帝国
領主がニュルを島から連れ出して1ヶ月。
ダラントの代官はようやく領都の聖霊教会へ辿り着いた。
あれからすぐに領主の後を追おうとしたのだが、出航の準備がうまくいかず、さらには天候も悪化してなかなか船を出せなかった。
やっと出発したと思ったら、風向きが悪くて船はゆっくりとしか進まない。
港に着いても、領都行きの馬車の手配ができず足止めをされる始末だ。
それでもなんとか聖霊教会まで来ることができた。
島から連れて来られた孤児を引き取りにきたと告げれば、あとは全て片付いて、さっさと戻ってゆっくり過ごすだけ……のはずだった。
孤児院から管理人がニュルを連れてくる間、代官は教会の中で椅子に腰掛けて待った。
ニュルは司祭一族の最後の1人だ。
代々司祭を務める権利を、あの一族は持っている。
その証である銀の指輪は行方不明だが、指輪などなくとも、教会さえ押さえる事ができれば問題はない。
ニュルの父親は、代官よりもずっと年下でひょろひょろした優男だったが、成績が良く、島の人間からも慕われていた。
代官はそれが気に食わなかった。
ニケアは平民のくせに出しゃばりで、代官のやる事にもいちいち口を出しては説教のようなことを言ってきた。
甘ったるい優しさで島民に寄り添うフリをして、使えそうな人間を島の外に出したり、困っている家には食べ物や薬の面倒を見たりもした。
生活に困れば、自分のため家族のため、代官の一族に忠誠を誓う者も現れる。
司祭たちはそれをことごとく邪魔してくれたのだ。
そもそも、代官の一族はシェイマックスなどではない。
穢らわしい島の血など流れてはいない。
彼は栄えある北の帝国の皇族なのだ。
王国に飲み込まれる前、この島は北の大陸にある帝国に追従していた。
帝国にしてみれば、滅ぼすほどもない、帝国の威光の前に平伏すならばそれでいい、その程度の存在であった。
わざわざ人をやって支配する意味はなかったのだ。
それでも、その先にある南の大陸は魅力的だった。
だから、帝国は島の支配者の血を入れ替えることにした。
皇族の1人が商人を装って島の王族に近づき、王の娘と婚姻後に、他の王族の男子を少しずつ始末していく。
娘が産んだ子どもは、帝国の娘に産ませた純血の赤子と入れ替え、他に知られぬよう帝国に忠誠を誓わせて育てた。
上手くいっていたはずだった。
状況が変わったのは、南にある大陸の王国がより大きく速い船を開発したためだ。
王国は島へ頻繁にやってくるようになった。
そして島に服従を要求してきた。
いずれこの島を乗っ取って南の大陸への橋頭堡とするはずだったものを、逆に奪われそうになる始末。
いっそこのまま戦争を起こそうかと思ったが、島の司祭が王国に組み込まれることを選んだ。
これは島の神々の意思であると。
そしてダラントは王国に併合され、島の教会は聖霊教会へと姿を変え、代官の一族は島の支配権を失った。
代官など、所詮は地方の役人である。
それを代々引き継げるからといって、あの司祭の一族がいれば帝国のために動くこともままならない。
そこで、代官の一族は教会を乗っ取ることにしたのだ。
すでに一度成功している。代官は上手くいくことを確信していた。
ニケアが学院を卒業して花嫁を島へ連れてきたとき、その美しさに嫉妬心で気が狂いそうになったが、いずれあれも自分のものにするのだと気を落ち着けた。
結局、邪魔になりそうなので出産後に殺してしまったが。
あの時点で、すでに司祭の一族はニケアとその父の2人となっていた。
いつか何かに使おうと、誤って人を死なせた男を妻と一緒に城下に住まわせている。
全ては上手くいくはずだった。
いや、実際に上手くいっていたのだ。
あの日、アルバート・ウィングレイが島にやってくるまでは。
しばらくして出てきたのは聖霊教会の助祭だという若い女だ。
気取った生意気そうな雰囲気が鼻につく。
それでも代官は笑みを浮かべた。
「はじめまして、シェイドリール聖霊教会助祭、ノーマ・マルグリットです。孤児を引き取りたいとか」
「はい。先日、ダラントから司祭不在ということでこちらへ移動させられた、ニュルという子どもです。わたしの城で育てる手配が済みましたので、迎えに参りました」
代官はうやうやしく胸に手をあてて一礼した。
これにノーマは感情のうかがえない表情で静かに返す。
「ニュルという孤児はおりません。またあいにく、島から連れて来られた子どもはすでによそへ引き取られました。どこへかは教えられません。残念ですがどうぞお帰りを」
そして教会騎士に指示を出して代官を建物から追い出した。
あのとき、洞窟には教会の多くの者がいた。
その場にいなかった者はあとから聖霊たちの言葉を人伝てに聞いた。
証拠がなくまだ公にできないものの、聖霊教会の司祭夫婦を殺したという代官に親切にする教会関係者は存在しないのだ。
しかし、代官はその事を知らない。
自分が疑われ、調査されている事も。
代官は小声で聖霊教会を罵りながら、領都にある帝国商人の元へと向かったのだった。