8、不思議と安心します
リタと愛馬を見送ったジークさまが、わたしの傍に腰をおろします。ふと考えるように首をかしげてから、ゆっくりと口を開くのです。
「さっきから握りしめているその手紙は、ブローム子爵宛かな? だとしたら、侍女に持たせた方がよかったかもしれないな」
「え。あの、これは」
いけません。ジークさまはご自分が幼かったわたしに手紙を送ったことなど、忘れていらっしゃるはず。
屋敷を追いだされ、ほんのわずかな荷物のなかに彼の手紙をいれていたと知られたら。恥ずかしさで、顔が頭が沸騰します。
すでにあたりは闇が降り、家路をいそぐ馬車が通りすぎるのみ。
それ以外は、夜風が野を渡るさわさわという音と、涼しく軽やかな虫の声が聞こえるばかり。
もし、ひとりきりなら。いいえ、リタとふたりでも、たいそう心細かったことでしょう。
けれど不思議。ジークさまがいらっしゃるだけで、暗い野も、がさりと草の中を動くウサギ(と思いたいですが、ネズミかもしれません)の音も、怖くないの。
ふいにジークさまがわたしの体を引き寄せました。
突然のことで「ひっ」と、みっともない引きつった声が洩れます。
「蛇がいるようだから、俺にくっついていなさい」
「へ、蛇ですか」
思いがけない言葉と、服の布越しに伝わってくるぬくもりに、声がうわずってしまいます。でも草のなかには、あの長いものがうねうねと動いているのですよね。
鱗がてらりと光り、ぬめった体を引きずって、赤い舌を小さな炎のように出し入れしながら、のんきな小動物を狙って。
どうしましょう。
お庭は園丁のおじいさんが草刈りをしてくれていたから、蛇を見たことはほとんどありません。でも、その恐ろしさは知っています。
「草むらに近寄らなければ大丈夫。ネズミを狙っているのだろう」
ジークさまの大きな手が、わたしの肩を包みました。
「冷えているな。こんな夜に外に放りだされたことなど、初めてだろうに」
ふるふると、小さく首を振ったのをジークさまは見落としませんでした。
「あるのか?」
「夜会に出席していて、帰りが遅くなったことがあるのです。伯爵家のパーティでした。なかなか終わらなくて、中座もできず。ようやく馬車で家に戻ると、もう鍵がかけられていました」
「なぜ? 執事もほかの使用人もあなたの不在を把握しているだろうに」
もともと低いジークさまの声がいっそう低くなります。何かをこらえるように、押し殺したようなひそめた声です。
当時のことを思い出し、わたしは身を震わせました。
ちょうど社交の時期のはじまった冬のこと。
粉雪は音もなく地面を馬車を白くいろどり、暖炉の燃えるあたたかな部屋のなかからでしたら、庭の木々が砂糖菓子のように見えてうつくしく感じたことでしょう。
けれど、外を歩くためではない華奢な靴は、ブーツのように寒さを防いでくれません。
外套も形ばかりで。手袋だって絹の薄いものです。
馬車を降りて、さほど時間も経っていないのに。
白い手袋につつまれた指はかじかんで、ノッカーをうまく掴むことすらできません。
ふだんは自分でいかめしい獅子のノッカーに触れることもないのです。
ようやく鳴らすことができても、その音はあまりにも小さく。音のない雪に吸いこまれてゆくかのよう。
リタが代わって大きく鳴らしてくれて、ようやく執事が目を丸くして扉を開いてくれたのです。
「今宵は伯爵家にお泊りになるとうかがっておりましたが。予定が変更になりましたか?」
「そんな予定はなかったわ」
「モニカさまから、ことづてをお聞きしました。あれは嘘だったのですね」
「あの子が、そんなことを」
白い息を吐くわたしの声は、かすれていました。
「さぞやお寒かったでしょう。さぁ早く中であたたまってください。風邪をお召しになったら大変です」
芯まで冷えきったからだには、くるまれた毛布とホットミルクのあたたかさが優しく染みました。
翌朝、モニカに問いただすと「あら、そんなこと執事に言ったかしら。彼のかんちがいじゃないの?」と、けろりとしたものでした。
しかも「私のせいにするなんて、ひどいわ」と、涙を浮かべるのです。
とてもきれいな涙。
彼女の本性を知らぬ人が見れば、いえ、熟知していたとしても、騙されてしまうことでしょう。
まるで疑うこちらに問題があるとでも言いたげで。わたしはそれ以上追及できなかったのです。
説明を終えると、ジークさまの大きな両手が、わたしの手を包みました。
まるで雪の夜、閉め出されたあの日のわたしの寒さをいたわるように。