2-6. 舞踏会当日(6)
「本当に、退屈だったわけではないんです。お恥ずかしい話ですが、男の方とこんなに近くで話をした経験があまりないのでどうしたらいいのかわからなくて!」
とにかく誤解を解かなければと、アシュリーの頭はそのことでいっぱいだ。普段であれば自分から異性の手を握るなんてこともできないけれど、自分がヴィルヘルムの手をしっかりと握っていることにも気付かない。
「それにヴィルヘルム様のような素敵な方にエスコートして頂くことも初めてなので緊張してしまって……! こんな理由で納得して頂けるかわからないんですが、本当に、さっきから心臓がどきどき言ってて、変なことを言っちゃわないかふあ、ん、だ……し」
アシュリーの言葉が少しずつ途切れていく。顔色が青ざめていき、はっと気付いた彼女は握っていたヴィルヘルムの手を慌てて離した。
──現在進行形で変なこと言ってるから、わたしぃ……っ!
アシュリーはすでに涙目だ。
「ご、ごめんなさい、ヴィルヘルム様! 忘れてください……!」
「シェリー!」
混乱のあまり、アシュリーはヴィルヘルムが立ち尽くしているのを良いことに彼から逃げ出そうとする。だが、アシュリーが逃げ出すよりも早く、ヴィルヘルムは彼女の手首を掴み、己の腕の中に閉じ込めた。
突然名前を呼ばれ、抱き締められたアシュリーは目を見開く。密着した耳元にヴィルヘルムの心臓の音が聞こえてきて、そのお陰か少しずつ心が落ち着いてくる。
厭らしさなどなく、労りで撫でてくれる大きな手のひらに安堵した。
「……お見苦しいところをお見せしてごめんなさい」
「いや、落ち着いたなら良かった」
安心したような声が降ってくる。てっきりそこで体を離してくれるのかと思ったが、ヴィルヘルムは密着させた体を離してくれはしなかった。
憧れの人に抱き締められているというこの状況に胸が高鳴るが、それ以上に居たたまれなさを感じていると、「緊張していたのは、あなただけじゃない」と、優しい声が聞こえた。
「心臓の音、聞こえるだろう? 緊張しているのは、俺も一緒だ」
「あ……」
「慣れていないと言うのなら、これからは俺で……俺だけに慣れてくれればいい」
掛けられる言葉は優しくて、そして甘い。
そしてふ、と頭上で笑みが零される。
「俺も、あなたを退屈させないように努力する。──ジェラルドやローウェルのようには、なれないかもしれないが」
「少なくともローウェルお兄様は見本には成り得ないので、見習わないでください。わたしは……今のままのヴィルヘルム様で十分素敵だと思います」
「……ッ」
零れたのは、アシュリーの本音だった。
ヴィルヘルムの着ている騎士正装の裾を少しだけ握る。抱き締められてはいても、抱き締め返すことはできなかった。だって自分たちは婚約者でも恋人でもない。
はっと現実を思い出し、さすがにずっとこのままでいるわけにはいかないと距離を取ろうとヴィルヘルムの胸に手を伸ばして距離を取ろうとする。しかし反対により強く抱き込まれてしまい、アシュリーは困惑した。鍛えられた胸板越しに心臓の音が聞こえる。
「ヴィ、ヴィルヘルムさま……!」
動揺のあまり上擦った声が出た。だが、それでも尚、ヴィルヘルムの腕の力は弱まらない。代わりに言葉での返事が返ってくる。
「すまないが、しばらくこのままでいて欲しい。──今の俺は、きっと酷い顔をしている。あなただけにはそれを見られたくない」
そう言われると、余計気になってしまう。
──もしかして、わたしは何か失言をしてしまった……?
不安を感じながらアシュリーは辛うじて動かせる頭を上げて、視線をヴィルヘルムの方へ向けた。
「ヴィル、ヘルム……さま……?」
名前を呼ぶと、逸らされていた視線がアシュリーを見つめた。深い紫色の瞳と目が合う。
けれど彼の表情を見て驚いたのは、照明が照らしているヴィルヘルムの顔が僅かに赤らんでいることだった。それは彼が照れていることを如実に伝えていて。
「……こんな緩んだ顔、あなたにだけは見られたくなかった」
目尻を赤く染めて、困ったような顔でヴィルヘルムは呟く。
その表情が可愛らしく見えて、不覚にも胸が高鳴った。
このままでは伝染して、自分まで顔が赤くなってしまう。そう思ったアシュリーは一刻も早く体を離そうとしたが、その前に伸びてきた指先に頬に触れられ、動けなくなってしまう。びくり、と肩が揺れた。
「熱い、な」
「き、気のせいですっ」
落ちてくる囁きに辛うじて返事をしたが、頭の中も胸の中もいっぱいいっぱいだ。視線が自然と泳いでしまう。
このままでは、本当に心臓が破裂してしまうかもしれない。ヴィルヘルムに触れられているところがどこもかしこも熱を帯びて、そんな考えすら頭に浮かぶ。
けれどヴィルヘルムはそんなアシュリーの心情などお構いなしと言うように、不意に頬を緩めて、笑みを浮かべた。
「やはりあなたは、とても可愛い」
「かわ……っ」
きっと今の自分の顔は、誤魔化しきれないほど真っ赤だろう。
見つめてくる深紫色の瞳は、ひどく優しい。その上、甘く、熱情を孕ませた色を向けられれば、どうすればいいのかわからなくなってしまう。
同時に、頭の奥底で叫ぶ声があった。
勘違いするな。これは彼なりのリップサービスなのだ、と。