1、没落貴族の姉妹
我がローゼンタール子爵家は、代々長女が庭の管理をすると決まっております。
むろん、ひとりでは無理ですから、力仕事や剪定は園丁におねがいしておりますが。
お屋敷の維持もむずかしく、父や母が存命のころから、お庭を有料で開放しておりました。ええ、子爵家といっても、かつてのように裕福とはかぎらないのです。
季節ごとの花がうつくしく咲きほこるお庭を散策するのは人気のようで。おとずれる人が後を絶ちません。
わたし、クリスタ・ローゼンタールはふわふわした金色の髪をひとつにむすび、あさみどりに染まる霧のなかで深呼吸をしました。
早朝のお庭はすてき。白樺とヒイラギの森から、深く涼しい香りが流れてきます。
それに六月のお庭はもっとすてき。こぼれるように咲きみだれる黄色い木香薔薇、こんもりとした薄紅の花弁がかさなりあう薔薇はあまい香り。
先へ進むと、丘にはいちめんのラベンダー。うすむらさきの野が山すそまで続いています。
「今年もラベンダーでサシェを作らないとね」
「そうですね、いそがしくなります」
遅れてやってきた侍女のリタの赤毛の三つ編みが、頭上からたれさがる、つる薔薇の葉にひっかかってしまいました。
「まぁ大変」
「いえ、いいですよ。これくらい引っぱれば」
無理に髪をひっぱるリタを、あわてて止めます。
そういえば、かつてうちにいらしたことのある騎士のジーク・ストランドさまも、つる薔薇に髪をとられていたことがありました。
そのころのわたしはまだ小さくて、背伸びをしてもとうていジークさまの頭に触れることも叶いません。
――無理をしなくていい。髪を切ればいいだけのことだからな。
――だめです、ジークさまの髪はおきれいですのに。
――きれい? 俺が? ただの黒髪だぞ。
――夜空の色ですもの。
逆光になったジークさまのお顔はうすぐらくて、表情はよく分からなかったのですが。
澄んだ秋空のような、お母さまがお持ちのアクアマリンのような瞳が大きく見開かれました。
わたしと似た青い瞳なのに、ジークさまの目はもっと澄んでいるの。
一瞬の沈黙。ジークさまと背伸びするわたしの間を、薔薇のかおりの風がながれてゆきます。
突然、頭上から笑い声が降ってきました。柔らかな春の雨のように。
――あ、あの。どうしておかしいのですか?
大人のかたに(当時のジークさまは、まだ二十歳にはおなりではありませんでしたが、十歳のわたしからすれば、立派な大人でいらっしゃいました)笑われて、頬がかっと熱くなるのを感じました。
それも通りすがりの人や、お酒に酔っている人じゃないんです。
いつもきりりと背筋を伸ばして、ともすれば怖くも見えるジークさまにです。
きっとわたしの顔は真っ赤だったことでしょう。
耳たぶまで熱いんですもの。
――では小さなレディ。憐れな私の髪にからまった枝を外してもらえますか?
――小さなレディ?
――あなたのことですよ。クリスタ。
ふわっと足が地面から離れました。浮遊する感覚、雲に乗るとはこんな感じなのでしょうか。
見れば、ジークさまのお顔が間近に。
え、ええ? どういうこと? 両手をつっぱって、ジークさまのお顔を遠ざけます。
――痛いって、こら。猫か、君は。
とんでもないことをしてしまいました。ひぃと鶏がくびられるような悲鳴をあげて、わたしは顔を隠します。
しかも逃げられる場所が……顔を埋もれさせる場所が、ジークさまの肩だったのです。
一緒にお散歩をするナースメイドの肩のようにほっそりしているわけでもなく、お母さまのように柔らかでもなく。
がっしりと硬くて、岩のよう。
――続きを頼んでも?
――はい。
恥ずかしくって顔があげられません。耳たぶが熱くてちぎれてしまいそう。
ジークさまの服の生地をきゅっとつかんで、でもその手がかたかたと震えてしまうのです。
それでもジークさまはじっと待っていてくださいました。
朝焼けでも夕焼けでもないのに、顔をまっかに染めているわたし。
幼い頃からの婚約者のデニスさまはきっと「みっともない、さっさと顔色を戻しなさい」と無茶をおっしゃるでしょうし。妹のモニカは「やだぁ。いちごみたい」と笑うでしょう。
でもジークさまは、柔らかく微笑んだままです。
騎士さまは忍耐力がおありなのね、きっと。
デニスさまはジークさまと同じくらいの年齢で、わたしよりは十も年上。大人になったときに結婚するのが冷ややかなデニスさまではなく、ジークさまなら。
でも、考えたってそんなのは無理。だって結婚は家同士のことですもの。
まだ小さかったわたしにも、それは分かります。
――どうしたんだい? クリスタ。
問いかけられても、ふるふると首をふるしかできません。鼻がつんとして、涙がこぼれそうになるの。
涙は遠慮なんてしてくれません。
必死に瞼を閉じようとしても、まつげのすきまを縫ってあふれてくるんですから。
わたしのてのひらも、指も、今でもお日さまであたためられたジークさまの髪の感触を、ぬくもりを覚えています。
「大丈夫ですか、お嬢さま」
薔薇の枝に絡まる髪から自由になったリタが、問いかけてきます。瞳には不安そうな灰色の影を落として。
そう、足音が聞こえたから。
ざしゅざしゅと、無遠慮な涙以上にぶしつけな足音です。