5、出ていきます
大きく深呼吸をして、気持ちをととのえます。
リタは「お嬢さま」と、おろおろとわたしの顔をうかがいますが。大丈夫。
うそ。大丈夫なんてどこにも保証はないわ。
でも、そう思わなければ、あまりにも惨めで。
モニカ達が去ったあと、わたしは部屋に戻りました。使用人の声は聞こえず、執事も料理人もメイド達も園丁も馬丁も姿が見えません。
誰もがひっそりと声をひそめ、姿を隠しているのです。
モニカにやつあたりされぬよう。
わたしは革のトランクを取りだそうとして、首をふりました。
馬車が使えるわけではないのです、しかも行き先も分からない。必要なのはドレスではありません。
「本当は売りたくないけれど」
お父さまとお母さまから譲られた宝石を、小箱からとりだします。
わたしとモニカで平等にわけあった、しっとりとした光を宿す真珠やきらめくサファイア、赤や緑、うす青の色がちらちらと揺れるオパールに、海をとじこめたアクアマリン。
モニカが「こんな地味なのいらないわ」とわたしに投げてよこしたのは、お母さまのお気に入りのラピスラズリ。
金の粒が散った深い紺青の石は、まるで夜空のよう。
「わたしもお嬢さまとともに参ります」
両のこぶしを握りしめて、リタが強くうなずきました。
「でもね、わたしはあなたを……レディーズメイドを雇うことはできないわ。その余裕がないのよ」
「いいえ、お給金なんていりません」
なおも言い募るリタを、わたしは手で制しました。あなたが優しいからこそ、連れていくわけにはいかないの。
「この屋敷の勤めを辞めなさい、リタ。わたしの侍女であるあなたは、きっとつらい目に遭わされるわ。でも、わたしはこれ以上あなたに苦労をかけたくないの」
「苦労だなんて、そんなの」
「いいえ、いますぐにお辞めなさい。のちのち大量の使用人が屋敷を離れるわ。そうなってからでは遅いの」
リタは、わたしの言っていることがすぐには分からないようでした。
デニスとモニカの下で働くことを是とする者が、何人いるでしょう。デニスが貿易や商売で財を築いたのは、彼が貪欲で人を人と思わずに働かせるから。
彼が取引をしている茶園では、自分で摘んだお茶を飲んだこともない働き手ばかりだと耳にしたことがあります。
高級な紅茶を産出する、茶摘みの人たちは水しか飲めぬ賃金を。
それでも、そんな相手でも、クリスタならば上手に諭せるのではないか。お父さまはそうお考えでした。
「今なら次のお屋敷も見つかるわ。わたしが紹介状を書きます、執事には……そうね、きっと分かってもらえるわ」
はなむけにせめてリタに宝石をひとつでも、とわたしは彼女の瞳によく似合うあさい緑のペリドットのネックレスを選びました。
絹のハンカチに包み、ペリドットを手渡すと、リタは顔を真っ赤にして首をふります。
「いただけません。こんな高価なの」
「でも、わたしはあなたに助けられてきたわ。リタが一緒だったから、両親が亡くなってからも寂しさが紛れたの。あなたがわたしの本当の妹なら、となんども思ったものよ」
「いけません、そんな。身分が違いすぎます」
「あなたは女中ではなくて、侍女よ。自分を卑下しないで」
睫毛に涙をためて、リタがわたしを見つめます。ぬれた緑の瞳は、やはりペリドットのよう。あるいは春に一気に芽吹いた柔らかな森の緑。
無理に押しつけるようにすると、ようやくリタは受けとってくれました。
なんどもなんども「ありがとうございます」をくり返しながら、涙を流すのでした。
ライティングデスクの引き出しを片づけていると、なかから封筒が現れました。
色褪せて古びた封筒を開くと、文字の並びがあらわれました。宵闇の色のインク、したためられた「先日はありがとうございます、小さなレディ」の一文。
とくんと心臓が音を立てて跳ねて。わたしは喉の奥がつまったように苦しくなったのです。
ジークさまが、幼いわたしにくださったお手紙でした。
見あげても、彼のあごの下しか見えないほど身長が高く、がっしりとした体格のお方でしたが。武骨な印象とはうらはらに、その文字は流麗でした。
薔薇の棘にひっかかった髪を外してさしあげたそのときの、お日さまのぬくもりも風の温かさも、柔らかに甘さを重ねた香りも、何もかもが一瞬にしてよみがえってきました。
お守りに、とその古い手紙を小さな鞄にしのばせます。
遠出ではトランクを使いますが、それは使用人が運ぶもの。
馬車も使えない道のりで、とうてい自分で重い荷物を抱えて歩くことなどできません。着替えはできるかぎり少なく、鞄も皮ではなく布の手提げを。
普段は練り香水やレースのハンカチ、扇を入れている小さな鞄には、それらのかわりにジークさまのお手紙と宝石を入れていきます。
しばらくは、おばさまのお屋敷で居候させていただくにしても、長くはいられません。
早々に間借りできる家を探さなくては。
「お嬢さま。せめてブローム子爵のお屋敷まではご一緒させてください」
「リタ」
「供もつけずに、子爵家の令嬢がおひとりで街道を歩くなど。もってのほかです」