2-8. 舞踏会当日(8)
ふたりの視線が交わり、そしてくちびるが静かに重ねられた。啄ばむように何度も口付けられる。優しくて、甘くて、そして触れるくちびるは優しくて、熱かった。普段のヴィルヘルムからは予想できないような甘い口付けにアシュリーは戸惑う。
もしかしてこんな状況に慣れているのかと、不安と胸の痛みを感じた。
けれど、ぬくもりが一瞬離れたとき、僅かに目を開けてヴィルヘルムを見た途端、そんな想いは吹き飛んでしまった。
暗がりの中でもわかる。そこにいたのはいつもの彼らしくなく、熱の篭った瞳でアシュリーを見つめる、余裕のない表情を浮かべたひとりの男だったから。
「ぁ……」
アシュリーの心臓が大きく跳ねる。
ヴィルヘルムの瞳は真っ直ぐにアシュリーを見つめていた。求められているのだとわかり、くちびるから思わず期待するような声が漏れてしまう。
アシュリーのその反応に嬉しそうに頬を緩めると、再びヴィルヘルムは彼女のくちびるを塞いだ。
アシュリーが重ねたはずの手は、気付けばヴィルヘルムの大きな手のひらに包まれている。手をしっかりと握られ、いつの間にか腰まで抱かれていて、まるで逃す気などないと言わんばかりだ。
次第に触れるだけではない口付けに変わっていく。
背中に走る震えから逃げ出したくて後退りたいのに、ヴィルヘルムの腕がアシュリーの腰を抱いていて逃げることも叶わない。
ぽろり、と生理的な涙が目尻を伝った。ヴィルヘルムの指先が、そっとその涙を拭ってくれた。
どれくらいの間、口付けを交わしていたのかわからない。けれど、くちびるが離れたときにはアシュリーの体には力が入らなくなっていた。
ヴィルヘルムが伸ばした手がアシュリーの肩に触れ、指先に僅かに力が込められる。
ほんの少し押されただけなのに、力の抜けた体はいとも簡単にベッドへと倒れ込んでしまった。
顔色を窺うようにヴィルヘルムを見上げると、熱の篭った瞳がアシュリーを見下ろしていた。そっと額に優しい口付けが落ちる。
「……やはりあなたは、可愛い人だな」
低くて甘い声に耳元で囁かれて、かあ、とアシュリーの頬に朱色が散った。
「ヴィル、ヘルム、さ、ま」
伸ばした腕をゆっくりとヴィルヘルムの首に回す。一瞬だけびくりと体を震わせた彼は顔を上げると、アシュリーをじっと見つめてくる。彼の深い紫の瞳に浮かんだ熱に心臓が大きく音を立てる。
近付いてきた端整な顔がアシュリーのくちびるに触れる。まるで愛おしいと言いたげな、慈しむような口付けだ。
──たとえこれが今夜だけの温情だとしても、それで構わないと思うくらい、触れられた口付けはひどく優しくて甘かった。
ヴィルヘルムに触れられるたびに胸が高鳴って、そして軋む音を立てる。
──こんな気持ちは知りたくなかった。一夜だけでなくて、ずっとこの人に愛されたいなんて、こんな気持ちは、知らない方が良かった。
想いを寄せていた人に抱かれる幸せと、今夜が過ぎたら終わってしまう関係に対する悲しさが綯い交ぜになった涙が新たに零れ落ちる。
涙を零したアシュリーを見て目を見開いたヴィルヘルムに腕を伸ばす。
「好き、です。ずっと、好きでした、ヴィルヘルム、さま」
──わたしは今、きちんと笑えているだろうか。
偽りの姿だったとしても、彼にとってはたった今日だけの関係だったのだとしても……せめて今が幸せなのだと言うことはきちんと伝えたかった。
けれど言いたいことを伝えて少しだけ満足したアシュリーとは反対に、ヴィルヘルムは表情を険しくする。
「そんな顔で好きだと……言わないでくれ。俺はそんな顔が見たいわけじゃない」
「……ご、ごめんなさい、わたし……」
耳元に落ちた囁きは僅かに震えていた。その声にアシュリーは少しだけ自身を取り戻す。
自分から強請ってこの状況に持ち込んだ。泣きながら好きだと言うなんて、面倒くさい女だと言っているようなものではないか。
未練を明日には残してはいけない。今夜が終われば、《シェリー》はいなくなり、《アシュリー》とヴィルヘルムの関係は図書館司書と騎士団副団長という元のものに戻るだけだ。
くちびるをそっと噛む。アシュリーはなるべく明るい声を装って、口を開いた。
「……ごめんなさい、ヴィルヘルム様。わたくしの言葉はすべて、今だけの言葉だと流してください。明日にはもう、あなたの前には現れませ──っ」
言葉を遮るように口付けられ、アシュリーは目を見開いた。
一瞬触れたあと深い紫色の瞳と目が合う。悲しそうに歪んだその目にアシュリーの胸がちくりと痛んだ。
「あなたに、そんな悲しい顔をさせたかったわけじゃない。──俺は、自分らしくないことをするぐらいには、あなたのことを……想っている」
ヴィルヘルムは上半身を起こし、アシュリーを熱い視線で見つめる。向けられた瞳の中には欲が宿っていた。
「だが……すまない。あなたが望んでも、俺はあなたを離すつもりはない。今夜だけになど、させない」
──この人が愛おしいと、ただそう思った。
「あなたが欲しい」
真っ直ぐに告げられた言葉にアシュリーは迷うことなく頷いた。
――こんなふうに、好きなひとに触れてもらえる未来があるなんて考えたことはなかった。だからアシュリーにとってこの夜の出来事は、最初で最後の大切な思い出だった。
抱き締めてくれた腕の逞しさとか、触れられたときに伝わる熱だとか。けして被虐趣味ではないが、痛みすら幸せだったと思えた。
熱を分かち合い、疲れでうとうとしていたらまるで愛を伝えるかのような優しいキスが落ちてくる。
抱き締めてくれるヴィルヘルムの腕がとても温かくて、幸せで。
この温かさは忘れないでいたいとアシュリーは思った。
「少し……いや、だいぶ無理をさせた。時間になったら起こすから、それまでゆっくり眠るといい」
ヴィルヘルムがアシュリーを気遣って優しい言葉をかけてくれる。
慣れない環境で、慣れない振る舞いをしたアシュリーの体は限界だった。
──だめ……寝たら……帰れなく、なる……
頭では起き上がらなければとわかっているのに体は思うように動かない。
「目が覚めたら、俺にあなたの名前を呼ばせてくれ」
そう言えば、最初は《シェリー嬢》と呼んでくれていたけれど、《シェリー》とは呼んではくれなかった。
曖昧な意識の中でそんなことを思う。
偽りの名前でもせめて名前くらいは呼んで欲しかったと思わずアシュリーは自嘲した。
目が覚めたら、だなんて、悲しい約束にも程がある。
「あい──てい──」
ヴィルヘルムが何かを囁いた。次いで頬に柔らかなものが触れる。
けれど我慢できず意識を手放したアシュリーにはヴィルヘルムが何を言ったのかも触れた温もりの正体にも気付くことはなかった。