あなたの特別な私
よろしくお願いいたします。
「今、何と仰いました?」
明香は思わず顔を顰めた。自分の耳がおかしくなったのかと疑いながら。
「水嶋明香嬢、私と結婚しませんか?」
明香の耳に届いたのは、先ほどと一言一句変わらぬ言葉だった。おかしくなったのは、目の前に立つ男の頭のようだ。だって、この男が自分に求婚するなどあり得ないのだから。
「寝言は寝て仰ってください。それとも、緊張で昨夜眠れなくて、今寝ていらっしゃるのかしら?」
男は先ほど終わった卒業式で、卒業生代表として挨拶したばかりだった。つまり、彼は首席で卒業したということだ。信じ難いことだが。
「心配していただいて嬉しいですが、昨晩はぐっすり眠れました」
「そうだろうと思いましたわ。あなたは心臓に毛が生えていそうですもの」
「珍しくお褒めいただき光栄です」
「今のは褒め言葉ではありません」
「そうでしたか」
交わす会話は今までと大して変わらない。違うのは、男が心底楽しそうに笑っていることだ。だから明香も調子が狂う。
「もう失礼してもよろしいでしょうか?」
「返事をいただきたいのですが、考える時間はどのくらい必要ですか?」
この男は本気なのか。自分を揶揄っているだけではないのだろうか。明香には判断がつきかねたが、すぐに考えることを放棄した。どちらにしても、明香の応えは同じだ。
「時間などいりません。私があなたと結婚するはずがないではありませんか」
明香はきっぱりと告げた。
「まあ、予想どおりですが、私も1度振られたくらいで諦めるつもりはありませんので」
そう言って彼、藤森友哉は不敵に笑った。
明香が友哉と初めて会ったのは2年前、明香が学園に入学した直後のこと。食堂でたまたま会った葉山公爵家の夏樹の隣に彼がいた。
「ずいぶん綺麗な令嬢とお知り合いなんだな」
そう言って、友哉はわざとらしく目を見開いた。
明香を「綺麗」だと言う人間はたくさんいるし、それが決してお世辞などではないことを明香は自覚していた。
だが友哉に限ってはどことなく胡散臭くて、明香はその言葉を素直に受け取ることができなかった。
なぜ夏樹がこんな人と親しくしているのか、明香には納得できなかった。
葉山公爵家と水嶋侯爵家は屋敷が近所のため、代々付き合いがあった。だから明香は、夏樹は口数が少なくて、誰とでも仲良くなれる性格ではないと幼い頃から知っている。
友哉はよく喋り、よく笑う人間だった。そのうえ成績が良く、顔も整っているので女子生徒に人気がある。だが、保守意識の強い一部の貴族子息からは疎まれていた。
友哉は貴族ではなく平民の息子だった。もちろん、学園の学費は高額なので、ここに通える生徒の親は平民でもかなり裕福ということになる。実際、友哉の父は大商会を営んでおり、国内では有名な富豪のひとりだ。
明香自身は別に友哉が平民だからどうと言うつもりはなかった。もしかしたら、彼の愛想の良さはその家業ゆえなのかもしれないが。
明香が面白くないのは、夏樹が友哉に心を開いているように見えることだ。
夏樹は明香に対して、おそらく家族以外の異性としては最も気安く接している。だが、明香と夏樹は幼馴染なのだ。たかだか1年の付き合いしかないのに夏樹に信頼されている友哉の存在が腹立たしかった。
明香の屈託に気づいたのか、友哉の明香に対する態度は他の女子生徒たちへのものと明らかに違っていた。
決して無視をされたり、邪険に扱われるわけではない。顔を合わせれば必ず向こうから挨拶してくるし、その顔には笑みが浮かぶ。何とも嘘っぽい笑みだが。
「水嶋明香嬢、今日も機嫌が悪そうですね。綺麗なお顔が台無しですよ」
友哉はまさに慇懃無礼だった。そもそも、学園の生徒同士で「水嶋侯爵令嬢」「水嶋明香嬢」なんて仰々しく呼び合ったりしない。
「あなたにお会いしたからですわ、藤森友哉さま」
明香は不快だという気持ちを隠さず顔と言葉に出す。
自分のこういうところが家族から淑女らしくないと言われるのだと理解している。だから普段はできるだけ微笑の裏に感情を隠す。それが、友哉の前だとつい出てしまう。
いや、きっと明香の本性をやはり分かっている夏樹が隣にいるからに違いない。そういうことにしておいた。
そうやって、会うたびに剣突し合う関係のまま1年。
学園に友哉の妹美羽が入学してきた。ふんわりとした雰囲気の可愛いらしい妹を、友哉はかなり大切にしているらしかった。
だがやがて、美羽と夏樹のことが学園内で噂になった。
実際に明香がふたりが一緒にいる姿を遠目で見てみると、確かに特別な空気が感じられた。
実は、父親同士の間で明香と夏樹には婚約の話が出ていた。そして明香にとって夏樹は初恋の相手だった。だからこそ、夏樹が明香をそういう対象として見ていないことは気づいていた。
明香の知る限り、美羽は夏樹が初めて興味を持った令嬢だった。
明香は美羽に会いに行ってみた。友哉と似た嫌味な性格なら、早いうちに潰しておこうと。
しかし、美羽は明香の想像とは少し違っていた。美羽は「声をかけていただいて光栄」、「こんなに綺麗な方はいない」などと大袈裟な言葉を口にした。
同じことを兄に言われても素直に受け取れないのに、妹ならすんなりと信じられた。美羽の顔には明香への好意がはっきりと表れていたから。
結局、明香は美羽と夏樹のことを応援することにした。葉山公爵が嫡男と平民の娘の仲を簡単に認めるとは思えないが、夏樹には美羽の存在が貴重なのは間違いなかった。
美羽と仲良くなったことで、友哉と関わる機会が増えてしまったことは明香の誤算だった。
「いいか、美羽。水嶋侯爵令嬢がこの学園で最も美しいことは、俺も認めよう。だが、あの口の悪さを真似しては駄目だぞ」
「兄さま、明香さまにそんな失礼なことを仰るのはやめてください」
「事実だから仕方ない」
美羽に向けられる友哉の笑みもまた、他の女子生徒たちへのものとは違った。明香へのものとは真逆の方向で。
女子生徒に人気がありながら友哉に特別な相手はいないようだったが、明香にはその理由が何となく分かってきた。
ちなみに明香には兄がふたりと弟がひとりいるが、誰も明香にあんな風に甘く笑いかけたりしない。明香はそのことにむしろ安堵した。
「私が誘ったのは美羽だけです。なぜあなたまでいらっしゃるのでしょう、藤森友哉さま?」
放課後の学食は学生たちに交流の場として解放され、紅茶なども提供される。この日、明香は美羽とここで会う約束をしていたが、明香が来てみると美羽のほかに友哉と夏樹まで揃っていた。
「私と美羽は同じ馬車で帰りますので、どうせ待つなら私もたまには夏樹とお茶でも飲もうかと」
「だったら、あちらの席も空いてましてよ」
「どうぞお気になさらず」
仕方なく4人で会話を交わすうちに、友哉と夏樹の卒業後の話題になった。
公爵家の嫡男である夏樹が、父への反抗心もあって宮廷には入らず騎士になるつもりだということは以前から聞いていた。だが、家族仲の良さそうな友哉も同じく騎士学校に進むらしい。子供の頃からの夢なのだと。
どうやら友哉の父は、自分の跡を継ぐのは次男か娘婿でも構わないと考えているようだ。富豪というのはずいぶんと柔軟な頭の持ち主だ。
学園を卒業して騎士学校に入れば、将来的に騎士団で出世する可能性は高い。だが、友哉も夏樹も素直に父を追うほうが楽だろう。
それに騎士学校は2年制だが、卒業して騎士団に正式に採用されれば最初の1年は地方勤務になる。明香はその間待たされることになるであろう美羽に同情した。
そう、この時はまだ、明香にとってそれは他人事だったのだ。
学園を卒業し、訓練の厳しい騎士学校に入ったというのに、友哉はたびたび明香の前に現れた。
「何かご用でしょうか?」
「明香嬢の顔を見たくて」
友哉の顔には甘い笑みが浮かんだ。だが、友哉にそれを向けられることが、明香は落ち着かない。以前の胡散臭い笑顔のほうが良かったとさえ思う。
明香は思い切り眉間に力を入れてから口を開いた。
「私のこと、口が悪いとか何とか散々仰っていたくせに、今さらそんなこと信じられませんわ」
「口が悪いことは否定できないのでは?」
「そうですわね。でしたら、あなたもせっかくの休日に私に会いに来るなんて酔狂なことはおやめくださいませ」
「私は口の悪さも明香嬢の魅力だと思っていますよ」
「は?」
「まあ、美羽に真似てほしくはありませんが」
「……そろそろ帰っていただけますか?」
「では、私と結婚していただけますか?」
「いたしません」
週に一度は明香を訪う男の存在もその目的も、家族にはすぐに知られた。兄弟たちには当然、揶揄われた。
最初は一介の騎士見習いが娘に言い寄ることに渋い顔をしていた父も、友哉が藤森商会の経営者の長男だと知ると、途端に態度を軟化させた。
友哉は美羽や夏樹たちには何も話していないようだった。もちろん、明香から言うつもりはない。
美羽と夏樹のほうはまどろっこしいほどにのんびりと近づき、何とか婚約まで漕ぎ着けたのは、明香が初めて友哉に求婚されてから1年半も経ってからだった。
その間に友哉から何度求婚されたのか、明香にはもはや分からなかったが、友哉のほうだって同じだろう。
友哉と夏樹は無事に騎士学校を卒業し、それぞれ騎士団の地方勤務に就くことになった。
赴任地へと出立する前日も友哉は明香に会いに来た。
「明香嬢、私と結婚しませんか?」
「いたしません」
「あなたは予想以上に手強い方ですね」
そう言いながら、やはり友哉は楽しそうに笑った。2年も求婚を躱し続けた相手を前にして。
「……どうぞお体に気をつけて」
「ありがとうございます。あなたもお元気で待っていてくださいね」
「待ちません」
きっぱり答えて明香は顔を顰めた。
ふいに友哉が手を伸ばしてきたので明香は身を固くしたが、友哉の手は明香の頬に触れる直前で止まり、退がっていった。
「ではまた」
頷くような礼だけして、友哉は去っていった。触れられていないはずなのに、明香の頬はしばらく熱かった。
友哉の顔を見ずに済んで清々するのか、それとも少しくらい寂しいのか、それを見極める時間は明香に与えられなかった。
友哉から手紙が届いた。赴任地への道中で書かれたもののようだった。
『やはり躊躇わずにあなたに触れ、強引にでも掻き抱いてしまえば良かったと後悔しています』
何てことを書いてくるのかと驚き、便箋を破りそうになったが、さすがに思い留まった。
それを皮切りに、手紙は3日と開けずにやって来た。
『湖に煌めく陽光を見ていると、あなたの美しい声に名を呼ばれた時のことを思い出します』
『満月よりも少しだけ欠けた月があなたの瞳のようだと気づき、しばらく眺めておりました』
毎回、平常心のまま手紙を読み進められず、体力を消耗させられた。何故、手紙を読むだけなのにこんなに疲労するのか。
好きだ、愛してる、結婚してくれ。そんな言葉を直截的に書いてくれたほうがまだ良かった。もしかしたら今までの2年は長い前振りで、これは手の込んだ嫌がらせなのだろうかとも考えた。
明香から返事は書かなかった。というか、どんな返事を書けばいいのか分からなかった。
それでも友哉からの手紙は途切れないので、とうとう筆をとった。
『おかしな内容の手紙を送るのはやめてください』
友哉からの反応は早かった。
『真剣な恋文をおかしいだなんて酷いですね。でも、あなたが読んでくださっているとわかり歓喜しています』
確かに、読まずに捨てればいいのだとは明香も思う。思うのだが、友哉からの手紙を手にすると、つい開けて読んでしまうのだ。今度はどんな恥ずかしい文章を思いついたのだろうか、と。
しかし、手紙はやはり嫌がらせではなかったらしい。明香も時々は返事を書くようになった。
『今こちらでは色とりどりの花が咲いていますが、あなたほど私の心を満たしてくれる花は見つかりません』
『もしや花とは女性の比喩でしょうか。そちらでもあなたはずいぶん人気なのですね』
『まさかあなたにやきもちを焼いていただけるとは思いませんでした。でも私が書いたのは比喩ではなく本物の花のことですからご安心を』
『やきもちなど焼いたことはありません』
ある時、屋敷を訪れた美羽に机の上に置いていた友哉からの手紙を見られてしまった。すぐに隠したので美羽の目に入ったのは宛名書きだけのはずだが、明香の慌てぶりは不自然だっただろう。
「申し訳ありません。見るつもりはなかったのですが」
「いえ、出したままにしていた私が悪いのだから、気にしないで」
「その、兄から先日届いた手紙と同じ封筒だったもので。それに、字も……」
明香は小さく嘆息した。
「ええ。あなたのお兄さまからよ」
美羽が目を瞠った。学園で剣突していた頃しか知らないのだから、当然だろう。
「明香さまと兄は、そういうご関係なんですか? いつから?」
明香は美羽に包み隠さず話した。初めて求婚された時のことから、手紙をやり取りする現況までを。さすがに手紙の中身までは言えないが。
明香の語りが終わると、美羽は納得したというように頷いた。
「そういうことだったのですか。ようやく分かりました」
「何が?」
「兄の明香さまへのあの態度です。兄にとって明香さまは特別だったんですね」
美羽はクスクス笑う。
「特別は美羽のほうでしょう」
「私は妹ですから。私たち、兄妹で好みが似てるんです」
それは、美羽自身が兄の友人に惹かれたことも含んでの言葉なのだろう。
「そのようね」
あの夏樹が、友哉のように筆まめだとは思えない。きっとこの可愛い婚約者に寂しい思いをさせているのだろう。
あんな甘ったるい手紙を繰り返し読ませられるくらい我慢すべきなのかと明香は考え、だがすぐに、自分と友哉の間には何の関係もないと気づいて腹立たしくなった。
『山は紅葉ですっかり色づいています。あなたの着物にしたら似合いそうな色です』
『今朝起きたら外は一面の銀世界でした。この美しい景色をあなたにも見せてあげたいです。もちろんあなたのことは私が暖めて、決して寒い思いなどはさせません』
『あなたは騎士よりも小説家になれば宜しいのではなくて』
『ただあなたへの正直な想いを書いているだけの私に、創作などできるはずもありませんよ』
1年が過ぎた。
こんな恥ずかしい手紙を送り続けて、いったいどんな顔で帰ってくるのだろう。明香はそんなことを考えていた。
『こちらでの勤務が延びることになりました』
そう書かれた手紙はやけに素っ気なくて、明香は初めて途中で中断することなく読み終えた。
地方勤務の延長はごくたまにだがあるらしい。仕方ないことだ。
だが、明香の心は重くなった。どうやら自分は友哉に会える日をずいぶん楽しみにしていたようだ。口惜しいが。
それでも明香が塞ぎこんでいられなかったのは、友哉から相変わらず読むだけで疲弊する手紙が届いたからだった。
そうしてさらに4か月後。珍しく友哉から手紙が届かないと思っていたら、突然本人が明香を訪った。
「ただいま戻りました」
友哉はちっとも変わっていなかった。見た目は逞しくなったが、明香に向ける眼差しは初めて求婚した日のままだ。
おかげで明香のほうが表情に困った。
「お帰り、なさいませ」
「こんな格好ですみません。早く明香嬢の顔を見たくて」
友哉はまだ旅装姿だった。
「構いませんが、美羽にはまだ会ってないのですか?」
「もちろんあなたが優先です。私の気持ちは美羽にも知られたようですし、先に美羽のところに行ったら叱られます」
「そうですか」
「それに、できれば美羽には私の帰還だけでなく、もうひとつくらい良い報告をしたいな、と」
「良い報告?」
「明香嬢がおまえの義姉になるぞ、とか」
さらりとそう口にする友哉に、明香は思わず顔を顰めた。
「私を土産物扱いですか?」
友哉は「いいえ、まさか」と首を振ってから、今までになく真摯な顔をした。
「水嶋明香嬢、私と結婚しませんか?」
「……言っておきますが、美羽のためではありません。あなたのためですから」
明香はそう言ってからひとつ息を吐き、再び口を開いた。
「お受けいたします」
「へ?」
友哉が目を見開き、それからみるみるうちに顔を赤く染めた。それを隠すように右手で口を覆う。
「な、何ですか、その反応は?」
おそらく自分の顔も赤いのだろうと明香は思った。
「いや、こんなに嬉しいとは思いませんでした」
目を合わせるのも照れ臭くて、しばらく互いに視線を彷徨わせていたが、やがて友哉がゆっくりと手を伸ばし、明香の頬に触れた。
「あなたに会えなくて寂しかった」
「私はまったく寂しくなんかありませんでしたわ」
友哉の眉が下がった。
「つれないですね」
明香は友哉をキッと睨んだ。
「あなたが3日と置かずにあんな手紙を送ってくるせいで、あなたのことを忘れる暇もなく、ずっとそばにいるような気がしてしまったのですわ」
友哉は何度か目を瞬いてから嬉しそうに笑うと、明香を抱き寄せ、その耳元で囁くように告げた。
「これからはずっとそばにいて、直接伝えます。愛しています、明香」
直截的な言葉もやはり恥ずかしいと明香は強く思ったが、もう友哉に抗う気力は湧かなかった。
お読みいただきありがとうございます。