第13話 乱入
御座の間の扉が開放され、一人の男が現れる。それはよく見知った巨漢である、エストだった。
「レイ、急げ。新手の軍勢がこの都市に攻めて来ているぞ」
こちらへ向かってくるエストにレイは問い返す。
「軍勢? まさかオーベルング王国軍か? それともレリオン教国の?」
「オーベルングとかいう国であろうな」
「このタイミングでか。一体どうなってるんだよ……」
「娘達は吸血鬼どもに守らせているが、あまり悠長にはしてられんぞ。情報の方はどうなった。手に入れたのか?」
光線の滝とその奥の天子を眺めながら、半ばまだなんだろうと思っていそうな顔でエストは言う。
「いや、それが──」
レイが答えようとしたその時、入り口から更なる乱入者が出てきた。
ふらふらと漂い、その顔色は不死者のように青白い。初めに会った際の面影は完全に消えていた。
「お前……。──っ!」
別の町に解放したのに何故、その問いかけは口から発されなかった。レイの瞳が本気の色に染まる。
どさり、と体から芯が抜けたかのごとく白鎧は倒れた。
一切身動ぎしない。既に死んでいるのは明らかだ。
「マカミ!」
天子の心配する声も、そして蘇生のことさえレイの頭から一瞬とはいえ吹き飛んだ。それほどの衝撃が胸襟を穿ったのだ。
──扉脇から姿を見せた、一人の老兵の存在の為に。
真っ白な髭を蓄え、穏やかな顔つきをし、頭は禿げ上がっている。
身長はレイよりも少し低い。
魔力は皆無であり、武器はどこにも装備していないようだ。
ただし、レイの第六感は告げていた。老人が纏っている見事な鎧の下に、限界まで引き絞られた弩のような肉体が隠されていると。
「なにやら、面白い事になっておるみたいじゃのう」
レイは瞬時に理解した。
こいつは──
(強い。間違いなく強い)
自らの生存本能が刺激され、全身が震えた。ここまでの感覚は、エスト以来、覚えがない。
それは男から溢れ出てくる膨大な生命力が目に飛び込んできたことで、より強く心に刻まれる。しかし何よりもレイが警戒したのは、この男が老兵である、ということだった。
研ぎ澄まされたものを感じる。積み重ねてきた経験を。幾多の死線と修羅場を乗り越えた者のみが発せられるオーラだ。
レイと同格の存在。死を身近に感じさせる、絶対的強者だ。
(畜生! ここまで来て……っ!)
レイが口惜しく思いながらも、ほぼ無意識の内に魔法陣を構成したその瞬間、エストの口元が激しい感情を象る。
「強いな、貴様」
「お主……か? それとも奥にいるお前さんの方かの?」
それが何を指しているのかは分からない。だがレイにとってはどうでも良い。問答の必要はない。
レイは行動を起こす──よりも早く、エストが動いた。
牙を鋭く剥くと、歓喜の面持ちと共に足を伸ばして前のめりに踏み込む。
それは滅多に見られない光景だった。普段の彼は王者らしく初手を譲る傾向にあるのだから。
太い足に潰され、床が爆ぜる。人間とは一線を画す巨体からは想像もつかない速度で老兵へと肉薄したエストは、抜剣の勢いを乗せて切り上げを放つ。
老兵の目が鞘走る剣の軌跡を追った。正確に右腕が差し出され──鎧を切り裂き、その奥の肉にまで食い込む。しかし、断絶するには至っていない。エストが剣を引き抜くのには微かな時間を要するだろう。
次の瞬間、桁外れの腕力を感じさせる老兵の左拳が、エストの顎を突き上げるように弾いた。
レイは驚愕に目を見張る。
2.5メートル近い巨躯が、宙に浮かされたのだ。
体重や鎧を加味した重量が問題なのではない。全力で踏ん張っているエストのパワーを上回ったことにレイは戦慄したのだ。白鎧や槍使い達との戦闘の際とは異なり、本気で全身に力を入れていただろうエストを。
レイの合理的な思考回路が、二人がかりで老兵を確殺すべきだと囁く。
しかし、そこで終わらないからこその吸血鬼の王だと、直後に知ることになる。
吹き飛ばされたエストは空中で強引に体を捻ると、まるで棍棒で叩き付けるかのごとき強烈な蹴りを繰り出し、老兵を吹き飛ばした。
老兵はそのまま御座の間の扉へと突き進む。
瞬きもせずに、その行方を追っていたレイは眉を顰める。
一見すると互角の戦いだが、そうとも言い切れない。エストに二撃叩き込まれた老兵の生命力は思ったより損耗しておらず、逆に一発もらったエストの生命力は──偽装されている為に確証は無いものの──この分だと想定以上に削れている。
魔力がゼロでありながらエストを近接戦で押す。ならばこの老兵は純粋な戦士。そう悟ったレイは一つの仮説を立てる。
「――――」
そして結論が出ると同時、吹き飛ばされていた老兵が体勢を変えた。御座の間の扉へ柔らかく着地し、膝を曲げると、強弓で引かれた矢のごとく飛び出す。向かう先はエストではない。
レイだ。
見開いた両目が老兵を捉える。
──速い。いや速すぎる。
俯瞰で見るのと実際に迫ってくるのでは、感じ方が全く違う。
ほんの数歩で五十メートル以上の距離を飛び越えたような速度で間合いを詰めてきた老兵が、真正面から拳を振り上げた。巨人の腕をさらに巨大化させたイメージが脳内に走る。
──受け切れない。
この世の何者をも凌ぐ戦闘経験が、甚だ強大だと直感した老兵の拳は、レイの心臓を貫く──
その前に、もう一段階進化する。
〔奈落〕
未知の〔技能〕までを用いた老兵がレイの視界に大きく映る。その拳は黒く染まっている。それがレイの命を消し去ろうと迫っている。
したがってレイは魔法を発動させる。
「〈音爆弾〉」
弩級の爆音が老兵から聴覚を奪う。その両目が微かに見開かれた。
無論、こんなものは子供騙しにも似た奇襲に過ぎない。二度は通じないだろうし、音が聞こえない状況にも直に慣れてくる筈だ。それが分かっているからこそ、聴覚器官を再生させたレイは後ろを振り返る。そして内心で吐き捨てた。
(ふざけるな! 往生際が悪いんだよ!)
光線の滝が解除されていない。もう一人の標的である天子は、何の痛痒も感じていなかった。
音が伝わっているならば、あるいは。そう考えての魔法の選択だった。しかし、魔法による音波攻撃は〈水精の繭〉と同様に遮断されるらしい。レイは苦い思いと共に視線を戻す。
もはや肉弾戦の最適な攻撃範囲に老兵は侵入していた。この距離からでは反撃の術を繰り出せない。
同格の存在による〔技能〕を一発食らうとどうなるのか。
答えは、命を脅かされる事などあり得ない、だ。
レイはエストと同じで急所というものが存在せず、たとえ心臓でも首でも腕でも受ける損傷具合は変わらないから。
しかもレイの生命力は〈音爆弾〉によって僅かに削れているだけなのだ。
問題はない。一切ない。
──そう、その筈なのにもかかわらず、レイの直感は今この瞬間にも危険だと叫んでいた。どうしてなのか。鋭敏な知覚が加速する。
過去を振り返ってみれば、レイという男は自分の世界に没頭する癖があった。祈るだけでは誰も助けてくれない、たとえ神は居なくとも理屈は自らを裏切らない。そう悟ったのだ。
しかしながら、それは傲慢な考え方だろう。ヒトは一人では生きていけないのだから。
レイもかつては当たり前に理解していたことだ。
そんな大切な意識を消失した為に、普段なら気付けることにも気付けない。
レイの視線の先──老兵の顔に、亀裂が入っていた。
戦いの最中に他に気を取られる。そんなものは戦士からすれば侮辱でしかない。
殺意に塗れた拳が、レイの胸を目掛けて振り下ろされた──。
直後、老兵は大きく態勢を崩す。
老兵にとって意図しない事態だというのは、その戸惑った瞳を覗けば瞭然だ。
レイの瞳が強い輝きを宿す。
確かに、レイはいつの間にか傲慢になっていたのかもしれない。
しかし同時に、知っていたのだ。人間を。
レイはあらゆる方法で蘇生しようと試みたのだ。憧れの人を。
だから──。
内耳を破壊された人間が、平衡感覚を失うことを知っていた。
平衡感覚を司る様々な受容器の中でも、特に内耳は重要な役割を果たす。そんなものが殴り掛かっている最中に破壊されては、まともに標的を捉えるなど不可能である。
即ち、耳という器官は聴覚を支配する為だけに存在するわけではないのだ。
レイからすれば当たり前に理解していることを、老兵は知らなかったのだろう。こればかりは仕方ない。彼のような強者──つまりは弱者側に寄り添えない者は、医療という人体を丸裸にする英知の結晶をおぞましいものだと考え、排斥するのだから。
よろめいた老兵の脇を、レイは滑らかに潜り抜けた。
「かっ……!」
背後の掠れた声は天子のものだった。レイは首を巡らせる。
老兵の拳はレイの企み通りに止まっていない。
振り下ろしている最中だったそれは、ぶれながらもレイの侵入を拒む力を目掛けて走る。
──光線の滝が解けた。まるでダイモンドダストのごとく煌めく。
老兵の拳が砕いたというよりは、天子が自ら解除したようだ。
レイが組み上げたとある仮説は正しかった。
眼前に立ちはだかる巨大な扉は、いま、消えた。一歩間違えば奈落の底へと滑落する薄く細い綱の上を乗り越えて、レイは憧れの人の目前までたどり着いたのだ。
レイは反転し、身を乗り出すと、天子の手にある記録書を浚う。
思わず笑みが溢れた──その時、真横から人間の手が伸びる。
老兵のものではない。そしてエストの腕とも違った。一体何者なのかレイが確認するより早く、その手は天子の腕を掴む。それから手繰るように引き寄せた。レイの瞳も同様にその人物へと吸い寄せられる。
「空の神?」
どこから現れたのか、クラレンスが天子を抱えている。さらに奥に目をやれば、包帯で処置されたベリオットが戦斧で御座の間の窓を叩き割ろうとしていた。
レイは混乱する。状況の変化に対応し切れない。
一瞬だけレイの動きが固まる中、ガラス製の窓が破壊され、冷たい風が吹きすさぶ。天子を担いだクラレンスが目指すのは、外だ。レイは即座に察したが、そんなのはどうでも良い事だと正気に戻る。
脅威なのは老兵の方であり、かつ目的の物は手に入れた。ならば撤退あるのみ。そう判断したレイは蝙蝠の翼を広げると、エストの元へ向かう。
「エスト! ひ──」
怪訝な顔をしたエストが、小さく呟く。
「そいつがそんなに大事か?」
全身に稲妻が走ったようだった。
手から記録書が滑り落ちそうになる。
(──そうだ。何故、あいつらはこれを狙わないんだ……?)
蘇生の情報を求めているだろう空の神。彼らの任務は記録書の奪取でなくては不自然だ。にもかかわらず天子を浚った。これが何を意味するのか。
レイの心は徐々に焦りに支配されていく。自らの研究成果や彼女の報告書、空の神の背景、そして光線の滝を発動させていた天子の《ルーツ》。これらを総合すると、レイは己の想像に依った考えを否定することが出来なかった。
真に蘇生に必要なもの。それは──
「天子自身……?」
レイの口から称号が漏れた時、背後で老兵が動く気配がした。もはや一刻の猶予もない。逃げるなら今しかない。
「くっ……! ちくしょおおおお!!」
レイは雄叫びを上げ、真っ赤な剣を抜くと血を垂らして聖都へ侵入した時のように巨大化させる。そしてすぐさま全力で下に向かって叩き付けた。
御座の間の床が破壊され、瓦礫となって崩れ落ちていく。それと同時にレイは浮遊感を覚えた。
「撤退だ! エスト!」
「ちっ。……惜しいが、仕方なかろう。先約があるのでな。また会おう、老練の武人よ」
その呟きが聞こえたわけではないだろうが、レイの行動を眺めていた老兵が煽るように言う。
「ほ? 逃げるのかの? せっかく数で勝っておるというのに。しでかした事に比べ随分と臆病なようじゃな」
「なんだと、ジジイ!!」
「バカ野郎! 行くぞ!」
レイはエストを引っ掴むと、階下へ着地する。それから再び床を破壊した。だがレイはそれによって出来た穴を通らずに指示を出す。
「エスト、こっちだ!」
二人が向かったのは階段だ。穴を囮にし、老兵を撒くために。
レイは幾度も振り返って、追っ手が迫っていないか確認する。どうやら逃れられたらしい。
「──くそっ! 何なんだよ、どいつもこいつも!」
「ジジイめ……。この俺が臆病だと?」
苛ついているエストの声はレイの耳を通り過ぎていた。
(どこから出てきた、あいつらは! それにあのじいさんは何者だ? オーベルング王国の兵? この国の軍を滅ぼした情報が伝わってないのか? いや、あのじいさんの強さを考えれば……)
むしろ興味を引いてしまったかもしれない。あるいはチャンスと捉えた可能性すらある。しかしながら反省などは後でいくらでも出来る。レイが今考えるべき事は、空の神を追うかどうかだ。
(間に合うわけない……。召喚した吸血鬼達が足止めをしているとは考えにくい。なら先回りしてレリオン教国へ向かうか? ──ちっ! 馬鹿か、俺は! メルーシャ達はどうする!)
どうしても思考がうまく働いてくれない。
結局、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱れたまま、メルーシャ達の元へ辿り着いた。
「逃げるぞ!」
すぐさまレイは懐にある水晶を取り出し──躊躇する。これ以上無い機会を無駄にするのかと。
しかしその時、レイはこちらを不安そうに見つめるメルーシャの姿に気付いた。そしてその目を見て、交わした約束を思い出す。
迷いを、振り払った。
水晶を掲げて魔法を発動させると、即座に景色が一変する。そこは周囲を木々に囲まれ、真ん中に一本の大樹が伸びている開けた場所だ。
その突然の変化にハーフリング達が戸惑っていると、無念の叫びが辺りに響き渡った。
「くっそおおおお!!!」
レイの望みは、またも届かなかった。