第1話 蹂躙
黒い外套を羽織ったその人物。
元人間の吸血鬼であるレイは、鉄製の分厚い扉を押し開く。
カビ臭さが鼻腔に入り込み、次に確実に心身を害すと思わす、強烈な匂いを感じる。
薄暗い室内には安物以下のパイプの煙が充満していた。毎度のことながら、これがレイを不快にさせるのだ。
無作法に部屋に入って鉄の扉を閉めると、丸机を挟んで向かい合う二人の男達の元へ歩いていく。奥に座っている男は初めて見る顔だが、手前の背中しか映っていない男の方は覚えがある。前回この部屋に赴いた際も同じ席に座っており、その後ろ姿を記憶していた為だ。
「ドローポーカーか。それもローカルルール」
男の左後ろまでたどり着いてから声を掛けたレイに、背中越しに答えが返ってくる。
「テーブルってのは女が座るとちょうどアレが見やすくなる。それと一緒さ。ギャンブルは分かりやすさこそが肝心なわけよ」
互いに同額を賭け、勝負が成立すると、黄ばんだカードをオープンする。
「見てみろ、また俺の勝ちだ。寄越せ。ほら、なにしてんだ、さっさとしろ」
男は身を乗り出すと、相手側に積まれた金貨を強引に攫う。その声から上機嫌であることが窺えた。
「気分が良いし、次はドンと賭けたいところだな。あー。あと金貨が五枚ほどありゃあな。キリよく十枚出せるんだがよ」
初めてこちらを振り返って目を合わせてきた男に対し、レイは僅かに苛立ちを感じる。
正直なところ気が進まない。金貨が五枚もあれば神官に診てもらえるし、医者なら一枚もかからない。これを稼ぐのは平民にとってはしんどいのだ。
迷った後、レイは懐を探ると、テーブルの上に丁寧に金貨を積む。
「ちっ、なんだよ。ホントにぴったり五枚か。とんでもねえ財宝でも転がしてくれないかと期待してたんだがな。あんた、羽振りが良さそうな割には結構ケチだよな」
「無駄な金は使いたくない。俺の趣味は貯金なんだ」
答えている間にもカードは配られる。
「はっ! おいおい、んなデケエ図体しといて、せこせこ貯め込んでんのかよ。あるもんは使っとかねえと、死ぬ時に後悔するぜ? ──俺は三枚捨てる」
「……かもな」
「だろ? それになにより、見栄ってのも研いでやりゃあ、鈍よりかは使いもんになる。──つうわけでどうするよ、フェイカー? 涼しい顔してるが、目が動揺してる。降りてもいいんだぜ?」
「降りないさ。もう四回も負けてるんだ。これ以上は失えない」
「けっ。食えねぇ野郎だ。俺は降りるぜ」
「オールインしろ」
食い気味のレイの助言に、男は動きを止める。それから呆れたように首を振った。
「あんたのことは多少は信用してるぜ? ボスが取引に応じるくらいだからな。だがよ、それは二十年来の腐れ縁ってほどじゃねぇ。そしてあんたは俺のボスでも無い。だから命令される筋合いもねぇな」
分かるか? と男は肩を竦める。
彼が賭け金を引き上げたくない気持ちは理解出来る。背後から覗いた手札に揃っていたのは、役として成立するものの中では最も弱いワンペアだったのだから。
しかしながら、男が賭けた額は金貨五枚。つまりレイが渡した金を結局使っていないのだ。
男の金貨が相手に渡る。
「おっと、んな怖い顔しないでくれや。あんたのお陰でもう一回勝負出来るって考えだったんだぜ?」
レイは呆れる。
「まだやるのか。というより、そんなに呑気にしててもいいのか? オーベルング王国の進攻速度は並外れているぞ。この都市ももうじき飲み込まれる」
現在レイが忍び込んでいるこの国──プラム聖天国は、オーベルング王国という君主制国家との戦争の渦中にあった。その形勢は無惨なもので、たとえ慰めでも勝算があるとは口に出来ないほどだ。
したがって、他国でも生きていけるくらい力のある者なら脱出を試みる筈。人間の心理としてはそれが正しい筈。そんな疑問を抱いたレイに対し、男は簡潔に答える。
「いいんだよ」
それだけだった。
踏み込んでも得られるものは無さそうだと冷徹に判断し、レイは話を本来の目的へ戻す。
「それでお前達のボスはどこだ? まさか外に出ているということは無いだろう? 前回も前々回も、約束の時間には必ず現れたからな」
「残念ながら正解だぜ。つうか、逃げちまったわ」
「……何?」
「だから他国に逃げたんだよ。俺達とは違って遠方出身の人だからな、愛着もない国なんざどうでも良いんだろ」
微かな怒りと適度な共感を男は滲ませているが、レイからすればそれこそどうでも良い話だった。
「俺の依頼はどうなる?」
口から硬い声が漏れたのは、今回出した依頼がレイにとってそれだけ重要だった為だ。
蘇生の秘術。
かつてこの国の金枝玉葉が近付いたと噂されるそれの調査依頼を打診し、そして受理されていた。巨額を費やした事など惜しくない。噂程度のものだろうと関係ない。
既に国外からは調べた。後は国内での結果次第。そこまで準備を整えたにもかかわらず、テーブルごとひっくり返されるような真似は許せない。
ボスなら、レイに成果を報告してからでも悠々と逃げられる筈だ。それなのに何故──。
加速度的に膨れ上がっていくレイの怒りに対する返答は、不快な煙とともに吐き出される。
「ほらよ、預かっておいた報告書だ。受け取りな」
こちらを見もせずに、潰れた銅貨か何かのように片手で摘まんで差し出された封筒を、なんとか心を静めてからもらい受ける。そして中の書類を取り出すと目を通す。一度全てを素早く読み、その意味を理解してもなお、繰り返し黙読する。
「夢中になってるところ悪いんだが、ボスから伝言だ。『今回の仕事は面白かった』、ってよ」
「──そうか」
「どうやら満足のいく結果だったらしいな」
レイはそれには回答せずに、別の言葉を口にする。無論、書類は後ほど魔法で燃やして処分するつもりだ。
「成功報酬はどうする?」
「さあ? 前金だけで良いんじゃねえのか? ボスはもう居ねえんだし。組織は解体さ」
男は無感動に言葉を並べる。
レイとしても同じ思いだ。元より今回限りの関係のつもりだったので、特別に感じるところはない。むしろ最後にこれ以上ない成果を出してくれた事に感謝しているくらいだ。
それだけ心に隙間が生まれたからだろう、レイは男に問う。
「お前は逃げなくていいのか?」
カードを引こうとする男の動きが固まる。すぐにまた動き出すが、苛立ちによるものか手元が狂ったようで、一枚重なった状態で引いてしまう。
男は相手に了承を得てから、下の方のカードを見ないように注意しながら山札へと戻した。
「……逃げられねえよ。強制徴兵されてるからな。布令によると、神の尖兵として戦える栄誉に預かれるんだとよ」
薄い笑いを浮かべながら男は言う。
プラム聖天国は人間至上主義を掲げている宗教国家だ。その為に、最低でも兵士が全滅するまでは抗戦するだろう。狂信的な教義を叫ぶ国とは得てしてそういうもので、自分が負っている傷の深さにさえ気付かない。
哀れだな、とレイは思う。何がと言われれば、その政策に同意する層が大勢を占めていることが、だ。
「全くありがたいぜ。日銭稼いで生きてる俺らみたいな平民にとっちゃな。なんせ、家族にはお給料という名の弔慰金が振り込まれんだ。嬉しくて仕方ねぇ」
滅びかけている国に金を給付する余裕があるとは思えない。仮に支払われたとしても、オーベルング王国に略奪されるのがオチだ。
それに男には家族が居なかったような気がする。
「…………」
レイなら逃がしてやれる。
高度を保って上空を飛行すればいい。成人男性を一人担ぐ程度造作もないことだ。
ただし、その場合は自分の正体が吸血鬼だとバレてしまう。
それでも助ける価値はあるか。無ければ、助けたいと思えるような人間か。
「──死んでたまるかよ。戦場で上手く立ち回って、勝ちそうな方に寝返ってやる。金も命も、必要なもんは全部いただく」
男が持つカードが、指の圧力でひしゃげる。人差し指と中指の間に挟んでいた煙草から、橙を残す灰が散り落ちた。木目調の薄汚れたテーブルが僅かに焦げ付く。
彼が強い言葉を口にしているのは、自分でも非現実的な考えだと理解している為だろう。まず戦場──別けても前線では、どちらの勢力が押しているかを判断するゆとりは無い。視界は二次元に縛られており、状況を俯瞰することなど不可能だ。正面の敵の剣を必死に弾き、上空から降ってきた矢を運良く躱したとしても、魔法による不可視の衝撃波で全身をズタズタにされてしまう事は、さほど珍しくない。
威勢だけでは結果は変わらない。
生き残りたいのであれば、入念な備えが必要だ。そしてその為の準備を男はしているようには見えない。今だってギャンブルなんかやっている有り様だ。
とはいえ、自棄になっているわけでも無いらしい。もしそうなら、この部屋には酒臭さまで混じっており、レイは二分もしない内に退室していただろうから。
「勝ち目がゼロの戦いはすべきじゃないと思うがな」
「戦う前から降伏する国なんかあるかよ」
反論の声には黒い炎が宿っていた。レイは男の表情を観察する。
これ以上の会話の継続は男を怒らせるだけだな、とレイは悟る。ならば最早やることは無い。冷たいかもしれないが、レイの心は揺れ動かなかったのだ。踵を返して部屋から出ようとする。
「ああ、ちょっと待てよ。ここから一つ南にある都市には近づかない方がいいぜ。多分、あそこがオーベルング王国との戦地になる。あんたも逃げるんなら、北上して聖都を避けつつ、国境を抜けることを勧める」
男は的確な助言を告げると、続けてレイの意表をつく言葉を口にする。
「しかも、あの辺りで吸血鬼が出たらしいからな」
「……そうなのか」
ここで反応したのはミスだっただろうか。レイは腹の中でそう思うが、男の態度に変化が見られなかった為に安堵する。
「兵士が五十人もいれば楽勝な奴だ。だが……数人くらいだと逆にこっちが殺されちまうような化け物でもある」
見てきたかのように男は呟く。
──五十人の兵士に殺される。それが男の吸血鬼に対する評価。
侮っている、などと癇癪を起こすつもりはない。その見解は過大でも過小でもなく、完璧に的を射ているのだから。
一騎当千の英雄は吸血鬼など屑切れのように蹴散らす。
それほど両者には力の差に圧倒的な開きがある。そしてレイ自身、その事を身を持って知っていた。
しかしだからと言って、こんな場所でもたついているような暇は無いのだ。
「出るのか? もう夜更けだぜ? 見知った奴の干からびたツラなんざ拝みたくはないんだがな。──ボスの部屋なら空いてる」
「急いでるんだ。これで失礼する」
「あの人も一応は女なんだから、別に部屋は臭くねぇぞ?」
お前が入った後だと臭くなるだろ、と言いたくなる気持ちを堪え、レイは返答する。
「そういう意味じゃない。お前達の元ボスのお陰で、早急に進まなければならない理由が出来たと言ってるんだ」
「ほーん。あの報告書か。よく分かんねぇが、まあ確かにあんたはそこいらの兵士よりはずっと強そうだ。余計なお世話だったな」
「…………いや、そんなことはない。そんなことは……ない。忠告感謝する」
一歩だけ進むと、レイは振り返る。それから丸テーブルに視線を落とせば、相手側の男の手によって山札が切り混ぜられているところだった。
「さっきも言ったが、オールインしろ」
「さっきも言ったろ? 断るね」
「信じろ」
「あ?」
「俺を信じろ」
レイは瞳に闘志を迸らせる。命の奪い合いに身を投じる際と同様に本気で放ったそれは濃厚で、殺気にさえ近かった。
「あ、ああ……。わ、分かったよ」
威圧され、怯えたように男は頷く。
本来の順序とは異なるが、男はテーブルの上の金貨と、ポケットに野晒しで忍ばせていた銀貨数枚を積む。
相手もそれに合わせてコールしてきた。
これで二回目のベットは無い。カードが配られる。
男は手札を確認した。
「――――」
声を噛み殺したのは見事だろう。よく生唾を飲み込まなかったなと、称賛するに値する。
というのも男の手札には、ダイヤの9、10、J、Q、Kが揃っていたのだ。
ストレートフラッシュだ。
ポーカーにおいて最強に近い役を手繰り寄せた男は、それでも涼しい顔で告げる。
「俺はこのままでいいぜ」
「いや、一枚捨てて一枚引け。どれを捨てるかは言うまでもないだろ?」
「はあ!? あんた──」
流石に我慢出来なかったらしい。男は腰を浮かせる。しかし即座に失態を悟り、唇を噛んで耐える。
恨みがましい目をしながら、男は再び席に座った。
(ロイヤルを狙うなんて正気じゃないと思っているんだろう? その通りだ。お前は狂ってるんだ。だから最強の役を狙え)
レイの心の声を聞き取ったわけではないだろうが、男は指示通りにカードの交換を行う。逆らっても意味が無いことを察したようだ。
9を捨て、山札から引いたのは──
「こいつは……」
ドローが終了し、勝負が成立する。
男は杜撰な態度で手札をテーブルに捨てた。
ダイヤの10、J、Q、Kと、最後の一枚──投げた際に裏返ったカードを、相手側の男が身体を乗り出して表にする。
相手の男は目を見開いた。
「俺も驚いたぜ。まさかこの土壇場でジョーカーを引くなんざよ。あんた、感謝するぜ」
そう。男が引いたのは他のカードを演じられるジョーカーだった。
即ち、男の手札はファイブカードを除いた最強の役、ロイヤルストレートフラッシュの成立を意味しているということ。
男の高笑いが響く。
しかし──。
「残念だったな、リック。それはこちらも同じなんだよ」
絶笑が止む。それをしっかりと確認してから、相手の男が手札を出す。
そこには、スペードの10からAまでが揃っていた。
全く同じ役ではあるが、この場合の勝者は相手側の男になる。ジョーカーは汎用性が高く、あらゆるカードに成り代われる強みを持つ一方で、互いに同じ役が揃っている際には必ず負けてしまうという弱みも兼ねていた。
コピーはオリジナルには勝てない。そういう理屈である。
「……な、あ、い、イカサマだ! 二人同時にロイヤルが出るなんざあり得ねぇ! こんな勝負は無効だ!」
「それはお前の方さ、リック。そこのお友達と口裏を合わせて何かしたんだろう? そうじゃなければ、成立しているストレートフラッシュを捨ててまでロイヤルは狙わない。違うか?」
正論である。
「くっ……! ちくしょう! どうしてくれんだ! 信じろって言ったじゃねえか! あんたのせいで大損だ!」
「悪かったな」
「悪かったじゃねえよ! そうだ、成功報酬! ボスに渡す筈だった成功報酬を寄越せ!」
「成功報酬? そうだな……。お前の利き足はどっちだ?」
瞬時に場が冷える。
次の瞬間、沸騰した。
「なめてんじゃねえ、クソ野郎が!」
ガタリと音を立て、身を起こした男は蹴りを放つ。鍛えられた兵隊並みの鋭い一撃が、無防備な体勢のレイを襲った。
「──なるほど、右か」
男の利き足がどちらなのか素早く見極めたレイは、顔面に飛んでくる蹴りを、正確無比に拳で砕く。
「ぐああああ! いてぇええ!」
「てめえ!」
奥に座っていた男が事態の急変に顔を真っ赤にしながら突進してくる。しかしながら、その身のこなしは床に転がっている男よりも鈍い。
一秒後には二人とも同じ運命を辿った。
「安心しろ、腓骨を内側面から綺麗に折った。ここから2ブロック西に行ったところにある病院で診てもらえば、六週間で歩けるようにしてくれる」
レイはテーブルの上と床に散らばった金貨、さらには吸血鬼の弱点である銀の輝きを全て拾う。それから金貨を一枚ずつ、男達の体の上を目掛けて弾く。
「吸血鬼出没に対する情報料だ。医者なら怖がる必要はない。手術も同じだ。あの病院は麻酔を打ってくれる」
言うべきことは言い終えた。そう判断し、レイはエストに伝える。
「南に下ろう」
「ぐううっ……どこに、いや誰に話しかけてやがる? それに南だと?」
脂汗を滲ませる男の表情に訝しげな色が宿る。
──南。
それはこの国の軍隊が集い、そして侵略者たるオーベルング王国を待ち受ける、決戦の地だ。
「あんた……一体何を始める気だ? ボスからの報告書にはなんて書いてあった!!」
レイは唇の端を吊り上げる。
それを以て男への最後の返答とした。
代わりにタバコの煙を装った、霧のようなものへ語る。
「悪いな、エスト。しくじった。戦になるぞ」
「レイ、貴様は何を言っているのだ? 成功したの間違いであろう」
煙が立ち上る天井付近からの答えに手を振ると、レイは扉へ向けて歩き出す。
そして鉄の扉──五トンに近い重量を持つ金属の塊を片手で引く。
完全に開け放たれた先の廊下では、腕に覚えのありそうな連中が、全員足を抱えて蹲っていた。
◆
平原に布陣する、一万を越える軍勢。
忠誠を誓った祖国から支給された武装で身を固め、弾けんばかりに士気が高まったその大軍を、二体の化け物が真っ向から見据える。
元人間の吸血鬼レイ、そして吸血鬼の王たるエストだ。
レイの隣で丸太のような太い腕を組み、仁王立ちしているエストが平原に広がる静寂を切り裂く。
「レイ、あれを見てみろ。万はいるぞ。──恐いか?」
「ああ、恐い」
「ほう? 死ぬのがか?」
エストから投げられた問いに対し、レイは青色の瞳に強固な意志を宿す。
「いいや、違う……。家族を、友を救えないことがだ」
その答えにエストは歯茎を剥き出しにして笑う。
「十分だ」
エストが気迫を漲らせたその時、軍勢から鐘の音が鳴り響いた。二度三度と繰り返されるそれは、隊列を整えた大軍の端から端にまで届く。
そのけたたましい音が意味するところは突撃。
軍の総指揮官がゆっくりと腕を振り下ろし──ついに戦端が開かれた。
「進めえ! 悪を滅ぼせ!」
10000対2という、圧倒的な数の有利を前にした軍に、守備的な戦術の選択はあり得ない。膨れ上がった殺意を爆発させるように大挙して押し寄せてくる。
正面からぶつかれば草木のように踏み均されるだろう、滅びの危機にあって、不死者達は未だ動きを見せない。
ただ、小さく呟くのみだ。
「やるぞ、エスト」
「うむ」
レイの発破に、エストが頷きを返す。
一方で軍隊は先ほどよりも迫っている。それは猛牛を思わせる突撃であり、傍目から見れば冷静さを失ったように見えた。しかし、事実は異なる。その前進は闇雲に突っ込んでいるわけでは無く、命令に忠実な兵士によって、見事に統制されていたのだ。
彼らに油断などない。だからこそ、たかが二体の吸血鬼ごときに一万もの兵士を動員したのだ。
即ち、これより始まるのは、正義の蹂躙劇である──
「──愚かッ!!!」
天を衝くような咆哮が平原いっぱいに広がった。
エストから発された、物理的な圧力が生じる程の轟音に兵士達は怯み、硬直する。
その歪みをエストは見逃さなかった。全身に込めに込めた力を解放し、筋肉の詰まった太い足を始動させると鬼のごとく踏み込む。疾風さえ置き去りにして、軍との距離を一気に詰めていく。
互いの顔が認識出来るほど近くなるその前に、エストは右手で腰に差した剣を抜き、そして空いた左手で魔法を発動させた。
「〈燃隕石〉」
突如として燃え上がっている隕石が上空に出現し、猛スピードで敵軍前方へと降り注ぐ。
巨大な殺意の塊。そう理解出来るだけの時間があっただろうか。
凄まじい速度で、エストの魔法は密集した軍に激突。兵士達は無慈悲に消し飛び、さらにその衝撃により軍の陣形に大きな半円が出来上がる。
そこを目掛けて、エストは突っ込んだ。
吸血鬼の王による疾走を捉えられる者など皆無。まるで反撃を受けることなく、エストは半円の外周部──死者と生者の境界線まで到達すると、その勢いのまま目の前で呆けている兵士達へ向け一閃。
たったそれだけで、金属鎧を纏っている人間の上半身と下半身が分かたれた。
五人、同時に。
「──はぁ?」
訓練したかのように、兵士達の動きが揃って固まる。
一体何が起こったのか。この場にいる人間には、それが欠片も理解出来なかったために。
兵士達からすると、本当に何の前触れもなく、直前まで共に肩を叩き合っていた仲間の身体が真っ二つに切り裂かれたのだ。いやそれ以前に、突然軍に向かって隕石が降ってくるなどという、あり得ないような不運に襲われた事実すら受け入れられていない。
兵士達の脳は完全に機能を停止した。
しかし、心はまだ死んでいなかった。
兵士達は手に持った武器をポトリと地面に落とし、震える足を必死に動かすと、絶叫しながら逃げ出した。
「う、うわあああ!」
「ひいいいい!」
「どけえええ!」
「おい! 逃げるな! 逃げるんじゃない! 敵はたった一匹なんだぞ!」
指揮官の命令は何の意味もなさない。何が起きているかは分からなくとも、この場にとどまれば死ぬという事だけは間違いないのだから。
「ちいっ! バカ共が! ウィザード隊!」
指示を出された魔法使い達は正気を取り戻し、慌てた様子で命令に従う。才覚に恵まれた彼らは、通常の兵士達とは異なり特別な力を保有している。
その膨らんだ矜持が、逃走ではなく反撃という手段を選ばせた。
100人いる魔法使い達一人一人の掌の前に、青く輝く魔法陣が "1つ" ずつ現れ一斉に攻撃が飛んでいく。
「〈炎の矢〉」
「〈氷の槍〉」
「〈雷の槌〉」
「〈風の刃〉」
「〈岩の礫〉」
各種属性魔法がエストへと殺到し、その身を打ちのめす。ほぼ同時の集中砲火だ。エストの姿は魔法で埋め尽くされる。
やがて百の魔法は、この平原という場にあって、荒野に吹くような砂塵を巻き起こした。
「は、はは……ははははは!! 見たかぁあああ!! やはり主神様に選ばれた我ら人間が、貴様らのような汚れた化物に負ける道理などなかったのだ!!」
指揮官の歓喜の声と共に砂煙が晴れていく。
これ程の魔法を撃ち込めば、いくら化け物といえど完全に消えて無くなっていることだろう。生死を確認出来ないのは少々不味いが、手を抜いて生き残られた方が厄介だ。
勝利を確信した指揮官の口元に笑みが浮かぶ。
しかし、本当にそうだろうか。本当に笑っても良いのだろうか。
山を砕くことも、海を枯らすことも、天を焦がすことも出来ない魔法で──精々がそこらに砂煙を吹かせる程度の攻撃で、あの化け物が滅ぶだろうか。
そんな程度で、"化け物"などと呼ばれるだろうか。
答えは──
「え……? む、無傷……?」
喉から掠れた声が漏れると、指揮官は目の端に青い輝きを捉える。
それどころではないと分かっているものの、僅かな好奇心に駆られた指揮官は、そちらに顔を向ける。
「なんだ……あれは……」
そこでは、もう一匹の化け物──レイの背後で、"9つ" の魔法陣が輪になっていた。
【第九の魔法・真紅の水星】
灰色の星が顕現する。新星にすらなれないそれは、しかし紅く輝く。
「ああ、神よ……」
瞬間、軍の中心で巨大な爆発が巻き起こり、平原が紅く染まった。その何もかもを焼き尽くす炎は、大地を削り空を喰らい──
一万人を死滅させた。
◆
灰色の爆煙が晴れていく。
その後に残されたのは大規模なクレーターだった。熱によって地面は乾き切り、あちこちにひび割れを起こして捲れ上がっている。そしてその隙間から溢れ出てくる地下水は、吹き上がる度に蒸発する。
そんな未だ冷める気配のない熱波の中、立ち上がる者が一人。
「おい、レイ! 貴様、何故俺ごとやっているのだ!」
不満げにエストが抗議の声を上げた。
対し、レイは予め用意していた答えを返す。
「エストが隙を作ってくれたお陰だ。流石は王の中の王。自ら先陣を切るとは」
「──む? そうか? まあ、確かにそうであろうな……。ハッハッハ!!」
エストの笑い声が戦場に響き渡る。そこには先の不満を吹き飛ばしたような豪快さがあった。
割と簡単に誤魔化せたことに安堵しつつ、レイは周囲を見回す。
「ん?」
ふと違和を感じ、目を凝らす。
「あれは……人か?」
レイの優れた視力が、クレーターを越えた先で倒れている人間らしき存在を発見した。
レイは蝙蝠の翼を広げ、そこへ向かって飛ぶ。
とはいえ強者にとっては大した距離ではない。数秒ほどで辿り着く。
「やっぱりか」
人間の男がうつ伏せに倒れている。
レイは片膝をつくと、男を仰向けに寝かせる。
「お前は……」
ボロボロな姿で気を失っていたのは軍の指揮官だった。
状態を診るに、爆発自体には巻き込まれなかったようだが、爆風の熱により全身に火傷を負い、衝撃によるものか手足を骨折している。
「生き残りか?」
クレーターから此方まで歩いてきたエストへ、レイは声だけで返す。
「ああ。そうみたいだ」
この指揮官は布陣していた軍勢よりもさらに後方で、魔法使い達に自らを守らせていた。
エストとは正反対の行動であり、レイからするとあまり好きではない部類の男だ。しかしながらレイは快楽殺人鬼ではない。迷うことなく回復させる。
「〈主の献身〉」
白のオーラが立ち昇り、光のベールに包まれ、指揮官の生命力は完全に回復した。
「…………ぐっ……な、何だ? 私は……」
突然傷が治り、混乱している様子の指揮官にレイは問いかける。
「何故、全軍で狙ってきた?」
「──っ!? ば、化け物め! 私に何を──」
「何故、俺達を全軍で狙ったんだ?」
言葉を遮って再び聞くと、指揮官の目線が揺れ、一点に固定された。恐らく、そこにあるのはレイの口から伸びている牙だろう。
「……決まっている。貴様らのような化物は、この世から消え去るべきだからだ!!」
「そうか」
「──え?」
指揮官の呆気にとられたような表情を尻目に、レイは振り返る。
「では、俺達は引き返すとするよ。また会えるといいな」
それから真っ直ぐに、レイはエストと共に視線の先に見える森へと歩き出した。
去っていく化物を見過ごす事しか出来ない指揮官は、それでも憎悪を燃やし、腹の底から叫ぶ。
「貴様らなんぞ神使様が必ず滅ぼして下さるぞ!! この薄汚れた血め!!」