紅生姜の毒性。社会への復讐。不安と恐怖
2月3日水曜日 19時
僕は一人でコンビニ弁当を食べながら、リーマンDの様子を確認するためのLINEグループを見ていた。リーマンDは本名を伊藤大輔という。
僕らはターゲットに常にアルファベットのコードネームを付けて呼ぶ習慣がある。
「今日の様子はどうだ?」と僕は打った。
すぐに美咲からの返信が来た。「普通。何の変化もない。会社を出て駅に向かってる」
美咲はポイズファクトリーに住む唯一の女性メンバーだ。
彼女は薬学部出身で、紅生姜に混入させる毒物の調合を担当している。
リーマンDこと伊藤大輔は、ごく平凡なIT企業の中間管理職だ。
僕らが彼をターゲットに選んだ理由は単純だった。
毎日同じ時間に同じ店に来て、必ず同じものを注文する習慣性があったからだ。
そして、彼が大量の紅生姜をかける習慣も完璧だった。
「効果が出るまで最低でも72時間はかかるはずだ」と美咲は以前説明していた。
「最初は軽い胃腸炎の症状から始まる。それが徐々に悪化していく」
僕は窓の外の暗闇を見つめながら、自分たちのやっていることの意味を考えていた。
ポイズファクトリーが設立されたのは去年の夏だった。
よしひこが「社会への復讐」を提案したとき、僕たちは皆、自分なりの理由で賛同した。
僕の場合は単純だった。
就職活動で百社以上落ち続け、最終的に親の紹介でようやく小さな会社に入れてもらったが、そこでのパワハラに耐えられず退職。社会に対する恨みが日に日に大きくなっていった。
よしひこは元大学院生で、研究を盗まれた挙句、大学からも追い出された。
美咲は製薬会社でセクハラを受け続け、結局泣き寝入りする形で退職した。
そして最後のメンバー、タクミはかつて有望なミュージシャンだったが、大手事務所との契約トラブルで全てを失った。
僕たちは全員、社会に裏切られた経験を持っていた。
その夜、僕たちは共有リビングに集まった。いつもの飲み会よりも雰囲気が重かった。
「今日から本当に始まったんだな」とタクミがビールを一気に飲み干した。
「後戻りはできない」とよしひこが呟いた。
美咲は黙ったまま窓の外を見ていた。
「次のターゲットは?」と僕は尋ねた。
「コンビニの店長」とよしひこが答えた。「リーマンB。タクミが観察を続けてる」
僕たちはそれぞれ自分の担当するターゲットを持っていた。
僕はリーマンD、よしひこはOL A、タクミはリーマンB、美咲は主婦Cだ。
「最初の症状が出るのはいつ頃だ?」と僕は美咲に尋ねた。
「明日の夕方か明後日の朝には、軽い腹痛や吐き気を感じるはずよ」
その言葉を聞いて、僕は急に現実感を覚えた。
これまでは全て理論上の話だった。
計画や準備、観察。でも今日、初めて実行に移した。
本当に人を殺そうとしている。
部屋に戻った僕は、スマホでニュースをチェックした。
何の変哲もない日常のニュースばかり。
まだ何も起きていない世界。
でも数日後には、この平穏は崩れ去るだろう。
枕に頭を預けながら、僕は考えた。
自分が線を越えてしまった事を。
でも不思議と後悔はなかった。ただ、これから起きることへの恐れと、どこか高揚感が入り混じった感情だけがあった。
2月4日木曜日 7時
朝起きると、すでにLINEグループには新しいメッセージが溢れていた。
タクミがリーマンDの自宅マンションの前で一晩中見張りを続けていた。
「変化なし。普通に出勤した」というメッセージとともに、
スーツ姿で玄関を出る伊藤大輔の後ろ姿の写真が添付されていた。
僕は深いため息をついた。効果が出るにはまだ早いのかもしれない。それとも...失敗したのだろうか?
いつもの牛丼屋に向かう途中、僕は考えた。もし彼が毒に耐性があったらどうなるのか。もし彼が病院に行って毒物が検出されたらどうなるのか。そして、もし彼が死んだら...僕たちはどうなるのか。
店内に入ると、カウンター席にはいつものサラリーマンたちが並んでいた。僕はいつもの席に座り、牛丼並を注文した。紅生姜の瓶を見つめながら、昨日のことを思い出した。
そのとき、店のドアが開き、見覚えのある背格好の男が入ってきた。
リーマンDだった。彼は普通に歩き、普通に席に座り、普通に注文した。「牛丼大盛り」という彼の声には、いつもと変わらない元気があった。
僕は冷や汗を感じた。目の前で、自分が毒を盛った相手が平然と食事をしている。しかも、また紅生姜をたっぷりとかけていた。
僕は慌てて食事を終え、店を出た。すぐにLINEグループに報告した。
「リーマンDに変化なし。通常通り牛丼を食べていた」
美咲からすぐに返信が来た。「予想内。効果は徐々に現れる。焦らないで」
その日の仕事中、僕は落ち着かなかった。
パソコンの画面を見つめながらも、頭の中は伊藤大輔のことでいっぱいだった。彼は今、どうしているのだろう。普通に仕事をしているのか。それとも、すでに何か違和感を感じ始めているのか。
僕の中で、恐怖と期待が入り混じっていた。