16、可愛い、と云ってはいけません
足を動かした時、すうっと爽快なにおいが鼻をかすめました。
そういえば、足を捻挫していたのです。木にぶつけた肩はもうさほど痛みもないのですが。足首はジークさまが包帯を巻いて、手当てしてくださったのです。
「ジークさま?」
見慣れぬ天井は夜の色、窓の外は天の河の端が丘のほうへと収束されて見えます。
まさかベッドを独り占めして、ジークさまは長椅子で寝ていらっしゃるのかしら、と手を伸ばすと壁に触れました。
壁?
壁にしては、布の奥に、滑らかで少し柔らかいような。この硬いでっぱりと窪みは何かしら。てのひらで探っていると、その壁は微かに動くのです。
布の向こうの引き締まった動きを追って、わたしは指でなぞります。
「や、やめてくれ」
くぐもった声が、ひっそりと震えて聞こえました。
「お願いだ。くすぐったいんだ」
「え?」
てのひらに温もりを感じて、さわさわと触れていたのですが。もしかして壁ではなくジークさまの背中? でっぱりと窪みは肩甲骨?
わたしったら丹念に撫でてしまいました。
大きな両手で顔を押さえたジークさまは、横たわってあちらを向いた状態で。それでも、はかない月明かりであっても、彼が肩を小刻みに震わせているのがわかります。
「助かった……」
わたしが手を離すと、ようやくジークさまは大きな息をつきました。けれど顔を隠したままです。
「大丈夫でしたか? 申し訳ございません」
ぐいっと身を乗りだして、肩越しにジークさまの顔を覗きこみます。
「だめだ、見ないでくれ」
まぁ、どうしましょう。長い指の間から見え隠れするジークさまの頬はほの赤く、黒い睫毛はわずかに涙が宿っているようです。
本当にくすぐったがりなんですね。
「可愛い」と言いそうになって、あわてて口をつぐみます。年長の殿方に「可愛い」だなんて、失礼ですもの。
でもね、かつて薔薇の枝や棘に髪をとらわれていたジークさま。こまって諦めて、ため息をついていた騎士さまを、小さかったわたしはなんとか助けたいと願ったのです。
あのころの願いは、逆になり。わたしは結局ジークさまに助けられてしまいました。
「……すまない。あなたの指は細く、力も強くはないものだから。騎士団の生活のなかで、こんな風にたおやかに触れられることなどなくて……ああ、なにを言ってるんだ、俺は」
本当はひとつのベッドで、背中あわせとはいえ眠っていることは相当に恥ずかしいことですのに。
ジークさまが照れておしまいになったから、わたしはかえって平静でいることができました。
「目が覚めてしまったのかい?」
ベッドに上体を起こしたジークさまは、寝間着の胸元のボタンが三つぶん大きく開いていて。たくましい胸となめらかな日焼けした肌が見えていました。
「あ、あの。目の毒です」
「そうか。ふだんからこんな感じだから」
ふと天井に視線を向けたジークさまは、何かを思いついたように目を大きく開きました。でもそれも一瞬のこと、すぐにわたしの右手をとったのです。
ジークさまの手はわたしよりもひんやりとして、大きくて。
長くて節くれだった指に掴まれたまま、わたしの指は彼の寝間着のボタンに添えられたのです。
「意趣返しかな。クリスタにボタンを留めてもらおう」
「え? あの、意趣返しだなんて。そんな恨まれるようなことでしたか」
ああ、でも。くすぐられるのに弱い人もいますよね。
しかもさっきのはある意味、寝込みを襲ったようなもの。
わたしはこくりとうなずいて、手を伸ばしました。
星のまたたく音だけが染みそうな静かな部屋に、ほんの幽かにジークさまが息を呑む音が聞こえました。
まるで空耳かと思うほど、ほのかに。
貝ボタンのように薄くはない、木のボタン。けれど指先がふるえた状態では、すこし厚みのあるボタンもうまく留めることができません。
さっきは知らぬこととはいえ、存分にジークさまの背中を撫でていたのに。
ジークさまと向かいあっている今は、たかがボタンが思いどおりになりません。
ひとつ……またひとつ、そして最後のひとつ。
長い時間をかけて、ようやく首元までボタンを留めることができました。
ほっと息をつくと、頭に大きな手がのせられて。
重くはありません、ふわっとかすめるように春風のように柔らかくあたたかく撫でられたのです。
見あげると、照れたように少しはにかみながら、わたしを見つめるジークさまの潤んだ青い瞳と目が合いました。
ああ、わたし。憧れのジークさまと一緒にいるのだわ。その実感がひたひたと胸にこみあげてくるのです。