「適当にやっといて」
「適当にやっといて」
この言葉は非常に難しい言葉だ。
少なくとも私には非常に難しい言葉のように感じられる。
まず、適当とはなにを持って適当なのか。
料理のレシピ本などではしばしば、「適当」という言葉が好んで使用される。
その場合の「適当」は言わずもがな「適切な量」という意味である。
例えば、レシピ本で「塩:適当」と書かれていて食卓塩一瓶をまるまる料理に投入する人はいないだろう。
人にはそれぞれの「適当」があって「適当」という言葉は一定の量を意味しないのである。だから難しいのであるが。
私は過去、「適当にやっといて」と言われ、適当にやったらやり過ぎだと理不尽に怒られたことがある。至極理不尽なことである。「適当」がどれくらいなのか、人によってそれぞれだと言うのに勝手にその人の「適当」を押し付けられ、正当化されようとしたのである。
私は今を適当に生きている。冗談ではなく本当の意味で「適当」に生きているのである。
適当に生きるというものは至極楽なもので、まず自分が適当な生き方をしていると思ったところである程度の諦めがつく。例えばなにか大きなミスを犯したり、大きなチャンスを逃したときなど、適当に生きていれば、「ま、適当に生きてるんだし仕方ないか」とある程度諦めがつくものである。これが理想の生き方かは知らない。だが、これは私の人生でありその作り方について指図する権利は他の誰にもないのだ。
しかし、前述で書いたとおり、「適当」が指す程度は人それぞれなのだ。私とは別にとある人が「適当」に人生を生きていたとして私とその人の生き方の様式が同じであるとは限らない。その人のいう「適当」はひょっとすると料理のレシピ本に出てくる「適当」と同じように「適切な」という意味の適当なのかもしれないからである。すなわち、その人は適切な選択肢を常にわきまえており、そのときどきによって適切な選択肢を選択肢生きている、そういうことなのかもしれないのである。至極合理的な生き方であると思う。そんなことができれば生きるのに苦労はしないだろう。
かと言って私は私の人生の作り方について否定する気など毛頭ない。これは私なりの最適解であり、また、私が私の中で話し合った結果だからである。
未来について考えず適当に生きる、非常にリスキーな生き方であるとは思うのだが、よくよく考えてみると人生というものは一度きりである。それに安定を求めるのか起伏に富んだ展開を人それぞれだと思う。きっと私のように「適当」に生きている人は一定数居るのだと考える。良い人生を送れるかはわからないが、少なくとも平坦な人生よりは楽しい人生を得たいと考えている人である。他方、合理的な「適当」を選択している人も居るだろう。しかも「適当」の幅は実に幅広く、アナログ的なものであるから各々の人によってその選択基準は無限大であろう。
あなたの「適当」、どんな「適当」ですか。
了。