3-1. 逃げ出した夜とそのあと(1)
図書館の窓から見える空には清々しい青空が広がっている。
風も穏やかで暖かく、日向ぼっこをするには最適な天候だ。こんな日は明るい気持ちで過ごせるはず──なのだが。
「ねえアシュリー、わたくしの話、ちゃんと聞いてる?」
「……え?」
強めの口調で声を掛けられて、アシュリーははっと我に返った。途端に窓から入り込んでくる太陽の光や人の足音、人がいる気配を感じ始める。
意識が現実に返ってきたことで思い出す。今は仕事中で、この図書館の常連であり、恋愛小説をこよなく愛する貴族の令嬢である彼女と世間話をしていたのだった。
読書を趣味とする女性は増えているが、それでも未だに本を読むのは男であって、女が読むものではないと言っている者も多い。彼女の両親はそう言ったタイプの人で、欲しいと思っても購入することができないため、貴族でありながらもこうして図書館にひっそりと通っていた。
アシュリーはどうやら彼女と会話をしている最中に、意識をどこかへ飛ばしていたらしい。
ここのところは気候も安定していて、暖かい日が続いている。そんな日は気持ちが前向きになってくるはずなのだが、ここ数日の彼女は、こうしてぼんやりしていることが多かった。
彼女から掛けられた言葉はどこか責めるような口調だったけれど、向けられた視線は心配の色を含んでいた。
「最近のあなた、どこか変よ。熱でもあるの? 怒らないからわたくしに教えて?」
「ご、ごめんなさい、全然……大丈夫、です、はい」
もし近くに誰かいたならば話しをしていることで嫌味のひとつやふたつ言われそうだったが、幸い周囲には人影はない。だが、極力声のボリュームに気をつけるようにしながら、アシュリーは彼女の問いに答えた。
「なら、いいのだけれど……」
そう言いつつも、彼女の表情は晴れていない。アシュリーは大丈夫だという意味を込めて、無理やりに笑みを浮かべた。
恐らくこれ以上問い掛けてもアシュリーは何も言わないことがわかったのだろう。彼女はため息を吐いて、本棚から抜いた二冊の本を持つ。そして「机借りますわね」と言って、恋愛小説の並ぶ棚に隠れるように存在しているスペースの方へ向かっていった。
そこには、読書するためのテーブルと椅子が用意されている。
彼女を見送ると、アシュリーは仕事を再開するべく、返却された本の並ぶカートから本を抜き出す。そしてそれを、ジャンル別の棚のタイトルの並び順に戻していく。
アシュリーは慣れた手つきでスペースを作り、本を差し入れた。早く済ませて、次の棚へ行きたい。そう考えて、指で背表紙をなぞっていたときだった。
「あ……」
アシュリーの目にひとつのタイトルが飛び込んできて、途端に先日の出来事が脳裏に蘇ってきた。
──『一夜から始まる愛の行方』
どきり、と胸が大きく鳴った。
慌ててその隣に本を戻して、その場にはもう用がないと言わんばかりにカートを押す。
「……っ」
自然と足が早足になって、仕事を回す速度が早くなった。
考えたくないことがあると、アシュリーはすぐに仕事に走る。
それが逃げだとはわかっていたけれど、今回のことに関して言えば解決策はどこにもないのだから、と自分に言い聞かせる。しいて言えば、きちんと割り切ることが解決策だ。
──食事、食べられなかったな……
舞踏会で食べられるはずだった美味しい食事は、結局上司のお守りで手一杯で食べられなかった。特別手当の件はあの夜の翌日ローウェルから話があったけれど、アシュリーはそれを断った。きちんと仕事を全うできなかったから。
そしてヴィルヘルムとは、あの夜逃げるように別れたきり会えていなかった。タイミングが悪いということもあるし、アシュリー自身が彼から逃げているということもある。
理由は単純で、次に会ったときどんな顔をすればいいのかわからなかったのだ。
──《シェリー》がわたしだって、ヴィルヘルム様は気付いてない。だから、普通でいれば大丈夫。
気持ちを逸らすために別のことを考えようとしたけれど、結局考えるのはあの夜のことで、ヴィルヘルムのことになってしまう。
数日の間、体を悩ませていた筋肉痛は今はもう感じない。肌に残された痕も消えてしまった。
残ったのは、想い出だけ。
ヴィルヘルムと過ごすことのできた想い出という記憶だけを持って、他は数日前のあの夜に、あの部屋へ置いてきたはずだった。囁かれた甘い言葉も、気遣うように触れる熱も、彼の優しさも、すべて。
こうなったのは自分が望んだことだから後悔はしていない。けれど自分の我儘に付き合わせて、彼の──ヴィルヘルムの手を煩わせてしまったことだけが気掛かりだった。
ヴィルヘルムに純潔を捧げたあの夜、気をやってしまったアシュリーが目覚めたのはまだ太陽が昇らないうちだった。
目を覚まして、隣に温もりがないことに気付く。部屋の中のどこにもヴィルヘルムがいないことに落胆して、そして安堵した
眠りから覚めた頭が鮮明になっていくと、まず思ったのはヴィルヘルムが万が一帰ってくる前にこの部屋からいなくならなければ、ということだった。
誰かに追い立てられたわけではなかったが、ただこの場から早く消えなければと考えていた。
けれど、そのときのアシュリーにとっては部屋から出ていくということは何よりの難題で。
何しろ身動きしようとすると、下腹部に痛みが走る。ずきずきと痛む体を誤魔化しながら何とか床に足を付け、急いで衣服を身に付けていく。
コルセットはひとりでは付けられない。付けるのは諦めて、ひとまずドレスを着るが色々と心許なく、その上見えているところにはヴィルヘルムの付けたしるしが至るところに残っていた。
このままで外へ出るのはさすがのアシュリーでも躊躇われて、悩んだ末に部屋中を見回して使えないものがないか探す。
さすがに衣類のようなものは何もなかったが、綺麗に畳まれた替えの薄手のカーテンを見つけ、それをハサミで裂いて、ショール代わりにした。
余ったカーテンでコルセットや諸々のものを包み、少しでもマシに見えるように鏡で確認する。いかにもな可愛らしいものではなく、大人しめなデザインだったのが幸いして少なくともぎょっとしたような格好ではない。
それでも凝視されたら何かあったと気付かれてしまうだろうが、そこに関しては人に会わないことを願うしかない。
よし、と気合を入れてから、アシュリーは覚束ない足元で廊下に続く扉に向かった。
恐る恐るドアノブに手をかけるが、どうやら鍵が掛けられているらしい。内側から鍵を開けられるようにはなっていない。
どうしようと悩んでいると、扉の外から僅かに人の声が聞こえてきて、アシュリーは耳を澄ます。
会話から、どうやら騎士団員のようだ。
この部屋に案内されたとき、ヴィルヘルムが会話していた男性は団服を着ていた。もし仮にこの扉を開くことができて、出て行くことができたとしても、彼らに姿を見られればヴィルヘルムに連絡が行く可能性がある。
優しい彼のことだ。もし万が一でも騎士団員経由で連絡を受けたらきっとここに来てしまう。
そう思ったアシュリーは扉から出るのを諦め、カーテンの引かれた窓へと近付いていく。そしてカーテンを引くと、鍵を開けて窓を静かに開いた。
途端に涼しい風が入り込み、カーテンを揺らす。
幼いならともかく、成人している貴族の令嬢が窓を使って外に出るとは、大抵の人間は考えないだろう。
窓が問題なく開いたことにアシュリーはほっと胸を撫で下ろす。はしたないことではあるが、背に腹は代えられない。
この部屋が一階にあって良かったと思いながらそっと窓枠に手を掛けた。
痛みで思うように動かない体だが泣き言など言っていられない。何とか窓枠を乗り越え、辺りに人がいないことを確認しながらアシュリーは部屋を後にした。
先ほどの部屋が休憩室として設けられている部屋ならば城のこの辺りだろうとあたりを付けて人通りの少ない庭を早足で進む。
幸いなことに誰かと会うこともすれ違うこともなく部屋から離れることができ、しばらくすると目にしたことのある風景の場所に辿り着いた。