3-2. 逃げ出した夜とそのあと(2)
だがここでアシュリーは路頭に迷ってしまった。
──でも、ここからどうしよう……
正しい時間はわからないが、すでに舞踏会は終わっているだろう。もしかしたら朝の方が近いかもしれないとすら思った。
来るときはカルヴァート家の馬車でここまで来たが、仮にその馬車がまだあったとしても、さすがにこの格好で馬車乗り場まで行くわけにはいかない。
アシュリーが今暮らしている部屋だって少し離れている位置にあるから、そこまで行くとしてもその間に誰かに会わないとも限らないし、この格好で《アシュリー・マクブライド》の部屋に入るところを見られでもしたら、ローウェルが同伴させ、ヴィルヘルムに連れられた女がアシュリーだと知られる可能性が高くなる。
職場でもある図書館に身を隠すにしても、この時間は閉館していて中に入ることはできないから、そもそも論外だ。
今更、行き当たりばったりで部屋を出てきたことを後悔するが、戻れない以上どうにかするしかない、とアシュリーがドレスの裾を持ち上げたときだった。
「……っ」
暗闇の中に光が浮かび、それは彼女の姿を照らす。拙い、と思ったのも束の間、ランプから顔を覗かせたのは馬車に一緒に乗っていたカルヴァート公爵家の侍女だった。
彼女はアシュリーの格好を驚いたように見つめ、すぐに我に返ると周囲を警戒するように近付いてくる。
そしてランプを持つ方とは逆の手に持っていた荷物をアシュリーに渡すと、声を潜めて言った。
「その姿では目立つので、ひとまずこれを。……裏に馬車を回しています。歩けますか?」
渡されたのは、アシュリーの作った張りぼてのカーテンのショールとは比べものにならない、きちんとしたショールだった。薄手ではあるが透けないタイプのもので、尚且つ大きめに作られている。
「素肌をしっかりと覆うようにして、羽織ってください。今のお嬢様の格好は、飢えた狼からしたら絶好の餌ですから」
彼女は胸元をとんとん、と指先で叩く。
それだけで何が言いたいのかわかって、アシュリーは顔を赤くしながら張りぼてのショールを急いで取り、差し出されたものを羽織った。
大きいお陰で首筋から胸元にかけての素肌はしっかり覆われる。
そして彼女に道案内されながら、アシュリーは無事馬車に乗り込み、城を後にしたのだった。
彼女曰く、ローウェルからアシュリーを探して欲しいと指示があったらしい。部屋に誰もいない、扉に鍵がかかっている──そんな状況なら、普通は考えない方法でそこから出るだろうから、悪い男に捕まる前に見つけてあげてと。
そして案の定ローウェルの読みは当たり、窓から出たとしたらどの道を使うかを考えて辿っていたら、彼女はアシュリーを見つけたのだと言う。
ローウェルの読みはアシュリーの思考パターンを考えてのことだろうが、窓から逃げ出したあとの道筋はローウェルから状況を聞いて、彼女自身が考えたのだという。
何か言いたげなアシュリーに気付いたのだろう。彼女はそれはもう綺麗な笑みを浮かべた。
「一時期スパイの真似事のようなこともしておりましたが、それ以上にローウェル様にお仕えしていると、普通の方法ではあの方を出し抜けなくて……心理術などを少々」
何でもないことのようにさらっと言われてしまい、アシュリーは言葉を失う。
色々と聞きたいことは頭に浮かんだが、尋ねていいか迷っているうちにカルヴァート公爵家に到着してしまった。
どこでなくしてしまったのか、目に付けていた色硝子は取れてしまっている。
髪の染料を落として、元着ていた服に着替えれば──体は多少ベタついているが、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかないので──帰れるとアシュリーは言ったのだが、その申し出は却下され、有無を言わさず連れて行かれたのは浴室だった。
ぴかぴかに磨かれた浴槽には湯が張ってあり、いい匂いもする。
「今晩はお疲れでしょう。一泊していくようにと、ローウェル様からの《ご命令》です」
ひくり、と頬が引き攣った。
そんな命令なんて知らないと突っ撥ねて飛び出すことができれば良かったのだが、悲しい哉、それをできる度胸はアシュリーにはない。
精々が理由を並べ立てて、何とか穏便に帰らせてもらえるように努力することだけだ。
例えば、上司と部下であろうと男と女、変な噂が立つかもしれないので、とか、ローウェルの屋敷から出てきたところを見られたら、もしかしたらシェリー=アシュリーと結び付ける人がいるかもしれないから、とか色々と理由を言って断ろうとしたのだが、彼女に笑顔で論破されてしまい、アシュリーは二の句が継げぬまま、入浴道具と一緒に浴室に押し込められた。
逃げられないことを悟り、観念して着ていたものを脱ぎ始める。そして、視線を向けた先にあった鏡に映る自身の体を目にした瞬間、頬の熱が急速に上がっていった。
ここまで案内してくれた侍女が、どうしてアシュリーをひとりで浴室に押し込んだのかが、今ならわかる。
アシュリーも暗がりの中、部屋の鏡で一度は確認したはずだった。けれど、時に暗闇は一部の真実を隠すことがある。
首筋を指で撫で、そして、少しずつ下ろしていく。肩口、胸元、腰に腹。くるりと回って背中を鏡に映せば、そこにも残るしるし。
ヴィルヘルムの付けた口付けの痕が、至るところにあった。
嬉しいと思う反面、涙と切なさが込み上げてきて、アシュリーは慌てて目尻を擦る。髪の染料を落とし、汗を流し、甘い匂いのする湯にしっかり浸かって、そしてちょっとだけ泣いた。
浴室に用意された着替えはやはり見覚えのないもので、下着もアシュリーがもともと身に付けていたものではなく、泊まる他に選択肢がないことを思い知らされる。
浴室を出るとそこには先ほどの侍女が逃がさないと言わんばかりに待機していて、そのまま客間に案内された。
「おやすみなさいませ」
と侍女が出て行くと、ひとりになった部屋で、アシュリーは緊張の糸がプツンと切れたようにベッドに倒れ込んだ。
その途端、今まで我慢していた睡魔が一気に襲ってくる。
──泊まるようにってことは、やっぱり館長に怒られるのかな……
ぎゅうとベッドシーツを掴む。
アシュリーの意識はそこで途絶え──次に目覚めたときには、朝になっていた。
窓の外で鳥が柔らかな声で鳴き、途端に現実が帰ってきてアシュリーは慌てる。
急いで支度をして、一度部屋に戻って、それから仕事へ行かなければ──ぐちゃぐちゃになった頭で考えるけれど、上手く考えと体が伴わない。
その上、腰から下が重く、痛みを訴えてくる。辛うじてアシュリーがベッドから足を下ろしたとき、扉がノックされた。
「おはようございます、アシュリー様。お加減はいかがでしょうか?」
返事をすると扉が静かに開かれる。入ってきたのは、昨日世話になった侍女だった。
「だ、大丈夫、です」
「ですが、あまり顔色が良くないご様子。お休みを取られ……たくはないようですね」
勢いよく首を横に振ると、彼女はアシュリーの言いたいことをわかってくれたらしい。肩を竦めて苦笑した。
「無理はなさらず。また、溜め込み過ぎも体に悪いので、適度に発散することをお勧めいたします」
「ありがとう、ございます……」
「朝食のあと、体調不良に効くお薬を用意いたしますね。それから──」
手に持った服──記憶が正しければ、それはアシュリーが昨日着ていたものだ──を手渡しながら、彼女は言った。
「ローウェル様が朝食を一緒に、と仰っております。お着替えが終わりましたら、ご案内致します。……お手伝い、致しましょうか?」
「い、いえ! 結構です! ひとりで、着替えられます!」
ぶんぶんとアシュリーは首を左右に振る。
彼女は、そうですか、と笑みを浮かべたまま、一礼して部屋を出て行った。