白月と桜に散る。(春の恋)
夜空に白月がかかり、薄雲が一筋流れている。
良い夜だ、と彼は思った。
彼は神社の境内で、しめ縄を巻いた桜の古木が満開の白い花弁を散らす中、その根元に立つ女性に目を向けた。
花弁に負けない白い肌を持つその女性は、巫女装束にたすきをかけ、右手に薙刀を、左手に灯明を握りしめ、脇には油を込めた樽が置かれている。
鋼を打った額あてを巻いた彼女の衣は死に装束のように真っ白で、左前に合わせていた。
この後の己の運命を理解しているのか、あるいは己が既に死兵であるという意志の現れか。
どちらとも取れないが、彼女が彼に対して殺意を抱いている事だけは疑いが無かった。
固く眉根を寄せた彼女の眉は太く、本来優し気であった筈の面立ちは濃い隈によって彩られて、その美しさを幽玄のものへと変えている。
「私は、貴方が憎うございます」
彼女は言った。
「是。ならば桜の幹に脇の油を流し、灯明を投げよ。それで、全ては済む」
彼は、桜の木を指差した。
それが、彼の本体だ。
彼は桜の化生だった。
長き時を生きた事で魂を得て、いつの間にか神と呼ばれるようになった。
崇める者に何をするでもなく、気まぐれに姿を見せる事も無く在った彼は、ふとある日、目を向けた者に心を動かした。
それが、彼女であった。
一目見て、欲しいと思った。
だが彼女は神社を継ぐ者として、他の男に奪われる立場にあった。
我がものとしたかった。
他の誰の目にも、二度と触れさせたくはなかった。
そう思う程の狂おしい情動の理由を、彼は知らない。
彼は彼女の家族である神主一家を殺し尽くし。
そして彼女だけを殺せなかった。
誰のものにもしたくない彼女を、貫く異形の指先は彼女の手前で止まった。
青ざめた顔で、闇の中に青く光る白目と彼を映す大きな黒い瞳。
彼は彼女だけを殺せずその場を去った。
狂おしい情動はそのままになった彼は、彼女の動向を眺め、彼女が我が身たる桜の脇に立つのを受けて姿を見せたのだ。
この情動の意味を解せぬままに生きるよりは、彼女の行動を受け入れる方が遥かに楽だと思った。
「どうした。為さぬのか」
唇を噛み締め、振るわせたまま動かぬ彼女に問いかける。
しかし彼女は、動きを見せぬまま再び口を開いた。
その可憐な唇から、かすれた言葉が漏れる。
「何故殺したのです。我が神よ。私は……我が一族は、あなたに弑される何程の事を為したのです」
「何も。ただ我は、我の意志の赴くままに、殺した」
彼女は表情を固めたまま涙を流す。
頬を流れる露にすら美しさを感じる己を、彼は不思議に思っていた。
「何を泣く」
「私は、哀しいのです。この我が身が。家族を殺され、神に弑される罪人と陰口を叩かれ、悲嘆と憎悪に身を焦がす我が身でありながら……」
彼女は、両腕から灯明と薙刀を取り落とす。
足元に転がった灯明は蝋燭の周囲を包む紙を焼き、地に敷き詰められた花弁を焼いて行く。
「一目見た貴方を、忘れ得ぬ我が身が、酷く、哀しいのです」
その言葉に。
彼は己の狂おしい情動が満たされるのを感じた。
「殺して下さいませ、我が神。愚かしくも心を貴方に染めて、仇でありながらそれを為せぬ私を、どうか」
「否」
彼は短く拒絶した。
「我には為せぬ。我が凶行は、汝と同じ情動であるが故に」
自身と同種の狂おしさを彼女から感じた彼は滑るように近付き、その頬に手を這わせる。
血や臓腑だけでなく、人肌とは常から暖かいものなのだと、彼は知った。
目を見開いたままの彼女に、彼は掛ける言葉を持たなかった。
落とした灯明は、乾いた風に徐々に燃え広がり、足元を燃やし始めている。
「諸共に幽玄と成るか、人の子よ。我は満たされている。汝が我と同じ情動を抱いていた事に」
彼女は、足元と彼の顔、そして彼自身である桜を見上げる。
「……はい」
彼女は油を桜に撒き、自らも被ろうとする直前に、彼は訊ねる。
「一つ問う。我が心を、そして汝を焦がすこの情動に、名はあるか?」
彼女は。
切な気な笑みを浮かべながら、彼の問いに答えた。
「はい。これは病です」
「我は病んでいるのか」
「そうです。我が神。そして私も」
彼女は最後に一言を呟いて自らも油を被った。
「人はその病の名をーーー恋、と呼ぶのです」