2-7. 舞踏会当日(7)
「……そのようなお言葉は、わたしには勿体ないです。もしかしたらヴィルヘルム様に気に入ってもらいたくて、そう思って貰えるような人間を演じているだけかもしれませんよ」
心臓の音が聞こえませんようにと願いながら、アシュリーは強がりを口にした。口にすると込み上がってくるものがあって、彼女はそれを必死に飲み込む。
──どうしてわたしはこんなに可愛いげがないんだろう
考えると、自然と自嘲するような笑みが浮かぶ。
ここで「ありがとうございます」と言って、この逞しい胸を借りれば、本当に可愛い令嬢なのだろう。けれどローウェルにもよく指摘される卑屈さが、それをすることを拒んだ。
十分夢なら見ることができた。別人に成りすましているとは言え、憧れの人に甘い言葉を掛けてもらえた。誤解してしまいそうなぐらいに熱い視線を注がれた。温かい腕の中に、抱き締めてもらえた。
これ以上望んだら、きっと罰が当たる。
「例え今のあなたが作られたもので、本当のあなたが別にいるとしても、」
静かな声が中庭に静かに響く。
するりと指先が、愛おしげにアシュリーの輪郭を撫でた。
「彼女に会ったとき、俺は同じことを思うだろう。可愛い、愛おしい、──離したくない、と」
見つめてくる瞳に艶めかしさと、どこか恐ろしさすら感じる。なのに心臓は一際大きく跳ねた。
瞳を細めて注がれる視線が、まるですべてを見通しているかのようにアシュリーには思えた。シェリー・ダンフォードではなく、アシュリー・マクブライドだとわかって、言っているのではないかと。
そんなことはないと、わかっている。
恋愛小説の企てられたシナリオのように、都合のいいことは起こらない。
こんなふうにヴィルヘルムが甘い囁きをくれるのも、アシュリーが夢見心地な気分になるのも、きっとふたりして、先ほどすれ違った男女の甘ったるい空気に飲まれてしまったから。
──だから、大胆な行動ができるのも、うっかり口が滑ってしまうのも、出来上がってしまった淫靡な空気の所為だ。
「ヴィル、ヘルムさま」
指先を伸ばして頬に触れると、ヴィルヘルムは僅かに肩を揺らした。けれど叩き落としたりはせず、アシュリーをじっと見つめている。
ヴィルヘルムの深紫色の瞳に映るのは、図書館司書をしているアシュリーではなく、隣国から遊学に来ているシェリーという貴族の令嬢だった。
「──今日が終われば、すべて忘れます。ですからどうか、わたしを今夜だけ……あなたの恋人にして、ください」
アシュリーだったら絶対に口にしない言葉だ。一夜の慈悲を強請るなんて、考えたこともなかった。
けれどシェリーは、今夜だけのために作られた偶像。この夜が終われば、現れることは二度とない。だからこそ、こんなことが言えたのだろう。
見上げる──ヴィルヘルムからすれば、上目遣いに等しい角度だ──ような形になりながら、アシュリーは今まで言えなかった言葉を、静かに口にした。
「あなたをずっと、お慕いしておりました」
驚いたような顔で、ヴィルヘルムはアシュリーを見つめた。
きっと彼にとっては予想外の言葉だっただろう。
はしたないと手を振り払われる覚悟もしていたし、冷たい瞳を向けられることも、仕方がないと思っていた。
覚悟を決め、笑みすら浮かべた表情でアシュリーはヴィルヘルムの返事を待つ。
気付けば辺りに人は誰もいなかった。静寂がふたりの間に広がる。
それから間もなくして沈黙を破ったのは、アシュリーの予想とは反したヴィルヘルムの行動だった。
彼は軽々とアシュリーを抱え上げたのだ。そしてそのまま中庭を進み、近道をして城の方向へと戻っていく。ただしその方向は踏会が行われている大広間へ続く道ではなかった。
「俺が良いと言うまで、顔を上げないでいてくれるか」
抱き上げられたとき、思わず伸ばした腕をヴィルヘルムの首に巻き付けると、彼はそう言って首元に顔を埋めるように促してきた。
いつもと同じ冷静な表情なのに見下ろす瞳には熱が孕んでいて、気付いたらアシュリーは言われるがままに彼の首元に顔を埋めていた。
だから一体どういう道筋で城内に戻ってきたのか、アシュリーにはわからない。
けれど二度ほどヴィルヘルムが騎士団の部下らしき男性と話した声は、耳に入った。
恐らく一度目が城内へ続く扉を潜る前、そして二度目が、この部屋へと通される前のことだ。
何かあったらお呼びくださいと声を掛けられ、その人が出ていったあと、部屋の扉が閉ざされる。
扉が閉められてしばらくしてから、ヴィルヘルムは止めていた足を進めた。しばらくすると、アシュリーの体がそっと、柔らかいものの上に降ろされる。
「シェリー」
恐る恐る顔を上げると、大きな手で頬を撫でられた。真剣な眼差しが降り注ぐ。
「逃げたければ、今ここでこの手を振り払って欲しい。これ以上進めば俺はきっと、あなたを二度と離せない」
誘ったのはアシュリーの方なのに、ヴィルヘルムは逃げ道を与えてくれた。
その問いに、アシュリーはそっと首を横に振る。
初めての経験に恐れを感じなかったと言えば嘘になる。だけど、逃げようとは考えなかった。
「離さないで。……わたしもヴィルヘルム様の、お側にいたいから」
この気持ちが少しでも届きますようにと、アシュリーは頬に触れたヴィルヘルムの手に自分の手のひらを重ねて想いを伝えた。