第21話:こんな話はきいていない
「リツ、起きろ。起きてくれ!」
タルワールの必死の叫び声で私は目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていたらしい……。
たしか、どうして私が旅商人をやってるのかって話をしていたはずなんだけど……そのあとはよく覚えていない。というか、朝でもないのに、なんで私、起きなきゃいけないの?
寝ぼけ眼を面倒くさそうに右手でこすった私は、その視線をタルワールへと向ける。するとそこには、腰から剣を抜き、えらく真剣な表情で森の一点に視線を集中しているタルワールがいる。
あれ? 何かあったのかな?
私は小さく欠伸をしながら、右手で瞳をこする。
「ごめん、タルワール。気持ちは嬉しいんだけど、私、珍しい虫とか動物とかに興味ないんだよね」
私は申し訳なさそうにそう伝えると、再び毛布の中にもぐりこむ。
「バカ、リツ。寝るんじゃない、すぐ焚き火の前に移動しろ、死にたいのか!」
そんな怒鳴り声を合図に、私は毛布の中から飛び起きる。意識が一気に覚醒する。
え、冗談じゃないんだよね、なにか大変なことが起きてるんだよね。タルワールのあんな怖い声、私、聞いたことなかったし……。
今さらながら、危機的な状況だと理解した私は、言われた通り焚き火の近くに移動して、聞き耳を立ててみる。すると聞こえてくるのは、不自然に静寂を乱す小枝の折れる音……。
「タルワール、この音はなに?」
「多分、狼が歩いて小枝を折る音だ」
狼? その単語が耳に入ってきたその瞬間、私は手をぎゅっと強く握る。激しい動悸が胸を打ち、背筋がぴんと伸びる。冷や汗がじわりと滲む。
「ちょ、ちょっと、狼ってなに? 狼に襲われるなんて滅多にあるものじゃない。そんなこと言ってたから、私、信用しちゃったじゃない。あれはなんだったのよ」
「ちょっと待て、俺はそんなこと言った記憶がないぞ。誰に聞いたんだ、そんないい加減なこと」
「だれが、って……、それは私が調べて……」
あまりにもの恐怖に混乱し、私は自分が何を言っているのか分からない。
冷や汗が頬をつたい、身体中の温度を奪う。
大丈夫、冷静になれ、冷静になれ、私は心の中でそう繰り返す。商人は冷静さを失ったらそこで終わりだ。常に冷静に判断してこそ、一流の商人なのだ。
とにかくこの状況はおかしい。
今日、狼は出ない予定であったのだから、この小枝の音も狼とは限らない。それ以前に、この野営地の周りにそんな都合よく小枝が落ちているわけがない。
「タルワール、やっぱりおかしいよ。今日の私の予定に『ここで狼に襲われる』なんてなかったもの――だから、この音の主も狼ではないんじゃないの? だいたい何かの物語や芝居じゃないんだし、そんな都合よく野営地の周りに小枝が落ちていて、それを狼が踏むなんて偶然、重なる訳ないと思うの」
ガタガタと歯が震えてしまうのを必死に抑え、バクバクと大きな音を立てる心音に耳を塞ぎながら、一流の商人としての判断を、タルワールに笑顔で伝えようとする。しかしタルワールは、「いいから落ち着け」と一喝する。
「小枝は、俺がマキを拾いにいくついでに仕掛けたものだ。だからそこに疑問を持たなくてもいい。まずは、もう少し耳を澄まして、注意深く周りの音を聞いてみろ。狼の唸り声が聞こえてこないか?」
「まさかぁ……」
現実を受け入れたくない私は、髪を耳にかけ直しながら、そんな生返事を返す。しかし、念のため、一応、タルワールに言われた通り、もう一度、耳を澄ましてみる。すると確かに聞こえてくる低い音。狼と思われる唸り声。
ちょ、ちょっと、もしかして、これ、タルワールの言う通りじゃない!
心の奥で現実を否定することによって、なんとか最低限の冷静さを保っていた私であったものの、これが決定打。声にもならない無音の悲鳴を吐き出してしまう。
「ちょ、ちょっと、これ。荷物まとめて置いた方がいい感じ……よね?」
恐る恐るそう尋ねると、タルワールは振り返ることなく、真剣な声色で「頼む」と一言だけ返事をする。
いつもの軽口がでてこない。
その態度が、私にどうしようもなく、現状がひっ迫していることを理解させる。だから私は、大急ぎで外に出ている寝具や荷物を荷台に乗せ、キャロルを荷馬車へとつなぐ。するとタルワールは、まるで後ろに目がついているかのようにそれを制止する。
「リツ、馬は荷馬車に繋ぐな。馬は狼より足の速い動物だ。この整備された街道なら、馬に乗って突っ走れば命だけは助かるかもしれない。馬は夜目が利く、行先は馬に任せておけばいい。俺が勝てないと判断したら指示を出すから、お前だけは馬に乗ってすぐに逃げるんだ。いいな」
現状を正確に理解できつつある私は、軽口を叩くことなく、素直に「はい」と返事をする。そして、少しでも狼の脅威から身を守れるよう、焚き火にマキをくべ、火を大きくしようと試みる。
しかしマキを持つべき手はガクガクと震え、その役割を果たすことができない。それどころか悲鳴さえ喉を通ることができていない。今、私にできていたことは、この恐怖の時間が、早く過ぎてゆくことを願うだけ……。
そんな私の不安を感じとってくれたのか、キャロルが自分の顔をすり寄せてくる。私を落ち着かせようと働きかけてくれる。
そんなキャロルに少しだけ勇気をもらえた気がした私であったものの、とうのキャロルでさえ、体を小刻みに震わせ、口を固く閉じ、耳を左右にバラバラに動かしている。必死に恐怖と戦っているようにもみえる。そんな健気なキャロルを見た私は思わず「ふふっ」と笑ってしまう。
「君は男の子なんだから、もっと肝が据わってないと女の子にもてないぞ」
そんな言葉をキャロルにかけた時、私は、自分が徐々に落ち着きを取り戻していることに気がついた。しかし恐怖や不安が払拭されたというにはほど遠く、張り詰めた緊張の糸が緩むことはない。そんな気配を感じ取ったのか、タルワールは明るい声で話しかけてくれる。
「リツ、とりあえず、今、俺たちを囲っている狼の頭数であれば大丈夫だ。俺一人でなんとかなる。ただ、これ以上頭数が増えたら自信がない。いいか、さっきも言ったが、俺が指示を出したら馬に乗ってすぐに逃げるんだ。わかったな」
「バカ! そんな薄情なことできるわけないじゃない。それって私だけが生き残って、タルワールが死ぬってことでしょ?」
「いや、そうとは言っていない。これくらいの頭数であれば俺一人で充分対処できる」
いまだ冷静な思考力を取り戻せていない私は、タルワールの言葉が心に入ってこない。だから不安げな表情でタルワールを見つめることしかできていない。
「大丈夫だ、リツ。ナイフを料理の時にしか使ったことがない女の子の助けがいるほど切羽つまった状況ではないさ。ただ、万が一の時、リツを守り切れないこともある。馬に乗って逃げろと言ったのは、その万が一に対する保険さ。もし本当に逃げることになったとしても、陽が昇ったらここに戻ってきてくれないか? それさえ約束してくれるのなら、俺はちゃんとここでお留守番して、リツの荷物を守っておいてやるから、な」
急にそんな軽口をいうタルワール。
しかし私は、それが私を落ち着かせるためのものとすぐに理解ができた。なぜなら、その声はいまだ真剣さを失ってはいなかったのだから……。
ただ、事態はもう抜き差しならない状況まできている。狼がいつ暗闇から飛び出してきてもおかしくない状況になってきている。タルワールは、そう判断しているからこそ、私に冷静になるよう必死に促しているのだ。
だから私は恐怖と必死に戦いながらも、最低限の護身用の荷物と食料をキャロルに括りつけようと試みる。確かに手は思う通りに動かない、それでも私は必死に逃げ出す準備を整えていく。特にこの青い箱、これだけは無くすわけにはいかない。
そして私がその準備を終えた時、狼の唸り声は、耳をすまさなくても聞こえるくらい大きくなっていた。




