序章:女神との攻防②
授業中、ノートを取っているはずなのに、 ペン先が何度も止まる。
板書の文字の隙間に虹色の葉と、セピア色の幹がちらつく。
――外側だけ、綺麗な世界。
あの庭園。
風が笑い、花が歌っていたあの場所。
けれど、外の世界には、表面的な世界でも広がっているというのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
ウェルナの言葉が、頭の奥で繰り返される。
『貴方が弱者を見捨てない優しき強者だから』
黒板にチョークが走る音がなぜか遠く感じる。
それは、褒め言葉だったのだろうか。
それとも――呪いだったのだろうか。
“優しい”と言われるたび、それが、まるで義務のように胸に貼りつく。
優しい人は、優しくし続けなければならない。
そう思い込んでしまったのは、いつからだろう。
手を伸ばさなければ、「どうして助けなかったの」と責める声が聞こえる気がして。
手を伸ばせば、「偽善者」と突き刺す声が降ってくる。
どちらに転んでも傷つくなら、
一体、どれが正しいのだろう。
ねぇ、お母さん。
「相手の立場になれる人でいて」と言ってくれたあなたなら、今の私を、どう思うのでしょうか?
「……っ」
気づくと、ページの端に走り書きしていた。
“正義とは”
震えた文字が、不安をそのまま映していた。
昼休み、屋上への階段で知らない一年生が泣いているのを見つけた。
ぐっと、足が止まる。
視線を逸らせば、そのまま通り過ぎられる。
私は、そのやり方だって知っている。
見なかったふりをすれば、少なくとも、私は傷つかない。
でも。
心が、勝手に痛んだ。
気づいた瞬間、体が勝手に動いていた。
「あの……どうしたの?」
声をかけた自分に、一瞬だけ、嫌気が差しそうになる。
ほら、また。
結局私は、何も変わっていない。
優しさをやめられない。
やめたら、自分じゃなくなる。
それが、嬉しいのか。
苦しいのか。
もう分からなかった。
その日の帰り道、
夕焼けに染まる空を見上げながら思った。
ここにいても、どこへ行っても、私はきっと同じことをする。
だったら......。
夜、布団に入ると、
眠りに落ちる寸前、胸の奥が熱を帯びた。
あの時と同じ感覚。
燻っていた火が、確かにそこにある。
「……もし」
もし、私が行かなかったら。
あの世界は滅びる。
もし、私が行ったら。
この世界の誰かが、泣く。
どちらを選んでも、
どこかが痛む。
正義って、何だろう。
考えきれないまま、意識が沈んでいく。
そして、再び。
風が吹き、花の香りがした。
「いらっしゃい。待ってたわ」
聞き慣れた鈴のような声が、闇の向こうから響く。




