名前の不思議
洞窟の外へ出ると、辺りはすっかり日が暮れていた。洞窟から教会までの森の道は、ところどころに灯りが置いてあって迷わないようになっている。
明るいうちの静謐さとはまた違う穏やかな空気の中を、司祭を先頭に一行はゆっくりと歩いていった。
アルバートが、すぐ前を行く司祭にぼそりとつぶやく。
「司祭殿、あれだな、聖霊というのはなんというか……」
彼らしくない、やけに疲れた響きの小さな声に、ユーレイシアはきっぱりと告げる。
「それ以上はお言いにならないでください。わたしも常々、おそらく同じ事を考えています」
「そうか……、そうか……」
初めての者には少し厳しいだろう。
特にこの国にたったひとつの聖龍教会に籍を置いていたような者には。
アルバート・ウィングレイ。
聖龍騎士として名を上げ、請われて王国の騎士団長となってからも聖龍教会に籍を置き続けた。
龍は王国を守護するものであるため、その両者は反発しないのだ。
聖龍教会は正邪の別と必罰を旨とする。
はっきり言えば堅苦しい。
頑固で融通が効かず傲慢なほどに独善的。
聖王教会よりも聖龍教会に近い位置にいた彼の前では、聖王教会の御霊も襟をただすのだろうが、聖霊たちにはそんな権威は通用しない。
それはもう気持ちがいいほどに一切通用しない。
なんだか申し訳ないような気分になってきたユーレイシアだった。
その後ろを歩くセドリックが、ランディに話しかける。
「聖霊の名付けには圧倒されたな」
「ええ」
「あれを見ると、自分の名前を変えてみたくならないか」
何気ない様子で言ったセドリックに、ランディは笑顔で返した。
「いいえ、全然」
「そうなのか?」
「ええ。気にしてくださらなくても大丈夫ですよ。俺の名前、うちの国じゃ英雄の名前ですけど、よその国じゃひどい意味ですからね」
からからと笑う騎士に、セドリックは苦笑する。
「気にしてるかと思ったんだ」
ランディという名前は、ロンドリアでは子どもに一番人気のある、救国の英雄の名前である。
だが、隣の国では「好色」だとか「淫乱」だとかいう意味の言葉だ。
そのまた隣の国では「頑丈な乞食」。
多分、この国を救った英雄は、他国から見れば不愉快極まりない怨敵ということなのだろう。
見習い時代、平民の彼は他国から留学中の貴族にからかわれたが、そのときはどうしても許せずに暴力で返したことがある。
セドリックはあのとき、あの場所にいた。その事を言っているのだ。
「いやあ、もうほんとに全然。俺の名前、じいちゃんからもらったものなんですよ。だからこの名前気に入ってるんです。じいちゃんは英雄にあやかって、ですけどね。」
それに、とランディは続ける。
「あのときのケンカが元でアルバート様に預かってもらえることになりましたからね。俺にとってはこの名前は幸運を呼ぶ名前なんです」
「そうか。悪い事を言ったな」
あれは一方的な暴力でケンカではなかった気がするが、とはセドリックは言わなかった。
「いえいえ、気にしてもらえて嬉しかったですよ」
名前というのは不思議なものだ。
それとも言葉が不思議なのだろうか。
ミュリエルと新しく名付けられた子どもは、これまでと雰囲気が変わってどこか落ち着いて見える。
もともと可愛らしい子どもであったが、精神的に安定を得たのか隠れていた賢さが顔立ちに現れてきたようにも思えた。
ニュル、と愛情を込めて呼ばれるのと、ニュル、この無能な役立たず、と含みを持って呼ばれるのとでは受ける印象も違う。
そう、それはまるで呪いのようだ。
名を呼ぶたびに刷り込まれる呪い。
代官はそれを狙っていたのだろうか。
それともただ、相手の尊厳を名前を呼ぶたびに踏み躙りたかっただけなのだろうか。
ミレディが、ミュリエルに何か言っている。
それに顔を上げて何事か返し、ミュリエルは笑った。
同じように2人を見ていたセドリックが、ぽつりとつぶやいた。
「学園に行かせるか、行儀見習いで母上に預けるか……」
そばに置いておくのは間違いなさそうだ、とランディは目を細めて笑みを浮かべた。




