19、なぜ来たの?
ジークさまとの日々は、穏やかに過ぎてゆきました。
三日に一度は侍女のリタが訪れて、彼女と一緒に不器用ながらもわたしも掃除を手伝います。
もっともジークさまは一人暮らしが長いので、室内はきれいなのですが。なにぶんにも庭には手がまわらないらしく、わたしとリタは主に庭をととのえることに専念しました。
「夏になると蚊が多くて困っていたのだが。今年は蚊が少ないな」
八月になり、したたるような緑の陰で、ジークさまの白いシャツも匂いたつ緑に染まりそうです。
そよ風ですらも、夏の朝の涼やかな露をはらんでいます。
「水たまりがあると、蚊が発生しやすいんですよ」
「そうなのか。けど、あったかな、水たまりなんて」
首をかしげるジークさまに、わたしは伏せてあるバケツを指さしました。指の第一関節ほどの浅さですが、バケツの裏の窪みに水がたまっていたのです。
「意外と見落としがちなんです」
「そうだったのか。しかし、きれいになったものだ。うちの庭仕事をさせて申し訳ない気がするが」
「いえ、御厄介になっているのですから、お気になさらないでください。それにいつかは……」
そう言いかけて、わたしの言葉は風にさらわれました。
自宅に戻り、庭の手入れをすることはもう叶わないのです。
ラヴェンダーを摘んでサシェを作ることも、薔薇を摘んでジャムを作ることも。
おもに薔薇ですが、ガーデニングは貴族のたしなみとも云われています。
モニカは馬鹿にして、一度も植物に触れることもありませんでしたが。
ですが、わたしの庭仕事など、園丁にくらべれば力もなく木の剪定ですら難儀するほど。お嬢さま育ちで体力も腕力もないのに、どうやって生きていけばよいのでしょう。
「あまりジークさまのお世話になるわけにもまいりませんから」
ふいにわたしの体が揺らぎました。
足下がぬかるんでいたのかしら? といぶかしんだその時。
頬が硬く分厚いもの……布地の向こうにそれを感じました。
目の前いっぱいに白い布。それはジークさまの胸でした。
「あ、あの。ジークさま?」
問いかける声はみっともないほどに上ずっています。
「すまない。つい」
両肩を掴まれて、引き離されるかと思いきや。反対にわたしはその両手に、両腕に体が包まれたのです。
どきどきと、心臓がやたらと自己主張をします。ふだんは、気にもならないのに。
遅れて、かぁーっと頬が火照るのを感じました。
わたし、ジークさまに抱きしめられているの?
「すまない。手が勝手に動いて……そして離れてくれない」
耳元で囁かれる声は、本当に困惑しているようで、少しかすれています。
だから、本気でいらっしゃると分かったの。
遊びでも戯れでもないと。
きっと今のわたしの頬は熟れきった林檎のように真っ赤でしょう。見あげると、高い位置にあるジークさまのお顔も朱に染まっています。
無理だ、恥ずかしい、と潤んだ青い瞳が言葉を発しているかのよう。
「その、ここにいてほしいんだ。厄介になるとか、世話になるとか、そういうのではなく」
「それは、どういう?」
「いや、追及されても困るのだが」
こんなにもうろたえたジークさまは初めてです。
「ちょっとなに見つめあってんのよ。気持ちわるい」
突然の殴りつける声に、わたしはとっさにジークさまから離れました。
ええ、忘れるわけがありません。
暴風雨のような、気にいらぬものはすべて切って捨てるあの声。
おそるおそるふり返ると、低い石垣のむこうに妹が、モニカが立っていたのです。
「どうしてここに?」
「どうしてもこうしてもないわよ。ふんっ、小さな家ね。馬小屋かしら。あーら、失礼。厩舎の方はウサギ小屋みたいだわ」
相変わらず悪態をつきながら、モニカは開いたままの門から入ってきました。
横柄な態度はおなじなのに。どこか雰囲気がちがうと感じました。
「はやく荷物を持ちなさいよ。お姉さまでもいいし、そっちの騎士でもいいわ」
新聞のようなものを握りしめながら、モニカがジークさまに向かってあごをあげました。
そのとき、わかったのです。
妹の短いブーツがうす汚れていることを。
アフタヌーンドレスの袖から糸がほつれていることを。いつもはきれいに巻いてある金髪が、今日は適当にまとめているだけなことを。




