第9話 決意
聖都に複数ある通りの内の一つ。
オーベルング王国との戦時下にある為に、その道の人の往来はまばらだった。普段は賑わっている食事処では、運良く聖都に残った衛兵が、店が空いている事を幸いとばかりに昼間から酒を飲み、己がいかに勇ましいかを部下へ垂れ流す。またある民家では、少しでも家族の身を守ろうと窓に木の板を打ち付けるなどの涙ぐましい努力を見せる。
些か危機感に欠けた行動だと言わざるを得ない。
とはいえそれは仕方のないことだろう。聖天国は長きに渡って戦争に縁がなく、老人ですら経験した試しがない。戦というものを知識としては知っていても、どこか遠いところで行われている事、自分には関係のない事だとしか感じられないのだ。
「醜いな」
そんな仮初の平和が維持されている通りを見て、一人の男が言葉を漏らす。呟き程度の小さな声に込められた感情は非常に激しい。
言ったのは見るからに地位の高い男だ。
細かな刺繍があしらわれた衣服を、肥大した腹部の上に羽織っており動きにくそうにしている。下品な程大きな宝石が埋められた指輪は、左手の薬指以外に四つと、右手の全ての指に五つ填め、自らの身分を誇示しているよう。
顔の肉に押されて両目はほとんど開いていない。
日常的に運動をしていないどころか、そんなものは労働階級にいるような人間か、文明の遅れた蛮族のやることだと言わんばかりに丸々としていた。
まず間違いなく、他所の国から来た人物だろう。
「よもや、このような辺鄙な地に私が遣わされることになるとは……」
腹の底に溜まったドロドロとしたものを感じさせる声の主の背後から、返答がくる。
「カロン殿。なら、早いとこ任務を済ませてしまっては? 俺達としても、あなたを危険な目に晒すわけにはいかんと思っているわけですよ。オーベルング王国のフリード大王ってのはかなりヤバいらしいですからね」
「ベリオットの言を肯定します。直に滅ぼされる国でございます。長居する理由はないかと」
カロン。そう呼ばれた男の後方に控える二人の護衛達──ベリオット・アルニムとクラレンス・デックマンが助言を述べた。
カロンは振り返る。
ベリオットは巌のような顔立ちをし、身の丈を軽々と越えるほどの巨大な戦斧を背負っている。一方のクラレンスは魔法使い然としており、一つとして武器を所持していない。真逆な印象である両者の共通点を挙げるならば、人を殺めてきた者特有の死臭を漂わせている事くらいだろう。
彼らこそカロンが枢機卿を務めるレリオン教国において、それぞれ竜殺しと不死者大殲滅の快挙を成し、武の頂点たる神託執行機関──空の神の一席に据えられた偉人達だ。
本来ならば国内外問わず名が知れ渡っているほどの強者である彼ら空の神は、実際にはその存在を厳重に隠蔽されてきた。というのも個々人がレリオン教国の決戦兵器という位置付けにある為だ。
対大国を想定して創設され、主に敵対勢力の鏖殺を目的とした任務に従事する。よってその構成員は各々が軍という戦略単位では計れないほどの武力を保有している。あまりに強大であるからこそ、その力を説明することは非常に容易い。
国家の武力とは軍隊であり、また軍隊とは言わば蟻である。無数に集合した蟻ならば、あるいは人間を殺し得るかもしれない。
しかし、だ。
しかし、たとえ世界中の蟻を一匹余さず集めたとしても、天に座す灼熱は落とせない。
つまりは有象無象が群れることに意味など無いのだ。
カロンが目にした空の神の戦場。それはまさに、足で土を踏み均すような作業じみたものだった。
そんな人間兵器と呼ぶに相応しい存在を二人も連れて、こんな取るに足らない小国へ足を運んでいる。もしこれが侵略戦争なら過剰戦力も良いところだ。
即ちカロンが拝した任務はそんなものではない。聖天国には神使という存在がいるものの、レリオン教国に勧誘するには値しない。空の神の構成員ならば瞬殺は容易であり、強者という評価を下すには首を捻ってしまう程度の人間に過ぎないからだ。
では何が目的なのか。
それは教皇直々に下された勅命。
"神の奇跡の具現、蘇生の秘術に関連する悉くを回収、及びそれが困難だった場合の抹消"、である。
「さっさと聖城へ乗り込みましょうや。何も知らないオーベルング王国に先を越されでもした日には、教皇台下にどやされる」
ベリオットの軽口に対し、カロンは苛立ちながらも真剣な声音で問い掛ける。
「君達に問いたい。君達──というより、空の神の面々は、蘇生についてどこまでの情報が開示されているのかね?」
カロンが水を向けると、ベリオットはお手上げといったように肩を竦めた。
「全く。台下に聞いてもはぐらかされたもんで」
「クラレンス君は?」
「申し訳ございません。私も最奥図書庫への入室は許可されておりません」
その通りだ。カロンさえも知らされていない。そしてその事実が腹立たしい。高貴な血が流れる者しか任命されない、枢機卿という特別な地位にありながら、情報を秘匿されているその事実が。
「実現は不可能だとして、市井では失笑されて終わる話です。そしてその方が好都合なのでしょう。だから私達でさえ許可は下りない」
「……知りたくはないのかね?」
「弁えておりますので」
クラレンスの達観したような言葉を引き継ぐ形で、ベリオットが呟く。
「弁えてる、ねぇ……。まさか、台下も知らないとかって可能性もあるんですかね?」
「それこそまさかですよ、ベリオット殿。仮にそうなら、世界中の知性体は須く無知だという事になってしまいます」
クラレンスは首を振って同僚の意見を否定する。
しかしながら、そう言われて初めて、その線もあり得るとカロンは思った。
説明しないのではなく、教皇もまた知らないから説明が出来ない。そんな薄い可能性もあるのでは、と。
「まっ、どうだっていい。台下が説明しないってことは、知らない方が俺達にとって得なんだろうよ」
「馬鹿が」
不意に口から言葉が衝いて出た。カロンは自らの失態を悟る。だが、どうしても感情を抑え切れなかった。
そんなわけがない。そうカロンは確信している為に。
教皇は冷酷な性質を宿している。他者の切り捨てや状況の見極めが異常に早い彼の口癖は、無知は無知なままに死ぬべき、だ。
だからこそなのだろう、カロンは今回の任務の間のみ、教皇からとある権限を委譲されていた。
「君に言ったのではないよ」
カロンは出任せを口にする。しかし続く言葉が見つからなかった為に、適当な理由がどこかに転がっていないかを探し、やがてベリオットの背後にいる者達を見つけた。
「そう、私は君の後ろにいる奴隷どもに言ったのだよ」
「……ふーん。そもそもの話、あなたがアレを買ったりして遊んでいなけりゃ、とっくに仕事は終わっていたんですがね」
カロンの発言をあまり気にしていないのか、ベリオットは話に乗ってくれた。使われる側として生まれた人間の扱いやすさを腹の底で嘲笑しつつ、カロンはハーフリングと獣人の集団を眺める。クラレンスから注がれる抗議の視線など、自らが上位者である為に気付きもしなかった。
そんなカロンが見つめる先にいるハーフリング達。その格好は貧相だった。つい先ほど国営の奴隷店から購入したばかりであり、その店の支配人の話では、戦争の為に国主導で亜種族狩りを行ったのだが、オーベルング王国側が敵対勢力の奴隷解放を掲げているとの情報を入手した為に、捕えた一部を売りに出したらしい。
カロンとしても戦禍にある他国へ遣わされた憂さ晴らしくらいにはなるかと考え、売約済みの者達を、金に物を言わせて買い取ったのだ。
カロンはハーフリング達の前まで進み出る。それから尊大に命令を下す。
「膝をつきたまえ。私の言葉を静聴する姿勢を整えるのだよ」
奴隷達は暗い顔をしながら両膝を折る。通りの端に寄ってはいるが、それでも道であることには変わらないため周囲の住民からの視線が刺さる。ただ、それは迷惑そうにしているだけだ。カロンの奴隷に対する扱いへ向けたものではない。
人間至上主義である聖天国の常識が垣間見えた瞬間だといえよう。
「私が君達の主人となるわけだが……最初に教育の必要があるな」
カロンは両膝をついたハーフリング達を眺めながら呟く。
一般的な奴隷ならばその態度は正しい。屈服している事を示すという意味でも両膝を折るのは非常に大切だ。しかしながらその姿勢は、レリオン教国では神への祈りを捧げる際に行う神聖なもの。卑しい身分である奴隷の場合は片膝をつかなくてはならない。
カロンは説明しようとし──教皇の口癖が頭の隅を掠める。
「無知は無知のまま死ぬべき、か……。なるほど。改めて考えると、少し買いすぎたように思えるな」
途端、不穏な空気が流れた。
カロンは事も無げに奴隷達の中から一人のハーフリングを指差す。
そのハーフリングを選んだのに特別な理由があったわけではない。何となく教養がありそうな雰囲気を漂わせていたので、もしかしたら反乱分子になるかもしれないと頭の隅でぼんやりと思ったに過ぎない。
「そこのハーフリング。膝をつくのが遅かったな」
いや、遅くはなかった。示し合わせたのかというほど全員の動きは揃っていた。しかしそんな事は関係ない。
カロンはベリオットに顔を向けて告げる。
「殺せ」
「は? なんですって?」
「このハーフリングの首を刎ねろと言ったのだよ。その背負っている斧は鈍なのかね、ベリオット君」
「……いや、いくら何でも他国の都市内で抜剣するわけにはいかんでしょう」
「私達がこれより聖城へ押し入るという事を忘れたのかね? 数十分後には君は抜剣している」
ベリオットは困ったようにボリボリと頭を掻く。対し、ハーフリング達は抵抗が無意味だと悟っているのか、震えるばかりだ。
「クラレンス」
「我が国では異種族は物です。そして物は大切に扱うべきだと私は考えます」
「だそうですぜ、カロン殿。やめときましょうや。別に俺も好きで殺しをやってるわけじゃ──」
「──ただ、自分の持ち物を破壊する行為は罪には問われませんね」
遠回しなクラレンスの賛同を受けて、空気が重く沈む。
「はあ……マジかよ……」
ベリオットの深い溜め息に思いを凝らす者は、この場には居ない。それを理解したのだろう、自分に言い聞かせるような声が呟かれた。
「騒ぎを起こせば急いで行動を起こす必要も出てくる。そういうことだ」
ベリオットは背中に右手を回し、巨大な戦斧を握る。そして下から掬い上げるように抜いた。
凶悪な鋼の輝き。
人など容易く叩き割れそうな分厚い斧刃が姿を見せた。
ハーフリング達から複数の悲鳴が上がる。
「運が悪かったな、ハーフリングの兄ちゃん。存分に恨んでくれや」
ベリオットは対象のハーフリングの前まで進む。そして痛みは一瞬だけだと言わんばかりに、右腕の筋肉を肥大させる。
──ギャリギャリ、という戦斧を握りしめる音とは思えないような異音が響いたその時、ハーフリングから憎悪のこもった声が放たれた。
「獣どもめ。いつか必ずこの手で後悔させてやるぞ。絶対に忘れない。いつまでも忘れない。私はお前達を忘れない。だからいいか。──お前達も、私の顔を忘れるな」
「……ほう、この局面で肝が据わっている。生まれ変わったら、その時は俺達を殺せるくらいに強くなれるといいな」
戦斧がゆっくりと振り上げられる。
「メルーシャ様。今、そちらへ向かいます……」
ハーフリングが最期に何者かの人名を呟くと、カロンの表情は愉悦に歪む。それからベリオットの動きが──硬直した。
「ん? どうした? 何をしているのかね、ベリオット君」
最も興奮する瞬間を寸前で奪われたことにカロンは苛立ちを覚える。
異種族は首から血を吹き出させている時こそが最高に笑えるのだ。既に死んでいるのにもかかわらず、体は頭を求めてふらふらと彷徨う。その姿は実に滑稽で──面白い。
「これは命令だ。早く──」
言っている途中でカロンは違和感に気付く。
奴隷達が全員顔を上げているのだ。いや、それだけではなく、周囲で歩いていた住民も立ち止まり、空を見ていた。ベリオットやクラレンスもだ。
一体何事だとカロンも彼らの視線を追う。
──化け物がいた。
化け物だ。それは例えようのない邪悪な化け物だ。
乱れた長い黒髪の隙間から覗く牙は、生き血を吸う為のものだと確信させるおぞましさが宿っている。蝙蝠の翼は穢れており、周囲に恐怖を伝播させるだろう。
それは生者の不倶戴天の敵。
吸血鬼が、上空から影を落としていた。
人々は呆然とする。突如として都市内、それも日中の聖都に現れたのだ。夢でも見ているのかと目の前の光景を疑うのは、ごく自然なことだった。
カロンとて似たような反応を引き起こしてしまう。魅力などではなく、もっと別の理由から視線を逸らせずにいると、黒い吸血鬼が大きく息を吸い込んだ。
「ウオオオオオッッッ!!!」
怒号が轟いた。カロンの鼓動が停止する、そう錯覚するほどの爆音だった。
音に恐怖し、動揺から立ち直れない。
その間に──パニックが生じる。
「うわあああ!!」
「おかあさーん!!」
「どうして吸血鬼が!」
「だ、だれか衛兵を呼べ!」
あちらこちらで悲鳴が上がり、聖都の住民達は我先にと逃げ出していく。建物の中だろうと関係ない。外の方が危険だ、などといった建設的な思考は抜け落ちており、とにかく少しでも元凶から離れるために、全ての人間が足を動かす。
腰を抜かし、這いつくばってでも逃げようとする者もいる中、しかしカロンの護衛を任されたクラレンスは違った。
その両目の水晶体はひどく冷めきっており、単なる駆除対象を眺めるような色に染まっていたのだ。
カロンは精神を立て直す。
自分がどれほど巨大な権力を振るえるのかを思い出したのだ。
そして一瞬でも吸血鬼に恐れを抱いたことに、羞恥を覚える。だから腹いせの矛先はあらゆる方位に乱れ飛ぶ。
「なんとザルな警備なのか! いくら小国とはいえ、吸血鬼ごときに国の中枢たる聖都に侵入されるとは……。やはり滅ぶべくして滅ぶ国だということかね!」
悪し様に罵っていると、どこからか耳をつんざくような鐘の音が響いた。聖都中に届くほど大きなそれは、避難の信号だと思われる。
続けての自らの鼓膜を犯そうとする大きな音により、カロンの脳は限界を迎える。短期間で大量の不快感が積み重ねられた事で、上位者としてあるべき我慢の許容量を超えてしまったのだ。
何人の拒絶も認めない、強い命令を下す。
「クラレンス君、出番だぞ。君の魔法であの害虫を打ち落としたまえ」
かのレナトス大峡谷で不死者を殺戮したクラレンスならば、吸血鬼の一匹や二匹容易く滅ぼせるだろう。なにしろその中には吸血鬼も無数にいたのだから。
「畏まりました」
クラレンスは至って軽い調子で右手を掲げると、空中に魔法陣を描く。そして即座に発動させようとした筈なのだが、それよりも早く、鋭い声が横から飛んできた。
「待て、クラレンス!」
「〈光──ベリオット殿? どうされたのですか、突然?」
ベリオットは強い焦燥を滲ませながら叫ぶ。
「奴は……奴は何か不気味だ! 攻撃よりもまずは生命力と魔力を探れ!」
「……そこまで警戒する必要がありますか? 見る限り、とても強者とは思えないのですが」
「いいからやれ!」
先ほどとは打って変わって余裕のない様子に、クラレンスは押されるように了承する。
「は、はあ、分かりましたよ。〈生命看破〉、〈魔力看破〉。──やはり大したことはないですね。一般的な吸血鬼と同程度です」
「なんだと? あれが普通の吸血鬼と同じ? クラレンス、お前の魔法は問題なく発動しているのか?」
「無論ですよ。あの吸血鬼は確実に雑魚です」
「そんなわけがあるか……。俺の読み違いってか? こんなに胸騒ぎがしてるってのに? あり得ん……まさか偽装しているんじゃ……。だが吸血鬼に魔法を学ぶ機会がある、のか……?」
ぶつぶつと呟くベリオット。それは屈強な体躯を持つ男には似つかわしくない、怯えたような態度だ。カロンの腸は煮えくり返る。
「もうよい。クラレンス君、早く魔法を放ちたまえ。威勢だけの腰抜けの言うことなど無視するのだ」
「だから止めろって言ってんだろうが! それよりも気付かれていない今の内に撤退するぞ。全員揃わなきゃまずい」
「全員? それは空の神総員で討伐に当たるという意味ですか? 本当に正気ですか、あなた」
「俺だって分からん! だがそうした方が良い!」
「何故です!」
「勘だ!」
──痛々しい沈黙が落ちる。
周囲の住民は最早逃げ出しており、辺りにはカロン達しかいなかった。吸血鬼との距離はかなり開いているとはいえ、見つかるのも時間の問題だろう。
そんな気持ちの悪い静けさが支配する中、クラレンスの嘆息が嫌に大きく響く。
「失望しましたよ、ベリオット殿。あなたの発言は支離滅裂です。もしかして、既に何らかの《ルーツ》によって操られているのではないでしょうね」
その意見にはカロンも同調するところだ。勘なんかにこちらの動きを左右されては堪らない。
「俺だっておかしいとは思う! だが──」
「不死者にそんな強者は存在しません。有史以来、一度もです」
「じゃあ竜ならどうだよ。かの始まりの竜人なら」
ベリオットの発言に、カロンもクラレンスも絶句する。
始まりの竜人。それは激しい怒りによって暴走し、八つの大国と十五の小国を滅ぼしたとして、世界中でその恐ろしさを語られる存在だ。
古の時代の伝承だが、これについては眉唾な話ではなく事実だという見解が出されている。
というのは二つの理由がある。まず一つに、その滅ぼされた国々の周辺の地域で似たような伝承や古事、神話が同時期に作成されていたこと。次にその伝承に記された被害の具体性だ。
破壊された土地の描写は生々しく、写実的なもの。現在でもその爪痕が残っている場所もあるほどだ。大国が八つも消失したことで、周辺の国家は大飢饉に見舞われたとも載っている。
カロンでさえその傲慢さがたちまち消え失せてしまうような存在と同等の化け物が、こんな間近に、それも現代に現れるなど認められない。それは自らの死を意味するから。
──あり得ない。そう、始まりの竜人による人的被害はあり得ないものだ。
千万人単位。
それだけの人や人以外の無数の知性体が、たった一つの存在に命を奪われたのだ。
「ば、馬鹿げています。ベリオット殿。あなたはあの吸血鬼が、始まりの竜人と同格だと仰るのですか?」
「そこまでは言わん。ただ、奴は危険だ」
「根拠を示していただきたい!」
竜殺しを果たしたベリオットが竜人の伝承を引き合いに出したことに動揺したのか、クラレンスの声が僅かにうわずる。
そんなクラレンスとは対照的な様子のベリオットは水面のように静かに返答した。
「なあ、クラレンス。何故、奴は太陽の元で平気で活動出来てる? どうやって聖都の警備を突破した? 何が目的で都市を襲う? 仮に血を欲しているのだとすりゃ、あんな大声で威嚇した理由はなんだ。俺には分からん。なんにもな……」
消えていくような声。常軌を逸した態度を表すベリオットを前に、カロンの内面から少しずつ不安が湧き始める。
手を出す前に撤退すべきなのか、任務だけ済ませて帰国するのが吉か。そんな考えが頭にちらつくが、溜まった憤怒を発散させる事も出来ない上に、吸血鬼相手に惨めに逃走するというみっともない行いを、自分が命令すると思うと中々踏ん切りがつかない。
迷っていた時間は五秒に満たなかっただろう。カロンがまごついている間に、ついに吸血鬼が上空からこちらに向かって降りてきた。
──瞬間、ベリオットは臨戦態勢に入る。右手のみで持っていた戦斧を両手で握り締め、瞬時に対応出来るよう正眼に構えると、全身から鬼気ともいうべき圧を放つ。
ベリオットの肉体が、倍ほどに膨れ上がったように感じた。
カロンは満足感から頷く。戦闘とは遠いところに居る自分でさえ、そんな錯覚を引き起こしたのだ。対面する黒い吸血鬼はより大きく感じているに違いない。
事実、次に聞こえた言葉は命乞いだった。
「交渉だ、吸血鬼。あんたの欲しているものを渡そう。代わりに見逃してくれ」
「ベリオットォォォ!! 貴様、空の神を愚弄する気か!」
クラレンスの叱責に対し、ベリオットもまた大声で返す。
「黙ってろ! 口を挟むな! これが最善だ!」
幼稚な、だからこそ必死な言い合いの中、吸血鬼の声がカロンの耳に滑り込む。
「大量の生き血を用意しろ。"ガワ"はそのままにな」
悪辣な要求とは裏腹に、その声質は意外に普通だった。これで精神が引っ掻かれるような声であれば、カロンはベリオットの言葉を信じたかもしれない。しかし、そうでないなら正しいのはやはりクラレンスの意見だろう。というより、ベリオットの考えは流石に規模が大き過ぎて現実味に欠けている。
──と、そうやってカロンは自己弁護した。
頭の冷静な部分からの警告も、兵器たる空の神の取り乱した声にも耳を塞いで、己を騙したのだ。
もはや動揺は無い。完璧に自分の心をコントロール出来ている。だからこそ、急激な速度で傲慢さが舞い戻ってくる。
「ああ、分かった。すぐにかき集めてくる。だからあんたはそこを動かないでくれ」
ベリオットの弱気過ぎる態度にクラレンスがまた何か言いそうだったので、カロンは手を振って諌める。今のカロンにはそう出来るだけの余裕が蘇っているのだ。
それに少しばかり吸血鬼を観察したかったという事情もある。カロンは小さな目──肉と肉の隙間から吸血鬼を睥睨する。
(ふむ……素晴らしい武装だ)
吸血鬼が装着している黒い鎧や赤い剣の誂えは見事の一言だった。枢機卿として数多くの美術品に触れ、審美眼が鍛えられたからこそ、それらの価値を痛感する。
そう易々と手に入る代物ではない。
恐れの代わりに、欲望の火種が燻り出す。
このままでは装備品が気の毒だろう。
平民などの低い地位の生まれの人間は、衣服とは着る者の価値を高めてくれる便利な物だと考える傾向にあるが、それは愚かな間違いで、実際には着る者こそが衣服の真の価値を引き出すのだ。
収まるべきところへ収まっていない、つまりは自分の物となっていない事に、横から掠め取られたような思いをカロンが感じ始めていた時、聞き捨てならない言葉が吸血鬼から放たれた。
「その必要はない。人間の血は臭いんだ。後ろで震えている連中を差し出せ」
カロンのこめかみが痙攣する。結構な額を支払うことで強引に購入した奴隷達だ。ただで渡すのは勿体ない。とはいえ、条件次第では要求を飲んでもいいだろう。
例えば吸血鬼がその身に纏っている鎧や剣とかなら。
「こっちに異存はない。いいですね、カロン殿」
「もちろん構わないとも」
カロンの返答にベリオットは目を丸くする。
「ははっ。まさか、あなたに感謝する日が来るとは思いませんでしたよ。たまには寄り道も悪くないってか」
今度はカロンの細い目が見開きそうだった。
皮肉が通じていない。
この臆病者は、カロンが素直に許可を出したと勘違いしているのだ。ならばもはや相手にしていられない。カロンは心を閉ざして、吸血鬼へ話しかける。
「ところで吸血鬼よ。その鎧に剣、見事な作り込みだな」
「は? お、おい何を言って──」
「どこの国からその品々を盗んだ?」
ベリオットの顔が一転して青ざめた。掠れた声で叫ぶ。
「あんたちょっと黙ってろ!!」
「黙るのは貴様だ、ベリオット! 〈女神像の氷砲〉!」
高い指向性を持った氷雪が、ベリオットの横っ面を叩くと途轍もない速度で吹き飛ばす。同僚の魔法は強大だったようで、その勢いが止まるのにはいくつもの建物を砕く必要があった。
崩壊する複数の建物の陰に隠れ、ベリオットの姿は見えなくなる。
「よくやったぞ、クラレンス君」
「はっ。ありがとうございます、カロン殿」
「さて、それでは邪魔者が消えたところで私の問いかけに答える機会を与えよう。さすれば貴様の寿命も多少は伸びるというものだよ」
カロンは見下すように言う。これまでの短いやり取りで、吸血鬼が弱者である事はもはや確定的だ。
威嚇して周辺の住民を遠ざけたこと、ハーフリング達を要求してきたこと、この小国を狙ったこと。これらは全てが偶然ではないだろう。
カロンは思ったのだ。
この吸血鬼は、まるで人間から恨まれる事を徹底的に避けているようではないか、と。
恐らくは聖天国が人間至上主義であることに目をつけ、命の価値が低い者を襲おうと企んだのだ。人命に被害が出なければこの国は動かない、そう踏んだに違いない。
その身を飾る装備品の美麗さも、人間相手のハッタリとしては効果的だ。人は武力のみならず、財宝にも強さを感じるのだから。
というかそもそもからして、吸血鬼は人の血を好む。人間の血が臭いなど下手過ぎる言い訳だ。
つまるところ眼前の吸血鬼への評価は、腐肉を漁って生き長らえるような野生の獣、という所にまで落ちる。
本来であれば、カロンのような気高い地位の者とは一生関わりを持てない日陰者である筈だ。
それが自分の前に立つ。
たとえ吟遊詩人の洒落でも愉快な気持ちにはなれない。
ただ、その苛立ちもすぐに収まるだろう。カロンは手を広げて、不死者殺しの達人たるクラレンス・デックマンを示す。
「これも神のお導きだ、吸血鬼。君が相手にしている者の力は見ての通りだよ。正直に答えた方が身のためだと思うがね」
「いや、そんなことよりお前達は何をしてるんだ。彼は仲間じゃないのか?」
カロンは眉根を寄せる。吸血鬼の口調が一変した為に。
「質問しているのは私だ。口を慎みたまえ」
それが素なのかは知らないが、余裕の態度を見せている理由が不明だ。先のクラレンスの強大な魔法を目にしてひれ伏さないのは何故か。
頭を捻っていたカロンの困惑を読み取ったのか、魔法の専門家が回答する。
「カロン殿、吸血鬼は氷系の魔法を完全に無効化します。そのため奴は私を脅威と見なさなかったのでしょう。不死者にありがちな反応でございます」
「なるほど。自ら死地に飛び込んだとさえ理解出来ていないわけかね」
カロンは短い首を振った。それから呆れつつもクラレンスに命令を下す。
「どれ、一発叩き込んでしつけてやりなさい」
「はっ」
「ああ、そうそう。殺さないよう注意してくれたまえよ。武装の出処を尋問する必要があるからね」
「理解しております」
指示に従い、クラレンスが〈光槍〉という魔法を詠唱すると、眩いまでの光の塊が射出された。
悪を滅する神聖な槍が、殺意を伴って突き進む。
対し、吸血鬼は右手をのそりと持ち上げる。
「はんっ!」
カロンは鼻で嗤う。
どうやら、クラレンスの魔法が速すぎる為に、まともに防御態勢を取ることさえ出来ないらしい。
神聖なる一撃によって、吸血鬼の全身が爆散する姿をカロンは幻視した。
しかし次の瞬間、驚愕する。吸血鬼の前方に魔法陣が描かれたのだ。
(魔法を使える個体?)
そのあり得ざる光景は、カロンの目をむき出しにさせるような結果を残す。
吸血鬼が未知の魔法名を唱えると、突如として巨大な蜘蛛の巣を思わせるものが出現し、クラレンスが投じた光の槍がその中心に飲み込まれる。
悪を払う神々しい輝きは、最早どこにも無かった。
「は?」
「え?」
「な?」
複数の唖然とした声が漏れる。誰が言ったのかはカロンには分からない。
「な、何が……」
「〈光槍〉を打ち消す為に〈蜘蛛の暗所〉を行使したんだ」
吸血鬼の平坦な声からは、ごく当たり前の対応をしたという考えが透けていた。
しかし、そんな魔法はカロンの知識にない。
これはカロンが元々魔法という技術に詳しくない為だ。答えを知っているだろう男へ顔を向ける。
「〈蜘蛛の暗所〉? なんだ、その魔法は……。そんな魔法、私はしらないぞ……」
クラレンスが混乱した様子で呟く。
押し込んでいた恐怖がカロンの心底から飛び出してきた。
空の神の一席である魔法使いの知らない魔法。そんなものはほとんど存在しない筈だ。
列強たるレリオン教国には、桁違いの資金と各国に深く巡らせた情報網がある。そしてそれを用いて膨大な知識を蓄えてきた。特に神聖属性の魔法に関しては世界一の質と量だろう。時には歴代の教皇が血を流して知恵を求めたことだってある。
それだけの痛みを伴って集めた知識である以上、授ける者は厳選する必要がある。
普通の天才ではいけない。天才が認める天才でなくてはならない。忠誠心だっている。出自は調査して当然の項目だ。ただし、それら全てをクラレンスは突破した。
なぜならクラレンスは普通ではないし、信仰心を示すため両親とまだ幼い妹を神の御許に送ったのだから。
それに彼を拷問出来るような強者が存在しなかったというのも大きい。もしそれを実践しようとするなら、同格である空の神を複数人投入しなければならないだろう。まずもってあり得ない戦力である。
それら無数の理不尽を打ち破り、レリオン教国の支援を受けたクラレンスはまさに鬼神のごとき強さだ。さらには教国秘蔵の武装で身を固めた彼の力量は、もはや本人が一人では決して届き得なかった高みにまで昇っている。
だからこその空の神である。だからこその国家殲滅兵器である。
しかし──そのクラレンスが吸血鬼の魔法を知らないと言っている。
それが何を意味するのか。カロンは十分に悟った。
世界にたった七つしか存在しない大国。その中でも二番目の国力を保持するレリオン教国でさえ、吸血鬼の魔法についてまるで未知であり、その対処法もまた手の届かない暗闇の奥深くにあるということ。
カロンは身震いする。分厚い城壁だと思っていたものが、実は張りぼてだったと知って。
逃げようと一歩だけ後ずさる。
その瞬間、吸血鬼が足を前へ動かした。
カロンの全身は怯え、そして凍りつく。
まさか自分の命を吸い尽くすつもりなのか。
いや、そんな筈がない。単なる偶然に過ぎない。
カロンが固まっている間、吸血鬼が微動だにしないのも偶々だ。
(そうとも。ここは戦場なのだ。奴が私を標的とする理由など無い!!)
自分を信じて、もう一度足を後ろへ動かす。
──吸血鬼の足が、また一歩前へ進んだ。
カロンの呼吸が荒くなる。贅肉のせいなどではない。命令一つで奪ってきた数多の命が、怨念となってカロンを縛っているとしか思えなかった。
そして同様の事態に陥ったのか、クラレンスが甲高い声で叫ぶ。
「ち、近寄るな、化け物!」
その場を動けないでいるクラレンスは、立て続けに三つの魔法を詠唱する。怯えているのは明白だ。しかしながら放たれた魔法は、その精神状態とは無関係に凄絶な現象を巻き起こす。
空からは極太の光線が、通りからは巨壁のごとき粒子の集合体が、石畳からは吸血鬼を取り囲むように十本の光の束が飛び出す。
都市の被害など微塵も考えない、全力での魔法攻撃。これまでクラレンスが滅ぼしてきた吸血鬼ならば、確実に塵一つ残らないだろう過剰なそれは──
「降り注ぐ〈主の柱〉に対しては〈世界樹の葉傘〉、面で迫る〈浄化の大波〉には〈万人の部屋〉、突き出した神聖属性の爪によって不死者を雁字搦めにする〈神の支配権〉なら〈大地の権能〉の出番だな」
──同じく吸血鬼である目の前の化け物によって、いとも容易く搔き消された。
「全て知っている魔法だ」
「な、あ、あ」
カロンの鼓膜を揺らすのは、クラレンスの呆然とした声ばかりだった。
「ど、どれも高位の魔法なんだぞ! こんな簡単に打ち消される筈がない!」
全く同格の存在が全く同格の対抗魔法を放ったとしても、目標の魔法が完璧に相殺されることは無い。術者に影響はなくとも、周辺には多少の被害が広がる筈だ。
それが世界の常識だ。
しかし、事実は歴然として残る。即ちカロンがいくら心中で否定しようと、吸血鬼がクラレンスよりも圧倒的に強いという現実は覆せない。
脳裏にベリオットの警鐘が煩いくらいに鳴動する。
──数千万人を殺戮した、始まりの竜人に比肩する存在。
そんな者をどうやって滅ぼせというのか。
伝承を頼りにしようにも、"天災"の殺し方など載っていない。誰もその最期を目撃しておらず、老衰で死んだとされているのだから。そしてそれは想像し得る中でも最悪な事態だ。
というのも、竜人のような生者とは違って、吸血鬼などの不死者には寿命という概念が存在しない。時間が解決してくれないのだ。今のカロンの心中と同様に、世界は永遠に闇に包まれることとなるだろう。
──世界。そう、世界だ。
そこでカロンは恐ろしい真実に気付く。気付かなければ良かったと、自らの優れた頭脳に罵声を吐き出したくなるほどのおぞましい真実だ。
かつて始まりの竜人が滅ぼした大国の数は八つ。
それに対して現在、世界に存在する大国の総数は"七つ"である。
厚い黒雲が太陽を覆い隠す。今日の予報は一日晴れだった記憶がある。
吸血鬼が上空を見上げ、それからこちらへ視線を移す。
カロンは得体の知れない悪寒に取り憑かれた。
「どうやら本気なようで安心したよ。お前の魔力量から修得出来そうな魔法と、さっき使ってきた魔法はおおよそ一致している。魔力を偽装されていた場合に備えて伏せておいたものは表にしないで済みそうだ」
本当に安堵したような態度はカロン達を嘲笑するためか。
「しかし……どうしてお前は偽装しないんだ? ここが都市内だからか? そうだとしても、偽装はつ──いや、教えるのは良くないな」
平気な顔で吸血鬼が歩みを進める。クラレンスがそれに対応しようと動けたのは、重ねた経験によるものだろう。
「くっ! 私の魔法で谷底を埋め尽くすほどに吸血鬼は滅んだ! 貴様もそうなる! 〈暴焔の木々〉!!」
猛り狂う焔に包まれた木の束が射出される。
これは有効的な手だ。吸血鬼は神聖属性と炎属性に弱い。そしてこれまで打ち消されたのは前者である。炎ならば、直撃さえすれば、奴を炭屑に出来る。そうカロンは確信する。
目を開けるのも困難なほどの熱波を周囲に拡散させながら突き進む魔法に対し、黒い吸血鬼は右手を振り上げ、そして振り下ろす。
平手による打撃だ。
「はあああっ!!」
腕が完全に振り下ろされると、まるで机の上を這いずる虫が叩き潰されるようにクラレンスの魔法は弾け飛んだ。
急速に熱波が引く。
聞こえてくるのは、やはり吸血鬼の静かな声だけだ。
「それも強力な魔法だな。俺の肌にも傷を付けられる。しかし、その魔法は手軽に覚えられる反面、同程度の魔力を消費するものと比べると威力や精度などが若干落ち込む。悪貨とも揶揄され、これを修得している者や開発者は鍛練を嫌うだらしのない魔法使いというのが定説だそうだ。……とはいえ、俺としてはそこまでボロクソに言うことは無いだろうと思う。結構使い勝手の良い魔法だしな……」
焼け爛れた掌をさすりながら、吸血鬼は悲しげに話す。
そう。炎が弱点である吸血鬼に与えた損傷はそれだけだった。
確かにダメージは通った。だが、致命傷にはほど遠い。恐らくはクラレンスが修めた中でも最強の炎魔法でこの結果なのだ。滅ぼすなど不可能だろう。しかもいつの間にかその掌は再生しており、傷一つ無い元の状態へと戻っている。
「すまない、独り言だ。ただ、これでもう分かっただろ? ハーフリング達を置いて退いてくれ」
問いかけへの答えは簡潔なものだった。
「〈暴焔の木々〉」
「〈大火の樹林〉」
再び焔の木の束が放たれると、吸血鬼も即座に何かしらの魔法を発動させる。ただし、それはカロンには目視出来ないほどの速度なようで、得られる情報は風切り音だけだ。
次の瞬間、焔の木の束が打ち砕かれた。
それでも風切り音は続いている。ならばそのおぞましい魔法は、クラレンスに着弾する──
「退け!!」
〔不磨霊峰〕
──巨大な戦斧が振り下ろされる。強大な二者がぶつかり合い、その衝撃によって空気の爆弾が炸裂した。突風に煽られ、カロンは転倒する。
飛ばされないよう必死に石畳を掴んで耐える中、カロンは遂に吸血鬼の魔法の姿を視認する。
先ほどのクラレンスの魔法が木の集合体とするなら、これは一本の大木だ。それが戦斧と激突している。恐ろしいことに聞こえてくるのは金属を削る音だ。
拮抗している。
──と、そう思ったのは数秒の間だけだった。振り抜こうと盛り上がった筋肉に握られていた戦斧は弾き飛ばされ、中空を舞う。しかしながらその一方で大木はまだ勢いを失っていない。クラレンスの魔法とベリオットの〔技能〕を食い破ってなお、止まる気配が無いのだ。一直線に突き進むと、ベリオットの左腕を捉える。
「がっあああああああ!!!」
ベリオットが絶叫を上げる。左腕がまるごと、いやそれどころか肩口から胸の一部までを抉り取る形で、その箇所が消失していた。
激痛に汗を吹き出しながら、ベリオットは叫ぶ。
「グッ、グラレンスッッ! カロンを連れて逃げろ! 欠けが一人ならまだ何とかなる! 残りの全員でこいつを討伐しろ!」
「どうして私の知らない魔法ばかりを……」
しかし、ベリオットの警告は魔法に絶対の自信を持つ男の頭に入らない。その瞳は狂ったように血走っており、完全に正気を失っていた。
「知らないぞ! その魔法も! 強さも! どうやって吸血鬼の身でそれだけの力を得られた! 一体何をした!」
「修行」
絶対にそんな筈がないことはカロンでも理解出来る。
「おのれ……。ならば全てを吹き飛ばしてやる! 神の雷の顕現だ!」
クラレンスは上空へ向けて腕を掲げる。
「〈天界の──」
「なにっ!?」
吸血鬼の驚愕した声。クラレンスの魔法に対して、初めて慌てているようだった。
莫大な魔力が魔法陣に込められていく。
図に乗っていた化け物が痛い目を見る時が来た。正義の鉄槌が下される。そう思って舞い上がりそうになるが、カロンとしては手放しで喜ぶことは出来ない。クラレンスの言葉から推察するに、超広範囲に及ぶ魔法を発動させるつもりだろうから。
ちっ、と舌打ちをしながら、吸血鬼が魔法陣を構成する。
恐らくカロンの生涯で最初にして最後となるだろう。手を組んで、不死者に祈りを捧げた。膝まで折らなかったのは神への信仰心からではなく、単に逃げたかったからに過ぎない。
しかしながら、それら全てが無意味な結果に終わる。
どれほど強かろうと魔法の発動には詠唱が必要なのだ。そしてそれはクラレンスの方が早くに始めていた。
「伽羅──がはっ!」
詠唱が途切れ、そのあとクラレンスが大地に叩き付けられる。
何が起こったのか。
簡単だ。ベリオットの拳が、カロンの命を救ったのだ。
「頭を冷やせ、馬鹿野郎が! 奴は無敵じゃない! お前の魔法と相性の良い魔法をぶつけてきただけだ! その証拠に俺の〔技能〕は奴の魔法を一瞬止めた!」
ベリオットは烈火のごとく瞳を燃え上がらせて吠える。そこには英雄としての凄まじい気迫が宿っていた。
とはいえ、気合いだけでどうにかなる相手ではない。それはベリオットとて理解しているだろう。根性で暴力を跳ね返せるなら、世界はもっと優しい。神も宗教も生まれなかった筈だ。
だからこそ不死者はそこに居る。そして不死者が絶滅していないからこそ、神もまた不滅であると信じるしかないのだ。
変わらない。絶望的な状況は一つとして変わらない。
それでも──カロンの胸は熱くなる。
命を救われたから、というだけではない。血を流しながら先頭に立つ、英雄たる人物の鼓舞は、弱者の心を掴んで離さない。
「必要以上に敵を恐れるな! お前は誰だ、あぁ!? 人間の守護者、空の神。そうだろうが!」
ベリオットの叱咤が周囲に反響する。
揺れていたクラレンスの目が、徐々に一点に定まっていく。
「……ああ、そうだな。──いえ、そうでした、ベリオット殿。あなたの仰る通りです」
へし折れかけていた誇りを立ち上がらせるように、クラレンスは悠然と身を起こす。それから真っ直ぐに腕を突き付けた。
慢心が消え、混乱が解け、覚悟が定まった。
これからのクラレンスは先程よりも甚だしぶといだろう。死に物狂いで戦う男とはそういうものだ。
「私がこの狂った世界を人間だけの豊かなものにしなくてはならない。だから貴様を殺すぞ、吸血鬼」
「……これは困ったというべきなのか、それとも助かったというべきなのか……。多分、後者なんだろうな。そっちのお前、いい戦士だ。この国の本当の切り札はお前だったわけか」
啖呵を切ったクラレンスを無視し、ベリオットを称えることで挑発しようというのだろう。しかし、今の彼には効き目はない。
クラレンスは背を見せて逃げ出した。
「ベリオット殿!」
「おう!」
クラレンスはカロンの方へ走りながら飛行の魔法を行使すると、滑空する。ベリオットもまた〔天地〕によって飛び上がった。
まんまとブラフに引っ掛かった吸血鬼は反応が遅れている。
今なら逃げれる。
全員で逃走し、やり直すのだ。国へ帰って幾人もの知恵者と強者達と協調し、悪を打ち払う。他の君主国家には無理でも、宗教国家であるレリオン教国ならそれが出来る筈だ。
カロンの顔に明るさが灯った時、ベリオットが空中を蹴り──ふらつく。
上半身の損傷が激し過ぎたのだろう。というより、戦闘力が皆無なカロンからすれば、ベリオットの傷は未だに死んでいない方が不思議なほどだ。
仲間の異変に気付いたのか、クラレンスの顔が瀕死の戦士の方へ向く。
その横顔に含まれた感情にカロンは焦りを覚える。最悪の選択が取られようとしている。ゆえにカロンは大声を張り上げる。
「クラレンス! そのような事は許さん! 私を誰だと思っている! 私を連れていけ!!」
一瞬、カロンはクラレンスと目が合った。しかし、あろうことか唯一の逃走手段を持つ魔法使いは、最も価値ある人間の回収ではなく、死にかけの男の元へ急ぐ。
「ま、待て! 私は中央枢機卿であるぞ! 台下に最も近い血を持つ者だ! その私を見捨てることを台下がお認めになると思ってか!」
僅かにクラレンスの動きが鈍るものの、カロンの言葉で心変わりをさせるには、今一歩権力が足りない。
「行くな! 聞いているのか、クラレンス!」
どれだけ叫んでもクラレンスは止まらない。
カロンの焦燥は臨界に達する。
──嫌だ、死にたくない。
こんな場所に取り残されては、確実に殺されてしまう。
それを悟ったカロンは自らの生存の道を必死に模索する。そして天恵が降りた。
あまりの動転の為に頭が真っ白になり、与えられた切り札の事さえ抜け落ちていたのだ。
汗ばんだ手で、懐から一枚の書を取り出す。
「クラレンス! これを見ろ! いいか、逃げれば死罪とする! これは神の代理人たる台下による神勅である!」
カロンが取り出した上質な紙。
それは勅書だ。
ベリオットの右肩を背負ったままピタリと固まったクラレンスの元へ歩きながら、カロンは教皇自筆の勅書を確認する。
そこに記載されている内容はこうだ。
『アナクレト・ウル・ライードの姓名において宣言す。本任務期間中に限り、中央枢機卿カロン・レノン・トロントに対し、レリオン教国教皇と同等の権力を与える。ベリオット・アルニム、クラレンス・デックマンの両名がこれに従わない場合、空の神総員で以て誅殺に当たる』
──以上だ。
出立前に授けられたものと間違いが無い事を確かめ、カロンは二人の前にたどり着くと、金印が付された書状を見せつける。
ベリオットは青白い顔で、そしてクラレンスは唖然とした面持ちで文に目を走らせる。
「どうだ! 分かったか! 分かったなら、今すぐ私を連れてこの場を離れろ! 愚図めが!」
彼らは絶対に逆らえない。教皇とは人神なのだ。レリオン教国に属する全ての人民は、神への信仰心を揺るぎないものとしている。
「さあ、早くしろ!」
カロンは再び声を張り上げる。
こうやって言い合っている間にも、吸血鬼が無造作に歩いてきているのだ。もはや一刻の猶予もない。
ただでさえ、相手の余裕に助けられている現状。化け物が本気になる前に逃げなくてはならない。
「──行け、クラレンス」
ベリオットが乱暴にクラレンスを押しのける。それはほとんど倒れ込んだような、鈍重な動きだった。胸の端が抉られており、内臓が露出している状態なのだから当然だろう。
ベリオットは途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
「奴は、俺、が……食い止める。ふっ……ふっ……気にするな。どっちにしても、お前が生きた方が──ゴホッ……! 奴を……奴を殺せる可能性は高い」
ベリオットは大量の血を溢しながら、両足で立つ。今から死ぬというのに、その戦意は非常に高く保たれていた。
それでいい、とカロンは思う。レリオン教国の枢機卿を救う為に死ぬのなら本望だろう。
この瞬間に──カロンにその命を捧げる為に、ベリオットは生まれてきたのだ。
「すまない……」
同僚の決意を理解したクラレンスは、カロンの方へ向き直る。
それと同時に、化け物が先ほどよりも間近に迫っている様子がカロンの視界の端に捉えられた。舌が恐怖に駆り立てられるように回転する。
「ようやく分かったか! さあ早くしろ! 奴が、奴が来る! 早く早く早く早くぅううう! 貴様がこんな馬鹿を助けようとするから! なぜ役立たずを救おうとする! 初めから捨て置けば、私はとうに逃げられ──」
唐突に、目の前に地面が迫る。
「え?」
誰何の声を上げた直後、顔面から鈍痛が響く。心臓の鼓動に合わせて、熱を帯びたような痛みが一定の間隔で襲ってくる。
混乱。
何が起きたのか分からない。地べたを這っているようなのだが、どうしてそんな事態に陥ったのか理解が追いつかない。戸惑いの中、硬い石畳から顔を上げると、ベリオットを担いで遠ざかる、クラレンスの後ろ姿があった。
──自分は突き飛ばされたのか。いや、クラレンスと正対していた状況から推察するに、後頭部を掴まれて地面に叩きつけられたのだろう。
これは裏切りだ。まさかレリオン教国に対して弓を引くというのか。カロンの脳は顔面の熱とは反対に冷えきる。
それにしても、やけに冷静なのは何故なのか。なんだか時間が間延びしたように感じるのだ。
カロンが神のごとく落ち着いていると、風に吹かれた勅書が目の前に降ってきた。上半身を起こし、両膝をついたままそれを拾い上げる。
「この書の意味が分からなかったのか……? 教皇の直筆なのだぞ……」
呟きに応える声はない。代わりにあったのは──
黒いグリーブに包まれた足だった。
その鎧の精緻さは既に観察したものだ。
カロンはゆっくりと見上げる。
逆光で表情までは掴めないが、確かに化け物がこちらを見下ろしていた。
「──あ」
何かを言おうとした瞬間、額に激痛が走る。そしてこれまで感じたことのない衝撃によって、ゴロゴロと後方に転がされた。
「い、いだゃああああ!!!」
勢いが止まった途端、再び苦痛が巡る。頭が割れたのではないかと思うほどの痛みだ。カロンは幼子のように額を抑えながら蹲る。
しかし、その態勢は無理矢理に起こされる。
涙で滲む視界に広がるのは、禍々しく丸められた中指だった。それは今にも弾き出されようとしている。
「は、ほへっふ! きゃ、きゃねをやる! そうだ、この指輪に埋められた宝石は一つで城を買えるほどの値打ちがあるのだよ!」
もう痛い思いをしたくなかったカロンは、吸血鬼からの返答を待つことなく、慌てて左手の親指に嵌めた指輪を外そうとする。だが、贅肉が邪魔してなかなか取れない。
吸血鬼の曲げられた中指が徐々に近づいてくる。
「待て! 待ってください! すぐに取るから!」
必死に親指をかきむしる。何度も何度も爪で引っ掻き、肌を破きながら、血を流しながら指輪を引き抜こうと足掻く。
しかし──。
「なんで取れない!」
カロンは唾を撒き散らしながら喚く。
もう一度その打撃を受ければ、本当に頭が破裂してしまうと直感していた。いや、正直に話すとそれよりも怖かったのは、外せないなら指ごと切り落とせと言われる事だった。
カロンの想像力では、自分に起こり得る悲劇は精々がその程度だった為に。
しかしながら、化け物という存在は、いつの世も人の想像を絶するものだ。
「金は要らない。俺が欲しいのは血だ」
瞬時にカロンの顔から血の気が失せる。
──殺される。
今、最後の切り札が容易く破られたのだ。
もう化け物を満足させる手段が無い。相手には慈悲がなく、無敵を誇っていた自らの権力さえも通じない。
だから──カロンは生まれて初めて、本気で走り出した。
「ひっ、ふっ、ぬあああっ!」
背を見せて逃げる。初めてのことに、どうやって素早く体を動かすのか分からず、足が縺れそうになる。だから何かを踏んだ拍子に激しく転ぶ。それでも命懸けで立ち上がり、再び走る。
うまく回らない足が憎い。何故こんな無様な逃走をしなくてはならないのか。自分は一体誰を恨めばいいのだ。ベリオットかクラレンスか、はたまた教皇か。
カロンは肉で埋まった顔面をぐちゃぐちゃにしながら、全力で逃げ出した。
◆
小さくなっていく肉団子を眺めながら、レイは呟く。
「同じ手を使うのは好きではないんだが……仕方ないか」
彼らを解放したのは、軍を滅ぼした時と同様に、撒き餌の役割を担ってもらう為である。聖都に捕まったハーフリング達を助けるには、国家の手数を借りた方が圧倒的に早い、そうレイは考えたのだ。
「それにしても……この小国にあんな強兵がいるとはなあ。まさか天界クラスの魔法を使ってくるとは思わなかった。力量という意味では、白鎧達より断然上だったな」
レイは一人で頷く。
無論、まるきり負ける気はしない。一万回戦って一万回勝つ自信がある。
しかし、かといってあのクラレンスという魔法使いのように取り乱すほどの力の差は無かった筈だ。
恐らくは自らが最強だという自負を抱いていた為に、落胆が大きかったのだろう。
そんな事をぼんやりと考えていると、足元に落ちている紙切れが視界の隅に映った。
「大事そうにしてたのに、踏んでいくなよな……」
靴底の泥で汚れ、一部が破れてしまったそれを拾う。そして何が書いてあるのかを音読する。
「なになに……アナクレト──限り、中央枢機卿カロン──レリオン教国──。レリオン、教国……?」
レイは息を呑む。
レリオン教国。
それは聖天国の名前ではない。世界最大の宗教国家の名だ。
「どういう事だ……?」
彼らの会話からは、そんな背景は分からなかった。空の神とか言われても意味不明だし、台下というのは聖天国の天子の事だと思い込んでいた。
当たり前だ。
一体誰が、大国の中央枢機卿などという立派な肩書きを持つ大物が、こんな小国にやって来ていると予想出来るのか。
「そうか。だからあいつらは、あんなに強かったのか」
二人の男達の強さにレイは得心がいく。
「そうなるとちょっと不味いな。大国に喧嘩を売ってしまった事になる。……まあ、大丈夫か。二、三百年もすれば流石に忘れてくれるだろうし」
これこそがレイの最大の強みだ。たとえ不幸な遭遇をしたとしても、その後に近づかなければ一切問題ない。国家とは時間の経過と共に勝手に滅ぶものだから。
レイは安心し──
(──違う! そうじゃないだろ! 注目するところが!)
レイはかろうじて後ろを振り返ったような思いで、一人呟く。
「あいつらの目的は何だ? どうして滅びかけている小国に赴いた」
そう声に出しつつも、レイは薄々悟っていた。
「……俺と同じか? 蘇生の情報を求めている?」
その可能性は高い。
というより、そのくらいしか思い当たらない。
同じ宗教国家ということで、救援である線もゼロではないが、それならもっと早い段階で手を打つだろう。
──彼らを逃がしたのは悪手だった。
ハーフリング達を救出する為の撒き餌にするどころか、蘇生の情報を先に奪われる危険性まで、自分の手で作ってしまったのだ。それより酷ければ、彼らが既に目的を達成しているケースだって考えられる。
レイは自分の間抜けさに苛立つ。
全てが己の思い通りになるなどとは欠片も考えていないが、それでも今回のミスはあり得ない。特に二度も同じ手を使おうとして失敗したのは最悪だ。
暗澹たる思いを、頭を振って追い出すと、すぐさま追跡を試みようとする。
──しかしその時、背中を強く握られる。
感じられるのは小さな掌。
そこにあるのは信頼だ。
背中にくっついて離れないよう言っておいた彼女の存在が、レイの動きを止める。
「……大丈夫だ。言ったろ? 任せろって」
レイは彼女の意思に応える。
返ってきたのは緩められる掌の感触だ。それがレイの頭を冷やす。
(何をやってるんだ、俺は)
レイは長い息を吐き出す。目まぐるしく状況が変化したことで、些か慌てているようだ。それで自分の言葉まで忘れては世話が無い。
彼女の同胞達を助ける。
しかし蘇生の情報も諦めない。最速でハーフリング達を救出し、その後に聖城へ向かうのだ。
それに、レイはエストを信じていた。事前の話し合い通りに行動してくれていれば、聖城には闘争を愛する益荒男が待ち構えている。これ以上に頼りになる事があるだろうか。
レイの心は決まる。ぱちんと、切り替えるように両頬を叩いた。
「さて──ここからが勝負だぞ」
レイは立ち止まったまま、ハーフリング達の方に体を向ける。未だに逃げ出した者がいないのは、もちろん幸運によるものではない。
ベリオットとクラレンスと戦っていた時に、逃げられないようさりげなく魔法を散らしていたのだ。
よって当然のことながら、彼らは怯えている。その態度に遠慮していても仕方ないので、レイは一息で全てを言い切ることにした。
「君たち! まずは落ち着いて欲しい! 俺は君達を助けに来たんだ! 傷付ける意図はない! 無事でいる彼女がその証明だ!」
レイは自らの背中に張り付いている彼女に下りるよう伝える。それからその姿が、向かいのハーフリング達から見える位置に立たせた。
瞬間──
「メルーシャ様!!!」
集団から一人のハーフリングが飛び出してきた。目から大粒の涙を溢しつつ駆け寄ってくる。
(ん? 彼か?)
レイの記憶が確かなら、彼がベリオットに殺されそうになっていたハーフリングだ。
相当気が急いているらしい。転びそうになりながら必死に走り、やがて彼女の元へたどり着く。そして息も整えずに感情を爆発させる。
「メルーシャ様! よくぞご無事で! ああ、本当によくぞ生きていて下さいました!」
「…………」
「本当に良かった……。メルーシャ様?」
「…………」
メルーシャとは彼女のことだろう。返答が無いことを訝しんでいるようだ。
敬称を付けている部分に微かに興味が湧くが、それよりもまずは伝えるべき事がある。レイは男の耳元で囁く。
「彼女は処刑される寸前だったんだ。精神的に不安定な状態にある」
「メルーシャ様が……」
男は目元を拭いつつも、レイの言葉に理解を示す。
「なるほど……そういうことでしたか。しかし吸血鬼殿、何よりもまずはあなた様に感謝を。この度はメルーシャ様を救っていただき、本当に、本当に感謝いたします! ──皆、この方は信用出来る! 安心していい!」
この男は求心力があるのか、たったそれだけの言葉でハーフリング達の表情が落ち着いた。
レイはほっと胸を撫で下ろす。
少しばかり吸血鬼であるレイを信用する早さが奇妙にも感じるが、それはこの男にとって彼女──メルーシャが非常に大切な存在だからだろう。
レイは自分の中で違和感を噛み砕くと、男に問いかける。
「君は彼らの、獣人たちを含めた上でのリーダーなのか?」
「ええ、そのようなものです」
今この場には、ハーフリングが七人──目の前のリーダーと答えた男とメルーシャを含めて──と、獣人たちが五人いる。
「他にどれくらいの人数の仲間がいるか分かるか?」
「奴隷にされている者は少ないです。維持費が嵩むという理由で処刑されてしまいますから……」
では何故捕まえたのか、とも思うが、それよりも今すぐにしなければならない事がある。
レイは自らの失言を謝罪する。
「すまない。配慮が足りなかった」
「いえ! 助けていただいたのはこちらの方です。……それで他の同胞ですが、一部を城に残して、奴隷商館へ送られました。売られたのは私達が最初です」
「そうか……」
はい、と男は静かに肯定する。
辛いことを喋らせてしまった筈なのだが、男は気丈に振る舞っていた。
レイは男の首輪を見つめ、それから雲に覆われた空を仰ぐ。脳裏に過ったのはカロンという強欲な枢機卿の姿だった。
レイは浮かんだ嫌な感情を散らす。それから再び男の方へ顔を向ける。
「動かないでくれ」
そう言い聞かせ、男の首輪を両手で挟み込むように掴むと、慎重に引っ張る。生じた応力は次第に増加し、やがて耐え切れなくなった鉄の拘束具は、金属特有の高い音を鳴らして壊れた。
男は口をあんぐりとさせる。首元をさすっているのは無意識だろう。
「大丈夫か?」
「……あ、は、はい!」
「これから他の皆の物も壊す。君から伝えてくれるか?」
「畏まりました!」
明るい声で男は同胞へ説明を始めた。
そんな姿を眺めつつ、レイは思考を回転させる。
ここからは力の使い方を考えなければならない。もしも人が爆散する光景なんか見せれば、ハーフリング達の精神は異常をきたすだろう。
ある者は力への憧れを示し、ある者は憎悪の対象が死ぬ姿に興奮し、そしてある者は恐慌する。レイの頭にそんな未来が見えた。それは無秩序な集団であり、統率を執るのは困難だ。
今のレイはギリギリのところで信頼のバランスを保っている。吸血鬼である自分へのそれは揺れており、非常に頼りない。だからこそ慎重に動かなくてはならない。ただし同時に、時間的猶予を考慮すると大胆な立ち回りも要求される。
ふむ、と呟きながら、ハーフリングのリーダーを眺める。
胸を張って同胞に話す姿勢。その言葉選びや仕草に、非凡なものをレイは見た。
したがって決断も早かった。
説明が終わってから、こちらを振り向いた男にレイは感謝を告げる。
「助かる。君のお陰で混乱を避けられた」
男は頭を下げる。それに対して頭を上げてくれと伝えると、レイは他のハーフリング達の首輪を破壊して回った。
奴隷の印とも言うべき物から解放され、みんな喜んでいるのだが、それでも一人として声を張り上げていないのは、男が予め注意しておいてくれたからだ。静かに、目立たないように、と。
その後、全ての首輪を壊し終えたレイは、男に問いかける。
「ところで、君は戦えるんじゃないか?」
「あれほどの強さを誇っておられる吸血鬼殿のご期待に添えるほどでは無いですが、少々齧っております」
「十分だ。それで君は戦士だろう?」
「え、どうして──。あ! はい、剣士です」
「なら、こいつを貸しておく」
レイは空間に手を入れ、剣士だというハーフリングの男に片手剣を渡す。特別な物ではなく普通の剣だ。
本当はレイが装備しているような業物を渡すべきなのかもしれないが、そのクラスの剣は貸したところで意味がない。
というのも、装備品とは装備者の力量を遥かに越えてしまうと扱えなくなるからだ。
ようは、自分の力に見合ったものでないと駄目なのだ。
「ありがとうございます。受け取らせていただきます」
剣士がレイから片手剣を受け取る。
必要以上に遠慮しないところに、彼の聡明さが窺えた。
「よし。では早速で悪いが君達の仲間を救出しに行く。商館への案内を頼めるか?」
■
聖都を囲む防壁の上空。
レイ達を投げたエストは、念のため生命力を最大まで回復させてから行動を起こそうとしていた。
不死者であるエストは時間の経過──自己治癒力──によって生命力が回復していくことがない。しかしながらその反対に、魔力は時が経てば勝手に回復する。エストが取った選択は妥当なものだと言えるだろう。
それに何より、魔力が残っている現状では、《赤の渇望》に頼った近接戦を行うより、様々な状況に対応出来る魔法を十全に使えるようにしておいた方が賢い。
「──〈落命〉。……さて、俺はどうするか」
エストは強者と戦うことが好きだが、考えなしの阿呆というわけではない。王として君臨した経験だって、一応はある。
「面倒なのは影武者を置いて天子に逃げられることか……。ならば計画の通り、俺は城の地下から攻めるとしよう」
考えを纏めたエストは剣を抜く。そして剣に内包されている能力を発動させる。
まるで闇から湧き出るように、剣の柄から無数の蝙蝠が飛び出した。
「全員、変われ」
エストの命令に従い、蝙蝠達が一斉に変身していく。それから瞬き一つの間に現れたのは、中級の吸血鬼だった。
生気を感じない青白い顔。眼は真っ赤で、牙は剥き出しになっている。さらにその体躯はエストと変わらない程の巨体。
魔法では再現不可能な技術、召喚という強大な力によって顕現した存在である。
魔法とはリモートの技術と定義出来る。
そのために明確な意思を持つ生命体──オートと呼べるような存在は生み出せないのだ。〈冥府の番犬〉なんかもそうだ。あれは首だけで出現しており、モンスターに類する存在ではない。
他にも魔法と召喚には違いがある。それは効果時間の有無だ。前者にはあるが、後者には存在しない。
「飛んで逃げる奴を阻止しろ。他にも異常があれば知らせに来い」
言い付け、エストは城へ向かって飛んでいく。
「それにしても、あいつは俺が近くにいながら、まだ気づいていないのか?」
エストは、レイの目的を叶える為の効率の良い方法を知っていた。
その為にエストからすれば、何故レイが旅などという、非効率的なことを延々繰り返しているのか疑問だった。
「今回ダメだったなら教えてやるか」
ここまでリスクを冒したのは初めてだ。故に何もなければショックは大きいだろうとエストは思った。
とはいえ、これはレイの為にやるのではない。自分の為にやるのだ。
──そう。エストの最終目標の為に、やるのだ。
「そろそろ決着をつけなくてはな」
エストは、強く拳を握り締めた。