序章:地球 ---“優しさの代償”①
放課後の昇降口に、雨の匂いが満ちていた。
傘立てのあたりで、小さな泣き声が聞こえた気がして、私は思わず足を止める。
「……大丈夫?」
声をかけると、雨で濡れた制服の男子が、うつむいたまま首を振った。
クラスでよくいじめられている子だった。
私はためらわず、自分のタオルを差し出した。
「……いいの?」
「いいよ、使って。帰るときも、一緒に行こ?」
その瞬間、背後から聞こえたのは、クラスメイトたちの嘲笑だった。
「また出たよ、“偽善者”。」
「優等生ぶってるだけじゃん。」
「ほら、あの子に関わるとウチらまで巻き込まれるし。」
胸がきゅっと痛む。
でも、泣いている子を放っておけなかった。
優しくすると、誰かが傷つかない代わりに、
いつも“私が”傷つく。
そんな日々がずっと続いていた。
別に私は偽善者でもなんでもない。
心から、曲がったことが嫌いなだけ。
元は私も、こんなに遠回しに嫌われるような人間ではなかった。
……そう、ずっと前までは。
けれど、中学に上がった頃からだろうか。
周囲が少しずつ見えるようになり、自分という一人の“輪郭”が確立し始めた頃。
人の痛みに気づけば、自然と手を伸ばすようになっていた。
どうやら私は人より感受性が高く、誰かを放っておけない性格らしい。
怪我した子がいれば絆創膏を渡し、忘れ物をした子にはノートを見せ、困っていれば迷わず助けた。
それは、きっと母の言葉の影響も大きい。
「この世の善と悪は、はっきり決まっているわけじゃないの。
もちろん、“絶対にしてはいけないこと”──絶対悪と呼ばれるものもあるわ。
でも、その絶対悪だって、最初から悪いわけじゃないかもしれないの。
だから、あなただけは、相手の立場になって考えられる人でいてほしい。」
その言葉が、私の“当たり前”を形作った。
けれど――。
その“当たり前”は、皆にとっての当たり前ではなかった。
助けられた子はお礼を言う。
でも周りは、それを“善人ぶっている”と冷ややかに見る。
私はいつの間にか「優等生ぶっている」と決めつけられ、
勝手に役割を押しつけられるようになった。
人を助けるとき、私は誰の顔色も見ていない。
けれど、私の優しさは、周りには“彼らが嫌う誰か”に肩入れしているように映るらしい。
そもそも、誰かを嫌うことは疲れるだけだ。
嫌いだとしても、わざわざその人を排除する必要なんてどこにもない。
なのに、それが当然のように起きてしまう世界は、どこか未熟だとさえ思ってしまう。
優しさって、そんなに都合よく区切れるものだった?
誰かに向けた想いを、別の誰かが勝手に評価していいのだろうか。
……そんなふうに考える自分さえ「面倒くさい」「どうでもいい」と嫌われる。
雨が強くなり、昇降口の屋根を叩き始めた。
小さく肩を震わせている男子に、私はそっと声をかけた。
「行こ。濡れたままだと風邪ひいちゃうよ」
そのとき、ふと悟った。
――ああ、私はまた傷つくんだろうな。
帰り道でもきっと何か言われる。
また“偽善者”のような刺さる言葉を背中に浴びる。
でも。
この子を置いていく苦しさの方が、もっと痛い。
そう気づいた瞬間、胸の奥でずっと燻っていた小さな火が、
かすかに揺らめいた気がした。
雨の匂いの中で思う。
――世界って、どうしてこんなに生きづらいんだろう。
自分を偽らないと守れない優しさって、
本当に価値があるのだろうか。
雨脚はさらに強くなり、
世界が薄い膜で覆われたように白くにじんで見えた。




