14、ジークさまのお家
ジークさまのお家は、キッチンと食堂が一緒になったお部屋と隣接する居間、寝室、それに書斎ていどの、二階のない平屋です。
わたしを長椅子に降ろすと、ジークさまはローテーブルに置かれたオイルランプに灯をともしました。
ほんのりとした橙色の明かりが室内を照らし、簡素ではあるけれど片づいた、物の少ない室内が見わたせます。
「狭いだろ」
「おちつきます」
「ならよかった」と、ジークさまはお湯を沸かしにキッチンに向かいました。
最近普及しはじめた燐寸を擦ると、しゅっという音とともに小さな炎がともります。石炭に火を移し、銅製のお鍋をかけてお湯を沸かしていらっしゃいます。
不思議な心地で、わたしはジークさまの広い背中を眺めていました。
父は当たり前ですが、自分でお湯を沸かしたことがありません。デニスもおそらくは同じでしょう。
今では使用人が少ないので、わたしは紅茶を淹れるのに、自分でお湯を沸かすことも多いですが。
女の子が初めて作るコケモモのジャムを挟んだケーキを、あたりを粉だらけにしながらこしらえたことがある後は、両親が亡くなってからようやく簡単な料理や、お皿洗いをしはじめた程度です。
モニカは「お腹すいたわ。夕食はまだなの?」とキッチンに向かって呼びかけるだけ。
料理人とキッチンメイドとわたし、それに侍女のリタの四人で、日々の食事をこしらえていました。
使用人たちは、わたしに「モニカさまのように、座って待っていてくだされば」と言ってくれるのですけれど。
使用人が多かったかつてのように、無関心ではいられないのです。
ジークさまが手際よく、ティーポットに茶葉を入れ、しゅんしゅんと音をたてて沸いたお湯を注いでいます。
紅茶とはちがう、爽やかであまい林檎に似た香り。
「カモミールですね」
「そう。紅茶だと眠れなくなるからな」
見れば、キッチンの棚には、乾燥したハーブの入ったガラス瓶が並んでいました。
月が昇ったのでしょう。
窓から見える裏庭は、ぼんやりと仄白く涼しい光に照らされていました。春の月は檸檬色よりもさらにうすく、氷を重ねた白さに似ています。
静かな夜風にそよぐ草、そのなかに見覚えのある葉が目につきました。
しゅっと伸びた鋭い葉は、レモングラスでしょうか。
丈の高い茎にふわっとレースをまとわせたような葉は、ディル? あるいはフェンネル? わさっと緑濃い葉を鉢から溢れさせているのはミント。
「あのお庭はハーブが植えられているんですか?」
「ん? ああ、団長が副団長だった頃に、ここで育てていたんだ。この瓶のハーブも、団長の手作りだ」
俺はそういうのに疎くてな、とジークさまは苦笑いを浮かべました。
「わたしの育てていたハーブや花は、もう枯れてしまうかもしれません」
「クリスタ」
「ローゼンタールの屋敷はおろか、お庭に入ることももうできないんですもの」
じんわりと涙が浮かんできます。淡い琥珀色のカモミールティーが、滲んで見えました。
「大丈夫だ。いつか必ず取り戻せる」
根拠などどこにもありませんのに。ジークさまの言葉は力強くて。
ほんとうにあの美しいお庭にも、なつかしい家にも帰ることができるのだと信じられるのです。
ジークさまの淹れてくださったカモミールティーは、ふんわりと甘い香りで、喉にすうっと温かさと、かすかな涼しさが落ちてゆきます。
そういえば、モニカに追いだされてからお茶を飲んでもいなかったのだわ、とあらためて思いだしました。
ローゼンタール家の薄いティーカップではなく、武骨でずっしりと重いカップを両手で包みこみ、長い一日がようやく終わるのを感じました。
「腹が減ってるんじゃないか? 菓子ならあったかな」
棚を開いてごそごそと手を入れて探していたジークさまが「あった、あった」と四角い缶を取りだしました。
「俺は甘いものはあまり食べないから。遠慮せずにどうぞ」
「まぁ」
鼻をくすぐる蜂蜜と、スパイスの香りに思わず頬がゆるみます。ジンジャーとシナモンにカルダモン、それにくせのあるクローブ。
どこの家でもよく食べられている、薄くて茶色いクッキーが缶のなかに詰まっていました。
「いただいても?」
こくりとジークさまがうなずきます。
硬いクッキーには、白いアイシングで模様が描かれ。見ているだけでも美しくて、心が和みます。
「俺も食べてみるかな」
長椅子の、わたしの隣に腰を下ろしたジークさまが、長い指でクッキーをつまみます。
さくっと軽快な音。そしてジークさまは「甘いな」と困ったお顔をなさったの。
カモミールの林檎のにおいと、香り高いスパイス。
まるであたたかな家庭にいるようで、とてもおだやかな気持ちになれたのです。