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アラベスク

作者: kuro

目が覚めると、この場所に居た。

真っ白い部屋。

突然ドアの戸を叩く訪問者・・・

瞬間移動する老人

人間の言葉を話すウサギ

喋るマネキン

なぜ僕はここへ?何のために!


この世界の住人とは...

それぞれの役割とは...

新感覚ミステリー小説の始まりを此処に!


第1章

~目覚め、そして必然性~


目を覚ますとこの場所に居た。正方形の白い部屋。窓は見当たらない。蛍光灯や懐中電灯、そんな類の光を発するような器具はどこにも見当たらない。

しかし部屋は真っ白でその隅々まで肉眼で確認することが出来る。壁に染み一つ無い綺麗な部屋だ。広さは十畳といったところだろうか。まるで世界から孤立した存在のようだ。宇宙空間にこの部屋だけが漂っているようなそんな感じだ。そう感じたのは音という音がこの部屋には存在していなかったからだ。静かすぎて音叉がいつまでも鳴り響いている様な耳鳴りや心臓の鼓動する感覚がやけに誇張されている。

僕は耳が聞こえなくなってしまったのかと思い念の為に自分が着ていた服の袖と袖を擦って衣擦れの音を確認してみることにした。真新しい黒板と黒板消しが擦り合わさったような確かな衣擦れの音が存在していた。どうやら僕はちゃんと耳が聞こえているらしい。

そして心臓が鼓動しているところを見ると死んだ訳ではなさそうだ。頭がズキズキと痛む。まるで鈍器で殴られたような、そんな感じだ。念のため目立った外傷がないか触ったり撫でたりしてみたが特に変わった様子はなかった。そうやって余計な勘繰りを入れている内にその痛みは満ち潮が引き潮になるように徐々に薄れていき、そして完全になくなっていった。

僕はなぜここに居るのだろう。全てのことがボンヤリとしていて思い出せないでいる。目を覚ますとさっきまで見ていた夢をまるで思い出せなくなる感覚と酷似している。すぐそこに記憶はあるのに、まるで蜃気楼のように不確かでゆっくりと、そして確実に霞んでいきやがて完全に思い出すことが出来なくなる。これ以上考えても記憶が遠ざかっていくのを留められそうになかったので、ここは潔く諦めることにした。

僕は状態を起こし改めて今居る場所を見回してみた。この部屋にあるのは今僕がさっきまで横になっていたベッドと、とても足が細いプラスチックか金属で出来ている机と、たぶん木で出来たドアと机と同じ位の大きさの黒い箱が其々部屋の四隅にあるだけだ。

しかし本当になぜこんな所にいるのだろう。不思議と怖いという感覚はない。きっと普通なら声を上げたり必要以上に周りを見渡したり誰かに呼びかけてみたりするのだろう。でも僕はそうしなかった。世の中は全て必然性の中で動いているのだ。きっとこうなっていることも必然で偶然ではないだろうと思っていた。

しかしここは一体どこなのだろう。僕はベッドから起き上がって部屋の材質を調べることにした。床も天井も壁も、僕を囲っているこの部屋全てが白い金属のような鈍い光沢を持っていた。僕は拳で床をコツコツと叩いてみた。まるで布を叩いたかのように音が吸収されて叩いた感覚だけが僕の手に残った。こんどは右手の平を広げ親指以外の全ての指先で壁を撫でてみた。微かに温かいような気がする。僕は右手の平全体を壁にぴたりとくっ付けてみた。やはり微かに温かい。まるで何かしらの生き物に触れた時のような微妙な体温みたいな温もりだ。よく似ているといえば猫を抱えた時のような温もりだ。

僕は床にうつ伏せになり体全体でその温もりを感じてみることにした。なんだか不思議な感じだった。こんな無機質な部屋の中なのに何かに守られているような感じがした。きっと優しくて、とても大きな毛のフサフサした獣のお腹の上で寝そべったらこんな感じかもしれない。

僕は次に足がとても細い机を調べてみることにした。床に両手を着き、腕立て伏せをする要領で上半身を起こし、それから足の裏を接地して起き上がった。

僕は机と自分との間に何か変わったものは無いか眼を凝らして確認した。目をさましたら突然こんな所に居た位だ。何か危険な命に関わるような罠があってもおかしくはない。用心はいくらしたって減るものではない。それに用心する時間に比例して不安も軽減される気がした。少なくとも今よりは。おそらく机と僕との距離は三メートルといったところだろう。

まずは床に何か異常はないか調べる為に僕はベッドに掛けられていたシーツを手に取り、歯で三箇所に切れ込みを入れて縦に裂いて三本の細長いシーツの紐を作った。それを三つ網にして縄を作った。

そして枕のカバーを外してそれに残りのシーツを詰め込んでボール状の物を作った。それをシーツの縄の先端に括りつけてハンマー投げのハンマーのような物を作った。

シーツの塊がしっかりと先端に結ばれて離れないことを確認して、それを背負い投げの要領で出来るだけ遠くに投げ、同時に勢い良く床に叩きつけた。先端についたシーツの塊は僕が予想していた以上に勢いよく投げ飛ばされていき、床に勢い良く叩きつけられた。

しかしやはりというべきか着地した時の音は床に吸収されたらしく静かだった。僕はこの部屋に重さに反応するものや、動くものに反応するセンサーが付いているのなら今この部屋に何かしら変化があるはずと考えたのだ。しかし部屋にはなんの変化も見当たらなかった。うんともすんとも言わない。僕は念の為に投げ飛ばしたシーツの塊をゆっくりと引き寄せて、それでも何も変化がないことを確認した。

しかしよく考えたらこんなことしても意味がないような気がしてきてしまった。もし何者かが僕を監禁しているのなら何処かにカメラなりマジックミラーなりを設置していてもおかしくないはずだし、それに僕が目を覚ましてからこれだけの行動を起こしているのに何もアプローチがないのは少し不自然すぎる気がする。そしてもし僕の命を奪うことが目的なら僕はとっくにあの世に行っていることだろう。しかし、僕が何かの理由で人質として意味を成しているのなら話は別だ。僕を生かしている意味があるしアプローチがないとしても不思議ではない。でも、それにしても外の音が全く聞こえないのはどういうことだろうか。

僕はシーツを引き寄せ終えてからそれを無造作にベッドに投げてから、机に向かって歩を進めた。僕は机を正面に捉えるようにして前に立った。足が細い机は卓上から脚から引き出しの取手から全てが鼠色をしている。部屋の鈍い光沢とは少し違った銀の絵の具のような色合いをしている。

そして妙に瑞々しく見える。ここに《ペンキ塗り立て》という札があったのなら誰も疑うことはないだろう。デスク下には引き出しが三段あって、上段と中段はどこにでもあるような高さ十五センチほどの大きさの引き出しで、下段は上の二段に比べると何倍も大きく小さなテレビならすっぽりと入ってしまいそうな大きさをしていた。

僕は上段の机の引き出しから順番に中身を調べていこうか、それとも一番大きな下段の引き出しから調べていこうか考えていた。どうせ全部開けて調べるつもりだったので順番はさほど重要じゃない気もするのだが、なぜか僕の感覚は引き出しを開ける順番はとても重要だと悟っているようだった。僕は色々な角度から机を見たり、その色合いを確かめたり引き出しの大きさを確認したりしながら、どこから開けようかひたすら考えていた。

と、その時。たぶん木で出来ているドアのドアノブが運動靴とフローリングの摩擦した時のようなキュッキュという音を立ててゆっくりと右に回転しているのが見えた。何物かが外側からこちらに入ろうとしてドアノブを回しているらしかった。

そしてカチャと音がして茶色のドアと真っ白な壁の間に僅かな黒くい細い隙間が出来た。僕は少しずつ開いていくドアを黙って見ていた。僕は自分でも気が付かない間に鼠色の机に左手を掛けていた。きっと何かに触れることで不安を拡散させたかったのかもしれない。

そして今触れているこの机も床や壁と同じような動物の体温のような温もりを持っていた。なぜだかこのぬくもりは心地が良い、と僕が思っている間も確実にドアの隙間は徐々に広がって、そこに確かに広がる空間へと変化していっていた。

それはいつかテレビで見た顕微鏡で見ている細菌が徐々に増殖していく光景にどこか似ていた。やがて、たぶん木で出来ているドアは僕が通れる位までの広さまで開くと、その動きをピタリと止めた。そして暗闇の奥からズルズルと何かを引きずるような音が聞こえていた。

それは確実にこの部屋の中を目指しているようだ。音はゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。そしてドアのすぐ前当たりまで来るとズルズルと何かを引きずるような音も止み何者かの気配だけがそこに漂っていた。ねっとりとした粘着質な視線が暗闇の奥から僕にまとわり付いているのがはっきりと分かる。獣のそれとは違う人間独特の気配だ。「誰か居るのか」と僕は暗闇に向かって投げかけてみた。

すると暗闇からのっそりと姿を現したのはボサボサの白髪と白ひげを蓄えた小柄なじいさんだった。髪は伸びきっていて腰の位置よりも低い。前髪も長すぎて目を確認することが出来ない。しかし鼻だけは何かのスイッチのように垂れた前髪から出ている。

体には煤けた一枚布を纏っている。所々が解れていて穴も開いている。それは机の鼠色と違った別の鼠色をしていた。きっと始めはこの部屋のように真っ白な布だったが、使い込むうちに汗や脂や汚れで今のような色をしてしまったのだろう。小柄なじいさんは部屋の奥に入ろうと足をゆっくりと踏み出した。それと同時にズルズルという音も同時に聞こえてきた。どうやらじいさんが纏っている一枚布が長すぎて後ろでそれを引きずっている音らしかった。じいさんは右手に自分の身長ほどの木の棒を杖代わりにしていた。その杖がなければペグの無いテントのようにちょっとした風にも簡単に吹き飛ばされそうな感じがした。じいさんはゆっくりと部屋の中に入りきると、何かを確かめるようにノブを左右にキュッキュと回してから、ゆっくりとドアを閉め始めた。小さくパタンと音を立てドアは完全に閉まりきってしまった。じいさんは僕の方を向いていたが髪の毛が長すぎて目が見えない為、僕のことを見ているとは断言できなかった。するとじいさんは体を上下に揺すりながらフォッフォッフォと声を出して笑い始めた。

「目を覚ましたかね。フォッフォッフォ。」

声は少し高く擦れている。いや、しゃがれているといったほうが良いのだろうか。人生の修羅場を乗り越えてきたかのような粋な擦れ具合だ。声からは悪意や、さきほど感じた粘着質な感じは見受けられない。それどころかどこかサッパリとして潔い感じさえしていた。

僕は体の全ての感覚を駆使して身構えていたが、このじいさんには警戒心を解いても良いような気がしていたが、それにはまだ早い気がしてもう少し様子を見ることにした。

じいさんはこちらの心中を察しているかのようにこう言った。

「警戒せんでも宜しいいがね。わしはこの通り杖が無いと歩くことも出来ん。」

そう言うと杖で床をトントンと二回ばかり叩いた。しかしやはり音は床に吸収されて、その動作だけが確かな感覚として部屋に漂っていた。

「それにあんたの方が力もあるし体力もある。わしが襲ったところで敵う訳あるまいて。」

じいさんはそう言うと歯の隙間から空気を漏らしながら少し嬉しそうに笑っていた。

「じいさん。ここは一体どこなんだい?僕はなぜここに居る?」

僕は表情に出さないでいたが少し興奮していた。久しぶりの人との会話のような気がしていたし、とにかくどうして僕がこんな所に居るのか知りたかった。そしてこのじいさんは何かしら僕にとって有益なことを知っているはずだと感覚が教えていた。

「ここがどこだか分からんのかね。フォーフォッ、なぜここに居るかだって。それはわしらよりもおぬし自信がよく分かっているのではないのかね。」

「どういう意味だい。僕にはあなたの言っていることが理解できないよ。僕は何も知らないから聞いているんだ。」

「何も知らないかね。理解出来んかね。それは違うと思うんだがね。」

じいさんは本当に不思議そうに僕にそれを確認しているようだった。

「今お主が見ているものは本当に信じるに値するものなのかね。目に映るもの全てが真実とは限らんよ。それに本来視覚という機能は角膜から入った光が、硝子体を通過して網膜の外層にまで達して光を神経の電気信号に変換して視細胞に働きかけるものなのだよ。ほいでな、最終的に大脳皮質の視覚野、視覚性連合野という所に伝わっていきおる。ほいでもって大脳では最終的な情報の統合が行われて、脳の他の部位とも連動して色や動きや形、距離といった感覚が生じた後に、ようやく最終的に視覚から得られる情報の意味まで考えることが出来る、ということなのじゃよ。」

僕はじいさんが何を説明してくれているのか途中から分からなくなってしまった。

「つまり・・・。」

「つまりじゃ。極端な話だがね。おぬしが見ているものは一種の電気信号の末路に過ぎないということだがね、フォーッフォ。」

「なるほどね。僕もお礼に一つ良いことを教えてあげようじゃないか。人は誰もが目に映るものを真実として捉え認識する。なぜならその為の視覚機能だからさ。然り而して、目に映る全てのものが真実ではなかったとしても、それを真実として認識するように僕達は刷り込まれているのさ。」

じいさんは少しも動かず僕の話に耳を傾けている。もしくはネジが切れているのか。実はじいさんの背中にはゼンマイがあって再びじいさんが動き出すにはそのゼンマイを巻いてやる必要があるかだ。可能性は否定出来ない。しかしじいさんは再び口を開いた。

「中々面白いこと言うの。ではおぬしが今目にしているものが真実じゃろうて。ここにはどうやって来たのか、それは問題ではない。問題はこれからどうしたいかということじゃよ。」

「じいさん、問題をすり替えてやしないかい。」

僕はじいさんの言葉には何かしらの意味があるのだろうということは受け入れることが出来ているのだが、じいさん自体の存在は曖昧なままだった。何かこう・・・通訳を通して話しているような感覚なのだ。言葉には違和感や不確かさはないのに、相手の本心や存在が曖昧な気がしてならないのだ。確かにそこに存在しているはずなのに蜃気楼のように揺ら揺らとしているような感じだ。瞬きした次の瞬間にはもうその存在が無くなってしまっているような、まるで手腕のマジシャンや詐欺師を相手にしているようなイメージに近い。

「フォーフォッ。はて、問題とは何ぞや。おぬしの演繹的な論理のことかね。それともどうしてここに居るのか、ということかね。」

「帰納的な論理と言って貰いたいね。まぁいい。両方だよ。特に後者だろうね。」

「そうかね。後者かね。ふむふむ、なるほど。」

じいさんは布から出ている細い腕をポリポリと掻いて、杖を孫の手のように使って背中もポリポリと掻き出した。じいさんの皮膚と杖が擦れる音がこの部屋を占領していた。

「ベッド。」とじいさんが一言つぶやいた。

「ベッドがどうかしたのかい?」

「ここまで来るのにちと疲れてしまったわい。立っているのも辛いんじゃよ。そこのベッドに座ってもいいかね。」と言って後ろにあるベッドを指した。

「あぁ、いいよ。どうせ僕のベッドではないんだし。好きにすればいいさ。」

僕は後ろのベッドに目をやり、再びじいさんの方に向き直った。

「え・・・。」

じいさんは居なかった。僕がほんの一瞬後ろのベッドに目をやった隙に消えてしまった。僕はじいさんの方を向いて話しをしていて、じいさんがベッドに座りたいと言って後ろのベッドを指した。そして僕は後ろを振り返りベッドを目視した。そして再び正面にいるはずのじいさんに向き直った。その間、時間にして一秒くらいだろう。一体なにがどうなっているのだ。少しずつ混乱が頭を支配してくる。

すると後ろからトントンと小さな音がしているのに気が付いた。僕は反射的に後ろを振り返った。するとそこにはベッドに座ったじいさんが確かに存在していた。じいさんは杖を持っていない左手で腰を大事そうに叩いている。

「すまんのう。なにぶん年なもんで腰が痛みだしたら、しばらくは痛みが引かんのだよ。」

僕は考えを言葉にすることが出来なかった。色々な単語が頭の中に羅列していて、それを整理して言葉として変換する作業は至難だった。

「何を驚いておる。わしは何も驚くようなことはしておらんぞ。目に映るもの全てが真実ではなくとも、真実として認識するように刷り込まれているというのは詭弁じゃのう。おぬしは本質を見ておらぬ。なぜ見ておらぬか、おぬし分かるかの。」

じいさんの声は真っ直ぐだった。前髪で隠れてはいるがじいさんの目が僕を捕らえているのがひしひしと伝わってきた。

「フォーフォッ。少しばかり混乱しているようじゃのう。しかし混乱とは悪いことばかりではないぞ。これまでに人類に多大なる貢献を来たす発明や発見をしてきた歴史的偉人達も混乱という関門を必ず潜り抜けておる。混乱とはすなわち是、成長の過程なり。」

じいさんはさっきとは違う気質の声色のような気がした。まるで炭酸ガスが抜けたような感じだ。丸みを帯びたと言ってもいいだろう。

「僕にはよく分からないよ。じいさんの言う通り少し混乱しているようだ。」

僕は単純に思っていることをそのまま口に出した。

「そうじゃろう、そうじゃろう。」といいながらじいさんは髪の毛にも引けを取らないボサボサの髭を撫でながら言った。

「僕かこれからどうするべきなのだろうか。」

「これからどうするべきかということは問題ではないのだよ。大切なことはどうするべきかではなく、どうしたいかじゃよ。そうじゃ、おぬしにも一つ良いことを教えてやろう。一度きりしか言わぬでの。よく聞くことじゃ。わしは同じことを二度言うことは好きではないでのう。よいか、おぬしがこの部屋を出ぬ限り、危険が向こうからやってくることはない。そのドアの向こうには門番が立っておる。」

そういうとじいさんは少し首を掲げた。自分の発した言葉の何かに納得していないようだった。「ふむ」と言ってじいさんは話を続けた。

「この場合は門番というのが適切ではないような気がするが本人が門番と言っておるでの。とにかく門番がいる限りはここでの安全は間違いない。」

「ちょっと待って。質問くらいはさせてくれよ。この部屋の外には僕にとって何か危険なことがあるということ?」

「愚問じゃの。続けるぞい。ん・・・、おっと。」

そう言うとじいさんは何かを思い出したように上を向いて何度か頷いていた。そして杖を使ってゆっくりと立ち上がって人差し指を立て口の前に当てると、僕に静かにしろという合図をした。僕は訳が分からなかったが従うことにした。

「わしはそろそろ行かねばならぬ。おぬしとはもっとゆっくり話をしたかったが、どうもそうはいかんようじゃて。」

そう言うと杖を突き、長い布をズルズルと引きずってドアの方へと歩きだした。そしてドアの前まで辿り着くとドアノブを左右に回し「ふむ」と言って、ドアノブをゆっくりと引いた。ドアは音もなく部屋の内側へ引き寄せられそしてじいさんを静かに迎え入れた。

僕は閉まり行くドアの向こう側を覗いてみたが、じいさんが来た時と同じように混沌とした暗闇が広がっていた。僕はそうした光景をただただ見ていた。どうしてじいさんを引き止めなかったのか、引き止めてもっと色々な情報を引き出さなかったのか、と自分に自問自答していたが応えはすでに出ていた。きっと僕が何をいってもこうなることに変わりはなかったのだ。そしてこうなることはきっと必然的なことだったのだ。


第2章

~僕とウサギの門番と~

僕はベッドに横になりしばらくの間、時間の流れに身を任せていた。なるべく何も考えないように、そしてなるべく自分自身が放つ問いに耳を傾けぬよう、静かに時間の流れに体を委ねていた。

目を覚ましてからあまりにも分からないことが多すぎる。きっと今色々と考え込んでしまうと僕は漫画の登場人物のように頭から白い煙が狼煙のようにプスプスと立ち込めてきてしまいそうだった。

目を覚ますとここにいて、長い布を纏ったじいさんが現れて外には危険があると言い、しかし自分から出ぬ限りは門番が居るから大丈夫というようなことを言った。そしてこの部屋を出ていってしまった。そして僕はまた一人この部屋に残されてしまった。僕に説明出来る大まかなことはこれしかないと言っても良かった。これだけの情報しかなくて僕はいったい何を考えられようか。

しかし、いつまでもこのままという訳にもいかなかった。何事も一歩を踏み出し着手しないことには何も始まらない。僕は段々と自分から逃げているような気がしてきて、こういう時こそ考えるべきではないかと思い始めていた。人間を動物から区別するものは思考なのだ。僕はベッドから上半身を勢い良く起こした。無意識に「よしっ」と掛け声をかけていたが、僕は声を出した後にそれが自分から発せられた音だと気が付いた。そして勢いを帯びた掛け声もこの部屋の静けさにすぐに溶けて消えていってしまった。

さて、何から考えるべきか。きっと何から何までを広く知ろうと多くのことを考えることは森に放たれた猿を捕まえるのに匹敵する位に困難でエネルギーも消費するに違いない。それならまずは謎という森を一本の木に変化させてみようと思った。勿論それはメタファーとして。まずはじいさんの言ったことを思い出してみる。じいさんは「大切なのはどうするべきかではなく、どうしたいか」と言っていた。しかも僕の記憶が正しければ二回言っていたような気がする。どうしたいかが大切だと。僕は今どうしたいか。まずはそこから考えてみることにした。僕はじいさんが言っていた門番の存在が気になっていた。僕とじいさん以外からバーバルであれノンバーバルであれ、なにかしらの情報を得られそうな存在が門番だからだ。僕はきっと遅かれ早かれ門番に会うことになる気がしていた。出合った瞬間にこの人と結婚するような気がすると感じる人が居るらしいが調度そんな確信にも近い予感に似ているのかもしれない。僕は少し後ろに上体を反らしてから勢いを付けて立ち上がった。するとまた自分の意識とは裏腹に「よしっ」と声を出していた。今度は掛け声ではなく門番に会うという決意が声となり僕の口から放たれた音だった。立ち上がった僕はたぶん木で出来きているドアをじっと見つめた。そして深く深呼吸した。鼻から吸い込んだ乾いた空気が肺へと流れ、そしてゆっくりと口から吐き出されていった。僕は吐き出す時に体中に漂っている不安も一緒に吐き出す様を想像した。不思議と本当に不安も吐き出されていくようだった。僕は目を閉じてもう一度深呼吸をする。深く、そしてゆっくりと。先ほどと同じように吐き出す時に不安も一緒に排出する様を想像した。僕の口から紫色した不安で出来た煙が息と共に吐き出されていく画が瞼の裏に浮かんだ。瞼の裏に浮かんだ紫色の煙の形はいびつで、紫煙とも濃霧とも違った感覚だが確かに思念を通り越した物としてそこに存在していた。僕はゆっくりと目を開けた。しかしそこに紫色の煙は無かった。やがて僕の息は段々と薄れていき、完全に息を吐き出し終えた。不安の念は完全に拭いきれなかったが大分減っているのは確かだった。

僕は一歩一歩感覚を確かめるようにドアへと近づいていった。ドアの目の前まで近づくと、それが木で出来ていないことに気が付いた。見た目は木そのものなのだが全くの違う質のものだった。木のような温もりはなく無機質なウッドペイントのような感じだ。指の先でそっとドアの表面に触れてみると、やはり微かに暖かかった。しかし触れた時の感覚からしてやはり木ではないようだった。表面は実に滑らかでどんな虫でもこのドアの表面には止まれないような気がした。そしてドアは部屋の壁や床、そして机と同じような材質で、鈍い光を微かに放っていた。僕はまたじいさんの言葉を思い出していた。

「視覚は一種の電気信号の末路・・・か。」

僕は妙に納得してしまっていた。僕はこのドアを見て木だと思っていたが実際は違った。「本質を見ていない・・・か。」

僕はまたじいさんの言葉を思い出し、つぶやいていた。

僕はドアの表面に触れたままの指先をゆっくりとドアノブに滑り落としていった。そしてドアノブに辿り着くとそのままノブを握ってその感覚を確かめた。僕の心臓の鼓動は早まり、大きな音を立てて踊っていた。きっとこのドアを開くまで心臓が落ち着くことはないだろうと思った。僕はゆっくりとドアノブを右に回してみた。ドアノブは音を立てずに静かに回った。僕は立ち位置を変えずに肘だけを動かしてドアノブを押してみた。するとドアは音もなく滑らかに開いていった。

僕の心臓はいつの間にか落ち着いていた。僕は確実に広がっていくドアの隙間の向こうの光景に目をやった。ドアは完全に開ききり僕を招ねいているようにも見えた。ドアの向こうは僕が両手を伸ばしてもまだ余裕があるほど位に幅のある長さ十メートルほどの廊下のような空間だった。天井の高さも色も質感も部屋と全く同じだった。ただ違うのは部屋と違って細長い形をしていることだ。僕は廊下へと歩を進めた。よく見ると置くには更にドアがある。ドアというよりは扉といったニュアンスだろうか。この空間と部屋を繋いでいるドアに比べると断然丈夫そうだ。まるで御伽噺にでも出てくる地獄の門を想像させる。その扉の横には小さい玩具の家のようなものがある。犬小屋にも見えるが定かではない。赤い屋根以外はクリーム色をしている。大きさは大型の犬が一匹ようやく入りそうな位だ。入り口らしき穴もあるのが分かる。しかし入り口の奥は薄暗くて中はよく見えない。僕はこの廊下のような空間を改めて確認する為、隅々まで見回して見た。後ろを振り返ってみると僕が入ってきたドアはいつの間にか閉じられていた。しかし気にしなかった。もしいつの間にか閉じていたドアを僕が再び開こうとしてそれが叶わなかった場合、僕の中には強い不安しか生まれてこないような気がしたので、それならば敢えて気にしないようにと考えた。僕は閉じられたドアを背に小屋へと歩を進めた。歩きながら部屋を再度見渡してみても小屋らしき物以外にこの空間には何も無さそうだった。僕は小屋の前まで近づいて、しゃがみ込んだ。僕は何が起きてもいいように小屋と僕との距離は一定の間を置き、いつでも後方に駆け出せるようにつま先にも力を入れていた。僕はしばらく小屋の中の薄暗い闇と向き合っていた。すると小屋の中から微かではあるがカサカサと音が聞こえていた。それは干草か枯葉か、あるいは細かく千切った新聞紙か何かが擦り合わさった時に発せられるような音だった。カサカサ、カサカサと音は再び鳴り始める。この小屋の中で何かが動いているのは間違い無さそうだった。僕はチッチと舌打ちをして小屋の中の何かに呼びかけてみた。すると小屋から白い塊が勢い良く飛び出してきて僕の横を通り過ぎていき、後方へと消えていった。僕はそれを目で追うことも出来ずに、頭の中のハテナマークだけが僕を支配していた。僕は急いで立ち上がって後ろを振り返り部屋を見渡して白い物体を探した。しかし白い部屋に溶け込んだ白い物体は中々見つからなかった。僕は床に顔を近づけてその物体を探した。右の耳をぺったりと床に貼り付け、目線を出来るだけ低くして目を凝らして探した。しかし、そこには平面な床が広がっているだけだった。

「ぴょん」

僕の意識は何よりも早くその音を敏感に捉えた。しかしそれよりも先に全身の筋肉がそれに反応して状態を起き上がらせていた。確かに僕の前方から何かの声が聞こえた。単に音ではなく生命を感じさせる確かな声だった。しかしやはり床には何者の存在も確認することが出来ない。しかし、僕の視線は何かを捕らえていた。僕は床に向けていた全視覚意識を空間全体へと広げた。すると赤い点が天井付近に浮かんでいるのが見えた。

僕はその赤い点へと意識をゆっくりと向けてみる。すると一つだと思っていた赤い点は二つ存在していた。

「ぴょん」

確かに赤い点からその声が発せられた。間違いない。しかし僕はどうしてよいのか分からなくなっていた。とにかくもう少し近づいてみよう。

「近づいてもいいかな。」

僕はその赤い二つ点に向けて話しかけた。実際は、赤い点に話しかけたというよりは自分の行動を確実にする為に出た言葉だった。そうでも言わなければ僕はいつまでも呆然と立ち尽くしてしまいそうだったからだ。赤い二つ点は何も反応しない。ただ天井に近い位置でその確かな存在を定着させていた。

「ゆっくりと近づくよ。」

僕はそう言うと中々動き出す気配がない右足に動けと意識を向けた。しかし最初の一歩を踏み出したのは左足だった。僕は右足でも左足でも動いてくれればそれで良かった。僕は言葉通りにゆっくりと歩を進めた。僕は何も持っていないことを提示する為に手の平を前方に向けて歩いた。敵意が無いことの意思表示だったがその行動に意味があるのか無いのかは正直分からなかった。しかし何事も用心に越したことはないのだ。

僕と赤い二つの点の距離は段々と狭まっていき、距離が縮まっていく度に、その不確かな存在が段々と確かになり始めてきた。赤い二つ点は眼だったのだ。白い毛、長い耳、小さな口。ウサギだ。しかも天井に張り付いている。というか天井に座っていると表現した良いのだろうか。床と天井が逆転してしまっている。僕はようやくその存在を確認した安心感とウサギが天井に座っていることの不可思議さに頭が痛くなってくるようだった。

「ねぇねぇ、どうしたぴょん。」

ウサギは確かに僕に向けて言葉を放った。もう今更ウサギが言葉を話したって驚かない。いや、驚いてはいるのだが、僕にはそれを受け入れるほか選択はないのだ。それにウサギが言葉を話したからといって何の害もない。むしろ話が出来てありがたい位だ。

「いや、なんでもない。平気さ。」

「そう。・・・ぴょん。」

ウサギの声は幼い少年のような声だった。とても透き通っていて無邪気な子供のような柔らかい声だった。

「ウサギさん、と呼べばいいのかな。ここはどこなのか教えてくれないか。」

「ここはここであってどこでもないよ。君はおかしなことを言うね。それから僕のことは何と呼んで貰っても構わないぴょん。」

「そうかい。じゃあそうさせてもらうよ。ところで僕はいつまで君を見上げて話せばいいのだろう。もし問題がなければ床に下りて話をしないかい。」

「そう望むのならそうするぴょん。」

そう言うとウサギは体を反転させながら重力に従順に降りてきた。落ちてきたのかもしてない。着地の瞬間はまるで猫のようで、何の問題も感じさせなかった。

「ウサギってぴょんぴょんと走り回るイメージがあるでしょう。それを語尾に付けるとなんだかよりウサギらしいと思うのだけれど。君はどう思う?・・・どう思うぴょん。」

「僕はウサギと話をするのは初めてだしよく分からないけど、君の言うことも一理あるような気がする。でも何だか後付けのような感じがするよ。ウサギが無理して語尾に『ぴょん』と付けるのをウサギらしいと言えるか僕には分からない。」

僕は喋りながら、今度はウサギが僕を見上げる形で話をしていることに気が付き急いで床に腰を下ろした。それでもウサギが見上げるようにはなるが幾分かはましだろう。

「なるほど。そう言われるとそうだね。でもこれは癖といっていいぴょん」

ウサギは僕の言葉に感心しているようだった。ヒクヒクと鼻を動かしてうなずいているようだった。

「ところでウサギさん。ここをじいさんが通らなかったかい?杖を持ったじいさんだ。」

「じいさん?あぁ、通ったぴょん。正確に言うと僕が通したんだ。ここは僕の許可なしには通ることが出来ない。勿論、例外が無い訳ではないけどね。」

「君がじいさんを通した、ということか。じいさんは何か言っていた?」

「君が目覚めたからって、それだけだよ。ここを通すには十分過ぎる理由だね。」

「門番のことは何か言っていなかったかな?じいさんは門番が居るって言っていたけれど、その更に奥の扉の向こうに居るのかな?」

ウサギは不思議そうに僕を見ていた。

「門番は君の目の前に居るじゃない。そのじいさんが言っていた門番って僕のことだよ。あなたはおかしなことを言うね。そうか君はまだ分からないんだね。それとも分かろうとしていないのかな。まぁどっちも同じようなものだけどね。」

僕は益々頭がこんがらがってきそうだった。きっと頭の中では糸がかた結びの要領で何重にも絡まっているに違いない。

「じいさんが言っていた門番というのは君だったんだね。」

「そう。僕が門番だよ。よろしくぴょん。」

ウサギが僕に宜しくと言っている。僕は段々とおかしくなってきてしまった。気が付いたらクスクスと笑っていた。

「何か楽しいことでもあったの?笑ったりして。僕にも教えてくれよ。」

ウサギの門番はピョンピョン走り出し、やがて小さな円を描くように僕の前で素早く回りはじめた。段々と速さを増していきその勢いはグルグルと氷の上を回るスケート選手を彷彿させた。ずっと見ていたら僕の方が目を回してしまいそうだ。それに僕にはウサギが興奮しているのか喜んでいるのか、それとも怒っているのかは判断が出来なかった。

「なんでもないよ。だから落ち着いて話をしないか。僕は君とまだ話がしたいだ。どうだろう。止まって話をしてくれないかな。」

するとウサギはピタリと止まって僕の方を向きじっと見つめて鼻をヒクヒクとさせている。

「いいよ。君が話をしたというなら話をしよう。」

ウサギはやけに素直だった。僕はその幼い少年のような声から勝手にウサギがワガママかもしれないとどこかで決め付けていたようだ。僕の中では子供はワガママという先入観があるようだった。

「ありがとう。何から尋ねればいいだろう。」

本当は沢山聞きたいことがあるはずなのに、いざ聞こうとすると中々言葉に出せないでいた。僕は前にも同じような感覚になったことがある。まだ小さい頃、小学校低学年の頃だっただろうか。将来の夢は?と聞かれたが、沢山の夢の中から一つを選ぶことが出来ず、中々言葉に出せない僕は泣き出してしまったのだ。何も泣く事はなかっただろうになぜか僕は泣いてしまった。あの時僕は何故泣いてしまったのだろう。自分自身のことなのにどうしても分からなかった。

するとウサギが僕の腰の辺りの高さまで飛び跳ねて言った。

「ねぇねぇ、僕はじいさんと違って難しいことはよく分からないよ。何と言っても僕は門番だからね。君がもし色々と僕に尋ねようとしているのならそれは尋ねる相手が違うってことになるよ。だって門番っていうのは門の番だよ。門衛とも言うね、うん。」

「そうか。君は門番だから色々と尋ねるには相手が違う訳だね。」

「君の役に立てなかったのなら謝るよ。」

「君が謝ることはないよ。君には君の役割がある。そうだろう。」

「うん。僕には僕の役割がある。その代わりと言ってはなんだけど、もし君が色々なことを知りたいのならポストのやつに聞いてみたらどうだろう。きっと彼なら色々と知っているかもしれないぴょん。」

じいさん、ウサギと来て次はポストか。僕は真っ赤な色をした四角い一本足のポストが喋っている所を想像してみた。きっと主食は葉書に違いない。ウサギのように動き回ることが出来ないポストはその代わりに頑丈に出来ていそうだ。僕はそんなことを考えていたらまた笑いそうになってしまったが、またウサギが回り始めても困るので我慢した。どうやらここに居る間は退屈することはなさそうだ。

「ポストなら何か知っているかもしれないということだね。そのポストにはどうしたら会うことが出来るかな。もしも知っているのなら教えて欲しい。」

ウサギはウーンと唸り、何事かを考えているようだった。やがて飛び跳ねながら重力に逆らって壁の側面を登り、やがて天井へと移動して完全に上に張り付いてしまった。僕はその動きを目で追っていた為、再びウサギを見上げる形になっていた。

「僕はポストを通すことは出来るけど、呼び出したりすることは出来ないぴょん。彼がいつもどこに居るのかも知らないんだ。彼は自由を愛し、また他人を鑑賞しない。だけど、あなたが会いたいと思っていれば会うことも出来るはずだよ。だって」

そこまで言うとウサギは急に奥の扉の方を向いて動きを止めた。じっと扉を見ている。ウサギの視線と意識は奥の扉一点に集中されているようだ。ピンと空気が張り詰めている。僕は自分の呼吸する音だけを聞いていた。何かが扉の奥に居るらしい。僕は怖がっている。その存在を心から恐れている。どうしてこんな気持ちになっているのだろう。まるで草食動物にでもなった気分だ。草むらにライオンが我が身を隠し、今か今かとチャンスを伺っている。しなやかな筋肉は竹のように撓り、その力をいつでも発揮出来るように静止している。荒々しい呼吸を堪え、冷たい視線で標的を見つめている。一瞬でも気を抜けば首元にその剣を食い込ませ、肉を削ぎ、滴る血を味わう。

僕は震えていた。まるで四肢に重りでも付けたかのように体が重く感じられた。僕はこの恐怖を知っている。それを体が照明しているのだ。頭が早くこの場から逃げろと叫び続けている。しかし動かすことが出来ない。

「部屋に戻った方がいいね。」

ウサギの声は緊張を帯びていた。そして再び天井から猫のようにしなやかな動きでくるりと一回転して着地した。そして僕の後方、つまり僕と扉との間に回りこんで僕に背を向けたまま再び口を開いた。

「あなたも感じているんでしょ。でも大丈夫だぴょん。だから今は部屋に戻るのが賢明だよ。」

「動かないんだ。体が言うことを聞かないんだよ。はは・・・」

僕は少しだけ笑っていた。別に現状を楽しんでいる訳でもないし、歓喜している訳でもない。ただ恐怖を緩和させようと僕が無意識に作り出した自己防衛の手段だった。きっと野生動物は日々こうした恐怖と共に生きているのだろう。僕らみたいな微温湯のような生活を送っている人間には中々お目にかかれない体験をしているのかもしれな。

「僕を抱き上げることは出来るかい?」

そう言うとウサギは僕の胸の辺りに突然飛び込んできた。僕は反射的にウサギを両手で受け止めてウサギを抱えていた。ウサギの言動は実に理に適ったものだった。僕の所に飛び込む前に《僕を抱き上げることは出来るか》と尋ねることで、僕の意識にウサギを抱き上げるという一つの行為を想起させた。そして宣言なく飛び込むことで僕の反射神経はその想起に刺激させ両手で受け止めるという行動を取った。ウサギがそこまで計算していたかどうかは確認していないが僕には分かるのだ。

「出来たぴょん。」

そう言うと僕を見て鼻をヒクヒクとさせている。僕はウサギの温もりを体で感じていた。そこには確かな生命が存在していて僕を幾らか安心させた。ウサギの毛並みはとても美しく、まるでシルクのような滑らかさだった。僕はウサギの背中をゆっくりと撫でていた。不思議と僕の不安は薄れていくようだった。薄れていくというよりは不安がウサギに流れていくようなそんな感じだろうか。

「さぁ、もう平気だぴょん。君の体は言うことを聞いてくれるよ。」

そう言うとウサギは僕の胸元から離れて、また奥の扉に向き直りじっと視線を投げかけている。僕は両方の足と手に意識を向けそれらが動くか確認してみた。僕の体は先ほどと違い素直に動いてくれた。

「僕は部屋に戻るべきなのだろうね。」

「それはあなた自身が決めることだぴょん。僕には君の行動を縛る権利もないし、決定する力もないぴょん。」

「でも君は部屋に戻った方が良いと僕に教えてくれた。そして僕は部屋に戻るべきだと確信している。君は僕の大きな力になってくれたよ、ありがとう。僕はまたここに戻って来る。また会おう、ウサギさん。」

ウサギはそれに応えるように上に高く飛び上がってくれた。僕はその姿を後ろに元来た道を引き返してドアに向かって歩き出した。僕はなぜだか少しセンチメンタルになっていた。


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