嘘
ハンナが女騎士に付き添われて船の甲板に出ると、そこには大勢の騎士とアルバート、そして代官が待っていた。
「代官様、おかげであの子と最後に話ができました。ありがとうございます」
ハンナが腰を曲げて深く頭を下げると、代官は表情を歪めてハンナの背後を睨めつける。
「あの子どもはどうした」
「それがどうも、人攫いにあったせいか体調を崩しているようでございます。泣いているうちに体が震えてきて立てないようになりましたので、侍女様にお預けして寝かせてまいりました。代官様にお礼のご挨拶をさせたかったのですが、あいすみません」
代官に嘘をつくのは初めてではない。
ハンナの口からはするすると息をするように嘘が出た。
心苦しさなど何もない。
代官には脅されて嘘をつかされたり、言うことを聞かされたり、自分の意に染まぬ事を常からするよう強いられている。
それを思えば、この目の前の男に対し偽りを述べる事で痛む心などどこにもなかった。
「バカバカしい。子どもの我儘など聞いてやる必要もないだろう。連れてこい、今まで散々世話になっておいて、挨拶すらできんとは何事だ」
所詮は7才の子どもだ。
これまで通り、威圧して言い聞かせれば自分の思う通りになる、代官はそう考えていた。
領主が何を言おうが、この島の全ては代々彼の一族の持ち物で、その持ち物である子どもごときが自分に逆らうなどあり得ない。
島に戻れと彼がひとこと言えば、ハンナもニュルも黙ってその通りにするものと信じていた。
弱った子どもの様子を我儘と言い放つ代官に、周囲の騎士たちの表情は変わらないまま、その瞳の色がわずかに冷める。
そしてハンナは、代官のこの言葉にぼんやりとした表情をして腰を曲げたまま、彼を見上げた。
「はあ、ですが、わたしの力では抱え上げるのは難しいもので……」
困ったように首も傾げる。
代官は領主の騎士や使用人を顎で使うわけにもいかず、苛々と言葉を続けようとしたが、それをアルバートが止めた。
「どうも代官殿は何か勘違いをしておられるようだが」
淡々と静かな言葉が、海風とそれにはためく帆の音が響く中でやけに際立つ。
それは、彼の部下である騎士たちが、そしてこの船を動かす船員たちが、誰も言葉を発せず、身じろぎひとつせずにアルバートと代官に注視しているからに他ならなかった。
「この地は我が領地。我が主君である国王陛下の治めるロンドリア王国の一部である。代官殿のシェイマックス家はそれを任された代理人──、いわば地方役人に過ぎない。先祖の治めた土地を代々預かっているからといって、その職分が領主であるわたしを超えることはなく、対等であることもない。領主のわたしの意思を超えて何かできるなどとは思わぬように」
冷たい剣を首元に当てられたように、代官は腹の底から冷えた。
この島は代官の先祖が古くは支配していた土地である。
王国に組み入れられたさい、そのまま土地に住み、代官として管理する事を許されたものの、それは司祭の地位のように絶対のものではない。
聖霊教会の司祭はその血筋が王国以前からの血族に定められているものの、代官は必ずしもシェイマックス家でなければ、と決められてはいないのだ。
「大変失礼をいたしました……。無事かどうか確認したいあまり、言葉が過ぎたようです」
「そうだな。気が動転しているのだろう。だが、犯罪に巻き込まれた当事者である子どもはさらに動転しているはずだ。今は寝かせておけ。話は管理人から聞くといいだろう。我が領地の民を思いやってきた代官殿の姿勢はしかと心に刻んだ。後日、礼をしよう」
「は、身にあまるお言葉、光栄にございます」
代官は決まり言葉を返して頭を下げ、表情を隠した。
「うむ、では我々はこれで失礼する。領都での仕事があるのでな。ランディ、お見送りを」
「はい」
「ああそれから管理人殿」
アルバートは笑顔だと本人は思っている表情をハンナに向けた。
ハンナの背が少しばかり恐怖で震える。
「なんでしょう、ご領主様」
「そなたにも後日、褒美をとらそう。司祭のいない教会で、よく1人で孤児の面倒を見てくれた。今後は視察で騎士が定期的に訪ねる事になる。町の暮らしに変わって何か不便があれば、なんでも、どんな些細なことでも話すように」
それを聞いて、ハンナは胸にこみ上げてくるものがあった。
涙が目の端に浮かび、泣いてしまいそうで慌てて頭を下げる。
そしてかすれる喉で心からの礼を言った。
「ありがとうございます……、領主様、本当にありがとうございます……」
数名の騎士に案内されて代官とハンナは下船する。
直後、船と陸とを繋いでいた踏み板が外され、船員たちが忙しく動き出した。
代官はこの時ようやく、甲板で人の動きが無かったのは出航の準備はすでに終わっていたからだと気がついた。
引き止めようと声を上げかけて、全ては手遅れだと思い直す。
アルバート・ウィングレイ。元王国騎士団長。
あの傲慢な男をいつか陥れ、踏みつけにしてやる。
歯噛みしながら港を出て行く船を見送る代官を、ハンナはその後ろでただ冷静に見つめていた。




