あの日、あの時、この場所で。
彼は溜め息を吐いて、部屋の中を見回した。
「この部屋、こんなに広かったっけか」
中にはもう荷物はない。
がらんとしており、少し切なくなる。
荷物と呼べるものは手にしたキャリーケースと、首もとにチェーンで下げた指輪。
それに彼女に誕生日に貰った腕時計だけだ。
彼は腕時計を外した。
今からの事を思うと憂鬱だが、行かなければならない。
「よし」
部屋を出ると、同じアパートの二階に住む彼女の元へ行った。
ノックすると、中から返事がある。
「俺だけど」
ドアを開けると、彼女は泣き腫らした目を驚いたように瞬かせてから。
鋭く、睨み付けるように彼を見た。
「今更、何の用なの?」
相変わらずの気の強さに、彼は苦笑する。
「ごめん」
彼女に別れを告げたのは、つい先日の事だった。
何故、と一晩中詰られたが、彼には謝る事しか出来なかった。
職を離れ、部屋の荷物はさっき、実家の方へ送った所だ。
「最後に、顔が見たくて」
「ふざけてるの?」
彼女の目に宿る怒りが濃くなる。
「一方的に置いていこうとしといておい、のこのこと。優柔不断だと思わない?」
「別に、嫌いになって別れようとした訳じゃない」
彼は落ち着いていた。
むしろ予想以上にいつも通りの反応で、安心したくらいだ。
「でも、黙って引っ越したら、追っかけて来そうだからね。君の場合」
「自惚れ過ぎよ。あなたくらいの男なんか、幾らでもいるんだから」
「そうかな?」
彼はあえて、勝ち誇った顔で彼女の左手を指差した。
彼女は悔しそうな顔をする。
そこには、彼が付けているのと、同じ指輪が嵌まっていた。
「俺、自惚れてる?」
「帰れ!」
彼は肩を竦めた。
「分かった」
「あっ……」
彼が大人しく引き下がろうとすると、思わず呼び止めた、と言わんばかりの切なそうな声を上げる。
「やっぱり、自惚れてないよね。俺」
「……そんな意地悪言うくらいなら、一緒に連れてってくれれば良いのに」
ドアの縁を掴んで顔を半分隠しながら言う彼女に、彼は首を横に振る。
「それは駄目」
彼に付いてきた所で、彼女は絶対に幸せにはなれない。
だからこそ別れたのだし、だからわざわざ最後に、もう一度けじめを付けに来たのだ。
彼は、手を差し出した。
「指輪」
「え?」
「指輪、渡して」
「……何でよ」
どうせ、後生大事に持っておく気だったのだろう。
彼女は気が強そうに見えるのに、中身はどこまでも女々しいのだ。
なのにやたらと行動力があるから、困りものだ。
振り回されたものだが、今となってはその行動力が問題だった。
釘を刺さないと、いつ追い掛けて来るやら分かったものではない。
「持ってても、俺、こっちには帰ってこれないから。幸せになれよ。俺くらいの男、幾らでも居るんだろ?」
「……あなたくらいの男は幾らでもいるけど、あなたはあなたしかいないじゃない」
彼は目を見開いた。
耳に無意識に触れてから、しまった、と思う。
それは、彼女に指摘されて気付いたクセだ。
彼はどうにも、想定外の事があるとその仕草をしてしまうらしい。
今度は、彼女が勝ち誇ったように笑う。
「一方的に惚れてた訳じゃないの、私だって知ってるんだから」
彼は、不意に泣きたくなったが、無理矢理笑った。
「参ったな。じゃあ、こうしよう」
早々に白旗を上げて、彼は腕時計を差し出した。
「君に貰った腕時計。これと交換」
黒皮の男物だが、細い作りだ。
彼女は凛々しい顔立ちで背も高い。着けていても違和感はないだろう。
俺以外に寄ってくる男も……想像するだけで業腹だが、別れを告げた彼にそれを責める権利はない……すぐにそうとは気付かないだろう。
「……いいわ」
思ったよりはあっさりと、彼女は応じてくれた。
「でも、捨てたら許さないわよ。呪ってやるんだから」
「怖い事言うなよ……」
彼は腕時計を手渡し、代わりに受け取った指輪をチェーンに通して、二個に増えた指輪をシャツの中に落とした。
軽く擦れる音を立てて、冷たい感触が胸元に収まる。
「じゃ、これで」
「ねぇ」
「何?」
首を傾げる彼に、彼女はおずおずと言った。
「愛しているわ。……愛していた、と言えるようになったらごめんなさい」
目を伏せた彼女は、どこまでも誠実だった。
「俺も愛してる。……君が他の男を好きになるまで、ずっと」
そして、彼女が目を上げる前に背を向けて、彼は去った。
泣き顔を、見られたくなかった。
※※※
部屋に戻った彼女は、しばらくぼうっとしていたが、腕時計を見て、ゆっくりと嵌めてみた。
この腕時計が、彼と彼女を繋いだのだ。
ただの同じアパートの住人だった彼。
その時に彼氏だった男に、よりにもよって相手の誕生日にプレゼントを渡す前に振られた。
酔っ払って訳も分からない状態でアパートの入口で座り込んで泣いていた彼女に。
たまたま帰って来た彼が声を掛け、愚痴を聞いてくれたのだ。
散々わめいて、あげくその男に渡すはずだったプレゼントを彼に押し付けるように渡して。
……その後吐きまくって、色気もくそもなかったのに。
次に謝りに行った時、彼はそれを身に付けてくれていた。
驚いて訊ねると、彼は彼女に言ったのだ。
『好きな人にいい日に貰ったものを、捨てれないし。使わないと勿体無いから』
ずっと、彼女の事が気になっていたのだと。
その時に、いつもの困ったような、落ち着いた笑顔で言われて、彼女は彼に惚れた。
我ながら単純極まるが、彼はいつも、彼女の思いつきに文句も言わずに付き合ってくれた。
心地良かった。
彼女は思い出に耐える為に、また泣きそうになりながら、親友に電話を掛けた。
「こんな時間にゴメン」
いつもの事だと、親友は笑ってくれた。
「……ねぇ、聞いて。あいつ、来てくれたよ」
彼女の言葉に戸惑いながらも、どういう事? と親友は聞き返す。
「今ね、最後だから……って……」
耐えきれなかった。
涙腺が崩壊し、涙が顔をぐちゃぐちゃに濡らしていく。
「来て、くれたんだよぅ……ッ!」
それ以上は、言葉にならなかった。
泣き喚く彼女の前にあるテーブルの上で、彼と彼女、幸せだった二人が写真の中で笑っている。
―――享年、二十八歳。
それが、彼女が愛した彼が、この世を去った年齢だった。




