(前菜という名前なのに、何故それよりも前に料理が出てくるんだ……。本当に納得しがたい世界だな)


 マナーという先人が積み上げた偉大な歴史にレイが立ち向かっていると、隣の席でランドが称賛の声を上げた。


「しかし、頂いている料理はどれも素晴らしいですね。流石は六大国である帝国です。たとえ毎日同じ物でも、飽きなどこなさそうだ」

「全くもってクエレブレの言う通り、羨ましい限りです」


 レイはランドの話に即座に飛び付く。血液以外に味を感じないレイには全然素晴らしく無かったが、まともな味覚のあるランドが褒めた以上、同調しておけば間違いはない筈だ。

 レイが確信していると、エルマーナはテーブルをぐるりと見渡し、そして噛み締めるように頷いた。


「そうですね。確かに私は恵まれていると思います」


(さっきからことごとく優等生な答えを返してくるな、この子は。普通はこのくらいの年齢でそういう風には思えないだろうに)


 皇族に生まれた以上はたとえ子供でも我が儘を言えない、という事なのだろう。


(まあ、こういうのもロスコーが言うところの王族たらんとす、的なアレなんだろう。また一つ勉強に──)


「だって、私は健康ですから」

「――――」


 レイの心が激しく掻き乱される。まるで巨大な渦潮(うずしお)の中に放り込まれたようだった。

 六大国の王族とは、この世界の最上位者といっても過言ではない。

 そんな圧倒的な存在として生まれ、何もかもが手に入る立場でありながら、彼女は健康である事こそが最も幸せだと感じているのだ。


 それは──これ以上無い説得力に満ちているのではないだろうか。


 まさに清廉潔白。レイはエルマーナを、ただの幼い少女だと侮ってしまっていた。


「とても……とても、素敵なお考えだと思います」


 純粋な敬意を込めて、レイはエルマーナに頭を下げる。皇族とはいえ子供に頭を下げる形だが、レイの自尊心が傷付くことは無かった。

 素晴らしいものは素晴らしいと正直に称える。それはレイにとって当たり前のことだ。相手の年齢によってレイの対応が揺れる事はない。

 そしてこの時に初めて、レイはエルマーナと踏み込んだ会話がしてみたいと思った。ゆっくりと頭を上げていく。


 レイは目を丸くした。


「……そう、でしょうか」


 掠れた声だった。


「私は……皇族として、ちゃんと出来ているのでしょうか」


 エルマーナの目尻に大粒の涙が溜まる。

 突然の事に、言葉が喉でつかえて出てこない。


「私は……」


 エルマーナの声はそこで途切れ、そして顔が伏せられる。




 その後に続いたエルマーナの言葉──「才能のない私だったら良かったのに……」という呟きは、この場にいる誰にも聞こえないほど小さなものだった。




 レイは無言で、嗚咽を噛み殺す少女を眺める。

 年相応の少女だ。つい先刻までの凛とした雰囲気は消えている。

 彼女とは出会って間もない。時間にすれば時計の針一周分にも満たない程度の付き合いだ。そのために共感を覚えるのは難しい。まして、今は死の危険が差し迫っているなどの特殊な状況ではないのだ。これで分かったような口をきく方が胡散臭いだろう。

 ただしその一方で、レイはそれなりに自己を認識していた。自分の弱みだとは分かっているが、こういった場面にぶち当たると、何とかしてやりたいと思い、そして行動してしまうのだ。


 顔を伏せ、下唇を噛む少女。その弱々しい姿にレイはメルーシャの幻影を重ねた。

 あの時は、ある程度事情を察することが出来た筈だった。処刑されかけていた光景を目撃したのだから。にもかかわらず、レイはそれが出来なかった。

 ならばその時の経験を踏まえて、今回こそはきちんと手を差し伸べなくてはならない、そう思うだろう。

 しかしながらそれは無理だ。

 エルマーナの背景に何があるのかなど、レイには全く分からないのだから。メルーシャの時とは状況が違う。


 出来ることなら、溜め込んだものを吐き出させてやりたかった。そして彼女の欲している言葉をかけてやりたかった。しかしレイは、その為の手段を知らない。

 だから──。


「……エルマーナ殿下。よろしければ、他にも幾つか私の冒険譚をお聞きいただけないでしょうか?」

「──え?」


 エルマーナは驚いたように顔を上げる。その頬には、一筋の涙が跡を残していた。

 それでもレイは、怯む事なく笑いかける。


「殿下とのお話は、すごく楽しいですから」


 レイの言葉を受け、エルマーナは目を白黒させた。混乱から困惑、そして探るようにし──静かに笑い始める。


「ふふっ。ふふふっ」


 笑いが止まらず、再び涙が滲み出す。だがその涙は、先程とは別種のものだ。

 エルマーナはハンカチを取り出すと、目尻を拭う。


「ありがとうございます、レイ殿」


 何が、とは、レイの口からは言えない。つまらない慰めに応じてくれて、むしろレイの方が感謝したい気持ちで一杯だった。


 冒険譚などと言えば聞こえは良いだろう。しかしながらその実態は一方的にレイが喋っているだけであり、会話に属するようなものではない。

 つまりは誰に話しても同じこと。

 にもかかわらず、レイはエルマーナと話すのが楽しいと言ったのだ。

 実に陳腐な皮肉であり、婉曲な割には上手くもない冗談である。レイはそう自嘲するものの、少しは効果があったらしい。暗さが消えたエルマーナが口を開く。


「レイ殿はお優しいですね」

「……さて、申し訳ありませんが、何のことかさっぱり見当がつきませんね」


 レイはとぼける。そんな風にぶん殴らないで欲しい。というか掘り返さないでもらいたいところだ。

 レイがなんとも言えない微妙な感情に打ちのめされていると、エルマーナがおずおずと声を発した。


「あの……レイ殿」

「どうされました?」

「その……」


 口を開き、閉ざす。そんな典型的な、躊躇うような仕草をエルマーナは繰り返し、やがてもじもじと照れたように言った。


「私が泣いていたことは、内緒にしていただけませんか……?」


 思わず、レイは懐古の念に囚われる。


(そうだったな……。子供の頃は、泣いたってバレたくなかったよな)


「そうですね……」


 レイは間を埋める為に適当に言葉を放つ。しかしながらエルマーナは、それをレイが拒絶したと捉えたようだ。こちらを上目がちに睨み付けながら、ボソリと呟く。


「もし誰かに言いふらしたら、レイ殿に意地悪されたって陛下に告げ口しますから」

「──なっ!?」


 エルマーナは頬を膨らませ、そして叫ぶ。


「レイ殿なんか嫌いです!」


 落雷が全身を貫いたようだった。

 魂が身体から押し飛ばされた錯覚に襲われる。

 極寒の大地に裸で立たされた気がした。

 死神のお迎えを幻視する。

 そしてあまりの衝撃に──レイの声が震える。


「そ、それは困ります」


 おかしな返答だ。しかしそれだけ、レイは混乱していたのだ。

 先ほどまでの余裕が消え、レイは動揺を隠しきれない。

 対してエルマーナはハンカチで口元を隠しつつ、うふふっと笑う。


「冗談です」

「……なに?」

「冗談です」

「…………」

「ごめんなさい。お返しをしたくなっちゃって、つい……」


(こいつ……)


 レイは子供の癇癪に怒りを覚えるタイプではないが、流石に十歳程度の少女に良いように操られて何も感じないわけではない。

 本当に何か意地悪でもしてやろうかとレイが思ったとき、エルマーナがこちらの顔色を窺うように見つめてきた。


「……怒っちゃいましたか?」

「ははは、何を仰いますか。小指の爪ほども怒ってなどおりませんよ」


 レイはにこやかに笑う。見事な反射神経だったと我が事ながら感心する。鏡があれば自らの笑顔を見てみたかったほどだ。


「ほっ。良かったです。実は私、冗談を言い慣れていなくて……。嫌われちゃったらどうしようかと不安でした」

「私が殿下を嫌うなどあり得ませんよ。それに、お上手でした」


 自分の為にも、フォローは入れておくべきだ。


「お世辞でも嬉しいです。──あ! でも、私が泣いたことは本当に内緒でお願いします。クエレブレさんも、皆さんもですよ。この事は私との秘密です」


 エルマーナが人差し指で唇を抑えると、室内に控えていた幾人かの騎士とメイド達が、緩みかけた表情を隠すように頭を下げた。ランドもそれに続いてお辞儀をする。


(配下からも慕われているんだな。本当に良い国だ)


 前向きな心地好さがレイを包み込む。

 そしてだからこそ、根本的な疑問がレイの頭をもたげる。


(周りからのプレッシャーに耐えかねて決壊した、とかそんな理由で泣いたわけじゃないのか……。皇族として、か。俺にはまだまだ分からない領域の話だ。もう少し打ち解けたら、さりげなく聞いてみるか)


 それから食事をしつつも冒険譚を語り──冗談だったがエルマーナに請われたので──、エルマーナと大分打ち解けてきた四つ目の物語が終わりを迎え、五つ目に差し掛かろうとした頃、女帝とゼリイが入室してきた。


「待たせたな」


 女帝の挨拶に合わせて、レイ、ランド、エルマーナの三者は同時に立ち上がる。そしてレイはいの一番に礼をしようと腰を折りかけたが、その前に女帝が面倒そうに手を振った。


「構わん。座っていいぞ」


 指示されたが座らない。ずっと視界の中に入れておいたランドが、着席しようとする素振りさえ見せなかった為だ。恐らくは礼儀的な側面で、一度目の指示で座るのは良くないのだと思われた。

 しかしそんな内心を見抜かれたのか、女帝はニヤニヤとした笑いを浮かべる。


「無理をするな、レイよ。それほど不恰好では、どうあっても目に留まる」

「…………」


 返答に窮したレイを眺めた女帝は朗らかに告げる。


「礼を失した程度で腹を立てることは無い。楽にせよ」

「……感謝申し上げます」


 レイは着席する。これ以上の固辞はそれこそ失礼だと判断したのだ。それに女帝の性格を鑑みるに、発した言葉に嘘は無いだろう。

 座ったレイに続いて、ランドとエルマーナも腰を下ろす。


「それで訊きたい事は聞けたか? エルマーナ」


 女帝がエルマーナに話しかけつつ、最も奥の席へと歩いていく。ゼリイはその後ろに付き従う形だ。


(ん? 何の音だ? 何かカチャカチャ鳴ってないか……?)


 非常に微小ながら、鉄が擦れるような音をレイの鋭敏な聴覚が拾った。

 レイは視線を動かさずに音の発生源を特定しようと試みる。全員手を止めているので、食器の音ではない。ならばと次に注目したのは女帝の装いだ。それは謁見時と同じロングドレス。鎧特有の盛り上がりは見られない。


(なら、あの隊長か?)


 ゼリイの武装は相変わらず鎧とレイピアなので、その音だと考えるのが自然だ。


(しかし、女帝が音の出所な気がするんだが……)


「はい、陛下。大変有意義な時間でした」


 どんどん話が進んでいくものの、その間もカチャカチャと音が聞こえてくるので、気になって仕方がない。


「そうか、それは良かった。しかし楽しんでいるところ悪いが、彼らと話があるのでな。部屋に戻っておいてくれ」

「私も同席することは出来ないのでしょうか?」

「……珍しいなエルマーナ。お前がそのような我が儘を言い出すとは……」

「ただ座ってお話を聞いておくだけでもいいのです。お願いいたします」

「……ならん。たとえお前の頼みでもそれは叶えられん。私が彼らに話があるのだ」


 女帝が鋼の声音で言うと、エルマーナは深々と頭を下げた。


「申し訳ございません、陛下。無礼な発言でした。お許し下さい。……それではレイ殿、クエレブレさん。お話ありがとうございました。今日は楽しかったです」

「──いえ! 私達も殿下のご高察には感銘を受けました。是非とも再びお会いしていただければと思っております」


 レイは途中で正気に戻ると、別れの挨拶を返す。それを受けたエルマーナは立ち上がる。そして一礼をした後、花咲くような笑顔と共に言った。


「私、初めてお友達が出来て嬉しかったです。これからもよろしくお願いしますね、レイ殿」


 レイの返事を待つことなく、エルマーナは退室していった。


「……友達?」


 レイは頭の上に疑問符を浮かべる。いつの間に友達になったのだろうか。全くもって分からないが、受け入れるべきだという思いがレイの中で生まれた。

 こちらは友達だと思っていたのに、向こうはただの知り合いとして一線を引いていたと分かった際の悲しみには、耐え難いものがある事を知っていた為だ。

 悲劇よりも喜劇を。

 そんな風に色々と考えている間に、女帝が奥の席に座る。ゼリイはその左側に控えた。


「随分と仲を深めたようだな、レイよ」

「はい、そう思っていただけたようです」

「あの子は録に城の外へ出してやることも出来なくてな……。ここに居る間だけでいい。悪いが面倒を見てやってくれ」

「畏まりました」


 レイは了解の印として頭を下げる。無論、事情は聞かない。恐らくは解決してやれないだろうから。


「うむ。それでは早速だが、ここからは踏み込んだ話をするとしよう。レイもそれを望んでいるようだしな」


 一瞬にして場の雰囲気が引き締まる。レイも改めて姿勢を正した。それに合わせて、女帝は静かな声を響かせる。


「単刀直入に言う。近々、我が国はエンゲラーブ強王国へと攻め込む」

「陛下!!」


 ゼリイが叫ぶ。それは機密事項を知られた者に相応しい態度だ。

 対する女帝は平然とした様子であり、謁見した際と何ら変わりはない。


「口を挟むな。話がややこしくなる。いいか、ゼリイよ。二度は言わんからな」

「っ! ……御意」


 ゼリイが膝をついて了承の意を示した。それはたとえ強者であろうと関係なく、女帝が配下の手綱を完全に握っているという証だ。


「さて、ここまで言えば私がそなたに──そなたらに何を求めているか察せよう。レイ、そしてクエレブレよ。我が軍の一員として、共に戦場を駆け抜けんか?」


 無理だ。いや、というかそれ以前にレイは怒っていた。

 そんな重大な情報を聞かせたという事は、女帝はこちらの逃げ道を失くそうとしているに等しい。断れば口封じをする、そう言外に匂わせているのだ。


(逆効果だぞ? 俺が脱出の手立てを用意していないとでも思っているのか?)


 懐に隠している水晶を使用する準備は出来ている。


「ああ、断っておくが、別にそなたらが拒絶しようと何かする気はない。それは私の名において保証しよう」

「……何ですって?」

「アルシア・ニール・セウノウスの名にかけて誓うと言ったのだ。拒絶しても、手出しはせん。後ろ暗い駆け引きは不要だ」


 もはやレイに言葉は無い。

 皇帝がその名にかけて誓ったのだ。であれば、それは絶対だ。


「そなたは言ったな? 悲願があると。だから断ると。しかし、それは皇配となる事に関してだ。ならば異なる形──配下に名を連ねるという形であればどうだ? その悲願とやらは、配下という形でも噛み合わぬものか?」


 女帝の言葉は、非常に真摯なものだった。

 レイの心の内で罪悪感が生じる。

 これほどの存在が、これほどの評価を与えてくれて、これほど譲歩してくれている。

 ならば、自分も正体を明かすべきでは無いだろうか。その上で、きちんと断るべきでは無いだろうか。

 レイの中でそんな思いが膨れ上がる。

 しかしながらやはりそれは出来ない。より大事なものが、今のレイにはあるから。


 レイは思いを散らすように瞼を閉じ、そして開く。

 するとその時──広い視野を持つレイの目が、真っ白なゼリイの頭部を捉えた。


 その光景にレイは既視感を覚える。


(何だ? 何か似たような状況を見た事があるような……。ああ、そういえばあいつは、玉座の間でも女帝の左側に控えて──)


 瞬間、閃光が走ったようだった。

 目の奥がさえる。

 ゆっくりと、テーブルの上にあるグラスを持ち上げると、中に入っていた果実水を飲み干し、体内に溜まった熱を冷ます。

 怪訝な視線が幾つも突き刺さってくるが、レイはそれを無視する。


(なぜ奴は女帝の左側に控えている? 右側が一般的な筈なのに。……決まっている、女帝の左側を守らなくてはならない事情があるからだ)


 レイは確信に近いものを得る。

 とはいえ、本当にこの閃きが正しいのかは分からない。何故ならレイが観察した限り、この城には "そういった者の為の工夫" が施されていないから。

 しかし、それでもレイは賭ける。



 エルマーナの言葉──『健康』という言葉には、経験した者のみに宿る切実さが込められていたから。



「──セウノウス殿」


 レイの発言に、室内の空気が揺れた。


「……もう一度言う。セウノウス殿」


 もはや確認の必要はない。大罪を犯したこの無礼者は、今すぐに断罪しなければならない。室内に控えている騎士達とゼリイが動く──その前に、コツンとテーブルを叩く音が響いた。


「下がれ」


 女帝は重々しく告げる。


「私が、話しているのだ」


 生まれながらの支配者による圧力。それは即座に場を掌握する。直接浴びせられていないレイですら、肌が粟立ちそうになった。

 しかし、レイは毅然とした態度を崩さない。高速で頭を働かせ、僅かな時間で纏めた考えを口にする。


「突然で悪いな、セウノウス殿。実を言うと、私はここ帝国より西方のとある地で、国を興そうと動いていてな。そのため折角の誘いだが、私は貴殿の配下となるわけにはいかないのだ」


 女帝の片眉がピクリと反応した。

 それを目敏く確認したレイは、重ねて告げる。


「そしてもう一つ。私は人間では無い。吸血鬼だ」


 レイは自らの正体を明かすと、口元がよく見えるように犬歯を再生させる。そして最後に、勝負の一言を発する。


「勿論、足を再生させる事も可能だ。──どうだろう、取引をしないか?」




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