キスより抱き締めて。
あの頃、駅のホームで私は彼を待っていた。
まだ改札が自動改札じゃなくて、駅員さんが立っていた頃。
出会ったのは、同じ駅のホームだった。
『君、こんな遅い時間までこんな所にいると危ないよ』
そう声を掛けてきた彼は、スーツにコートのサラリーマン。
私はまだ中学生だった。
冬の寒い日で、彼はタバコを吸っていた。
まだ嫌煙なんて誰も口にしていなかった頃だ。
タバコを吸う彼は立ち姿もサマになっていて、顔立ちも凄く好みだった。
だから惹かれた。
『塾、遠いから』
受験戦争は苛烈で、私の親は教育熱心だった。
家は一駅隣で、彼は帰りの時間がいつも被る私を知っていたらしかった。
今なら、不審者事案だ。
でも当時の私は、年上の格好いい男の人との会話なんてものに憧れていたし、数回出会って会話する内に好きになった。
だから告白した。
彼は、何故か受け入れてくれた。
少し困った顔をしていたけど、『ま、いっか』と言う横顔は何故か嬉しそうだった。
でも、会うのは駅のホームでの時間だけ。
連絡先も知らないし、彼はキスもしなければそれ以上の事も求めない。
デートすらしなかったけど、男の人と付き合った事なんかなかった私はそれで満足していた。
でもある日、彼は私を抱き締めた。
『寒いからね』
そう言いながらも、緩くふわっとした抱き締めかたと頭を撫でる手は、どちらかと言えば恋人同士よりも子どもに対するそれだっただろう。
タバコの匂いがする彼との触れ合いは、それでも私の胸を高鳴らせて舞い上がらせるには十分だった。
そして冬も終わる頃、彼は言った。
『今日でお別れだ』
突然言われて、私は泣いた。
『勘違いしないで。君と僕はまた出会うんだ。この時間は、神様が僕にくれた猶予なんだ、きっと』
意味が分からなかった。
でも彼は根気強く私を宥めた。
『キスして』
結局連絡先も何も教えてくれなかった彼に、私はそう要求した。
『未来の僕に、それは取っておこう』
彼はそう笑って、また私を抱き締めて頭を撫でた。
本音を言えば、キスして欲しかった。
でも、また会えるよ、と、そう言う彼を。
何故か、私は信じた。
『約束よ? 戻ってきてね』
『……うん、必ず』
私は数年経って、大学生になった。
そこで、同じ学年の一人の青年と会った。
顔立ちが好みで。
知っているタバコを吸う彼は、私をまじまじと見つめていた。
『何?』
『いや、可愛いなと思って……ゴメン』
少し困ったような顔で頭を掻く彼に、懐かしい記憶が甦る。
『もしかして、―――くん?』
記憶にある名前を告げると、彼は驚いたように目を見開いた。
『なんで知ってるの?』
私は笑って誤魔化した。
私たちは付き合い始めて、結婚し。
彼は事故に遭って、意識不明になって病院に運ばれた。
既に二ヶ月目覚めない彼は、意識回復が絶望的だと言われた。
でも、私は信じていた。
春になる直前に、眠り続ける彼の耳元で囁いた。
「戻ってきてくれるって、約束したわよね?」
数日後に、彼は奇跡的に目覚めた。
「お帰りなさい」
「……ただいま。長年の謎が解けたよ」
「名前を知ってた理由? あなたにも意地悪されたから、おあいこね」
彼はベッドに横たわったまま、困ったような顔で笑う。
「キスする?」
そう聞いてくる彼に、私は首を横に振り。
彼に寄り添うと、耳元で囁いた。
「キスより、抱き締めて」