後篇
*
細い用水路を挟んですぐに斜面。子どもの頃の遊び場。十数年ぶりでも、道は体が覚えている。
すぐに道のようなものに行き当たり、わたしは頂上に向かってひたすら歩いた。既に陽は沈みかけている。気温も下がってきている。一歩間違えれば帰れないかもしれないけれど、どうでもよかった。
人間はひとりで産まれるのに、どうしてひとりで生きていくことを是としてくれないのだろうか。
誰かと生きていくことは社会が望んだのか、自分自身が望んでいるのか。
どうせ、最期はひとりだというのに。
考えながら歩いていると、突然、世界は黄金で溢れた。
「ちょっと待って、こんなだったっけ」
日没の光景に思わず感嘆が漏れた。
眼下に広がる集落は光に沈められたダムのよう。
眩しくて目を細めても瞼越しに光が体に入ってくる。
やがて、子どもの頃の記憶では遙かに遠いと感じていた山頂へ、20分もしないうちに着いてしまった事実に拍子抜けして、座りこむ。
なんて呆気ない結末なんだろう。そして、もしかしたら遭難して死ねるかもしれないと思っていた自分に、同時に気づく。
「……ははは」
生きることも死ぬこともできないのか、わたしは。
「お姉さん、見かけないけど、村のひと?」
不意に横から幼い子どもの声がした。
驚いて顔を向けると、小学生くらいの細い男の子が立っていた。
「えっ、あっ、そうだけど」
「初めて見た」
「普段は都会で働いてるから。明日、戻るし。君は?」
「僕は先月引っ越してきた。この村、何もなくてつまらないね。じゃあ」
引き止める間もなく少年はわたしとは別の道を通って去って行った。
「かみかく、し……?」
*
「それは大塚さんのところの孫じゃないのか」
ちゃぶ台にはわたしの子どもの頃の好物がずらりと並んでいる。鶏もも肉のからあげ、ツナマヨで和えたマカロニサラダ、甘辛いれんこんのきんぴら。お味噌汁にはたっぷりの油揚げとねぎ。お茶碗には艶々に煌めく炊きたてご飯。
どれも優しい味で、自炊を殆どしないわたしにとっては、涙が出そうなくらい美味しい。
裏山に登ったと両親に話したところ、父は缶ビール片手に饒舌に語り出した。
「大塚さんところの娘さんもあずさと同じで、都会で結婚したんだが。消防士の旦那さんが不倫して協議離婚したそうで、長男坊を連れて戻ってきたらしい」
「警察官って聞きましたけど」
田舎特有の、噂でしか構成されていない発言だ。
だけど。
不倫、という単語に、心がざわついた。
平静を装って白米を口に運ぶけれど、味は感じられない。
「そんなことはどうでもいい。とにかくここらに子どもがいないから小中学校は街まで降りるだろう? あずさのときはスクールバスが走っていたけれど、今のこの集落に子どもはいないから、大塚さんが毎日軽トラで送り迎えをしていたそうだ。だけど、なじめなかったんだろうな。1週間で学校に行かなくなったんだってな」
「小学生?」
「いや、たしか中学2年生だった筈」
しかし、この村で育った子どもではないから、どこか垢抜けたというか違和感があったのだろう。
熱い湯槽に浸かりながら、わたしは今日見たものについて考える。
明日帰る前にあの少年にもう一度会えるだろうか。
父に駅まで送ってもらえるならバスの発車時刻を気にしなくてもいいし、昼過ぎまでここにいてみよう。駅までなら、小言にも耐える。
*
「あ、やっぱり会えた。君、毎日ここに通ってるの?」
裏山の頂に座っていたら、リュックを背負った少年が現れた。
「昨日のお姉さんじゃん」
「どうも」
軽く手を挙げて挨拶してみせる。
「学校に行かないで、毎日ここに来てるんだ?」
「そう。勉強はどこでもできるから。というかあんな小さな学校のコミュニティに属するのが、僕にとって不快なんだ。みんな、猿みたいで」
「ひどい言いよう」
「だってお姉さんと二度と会うこともないだろうし取り繕った発言をする必要がない」
「まぁ、そうだね。じゃあさ、二度と会わないお姉さんの愚痴、聞いてくれる?」
少年は怪訝そうな表情になる。
「お姉さんは、自分の両親があまり好きではないんだけど、悲しいことがあって結局実家に戻ってきてしまった。1泊2日とはいえ。そして結局、父親の発言に、勝手に傷ついている。なんて自分勝手なんだろうと思いながら、親不孝者だと思いながら、また都会に戻る」
ふぅ、とわたしは溜息を吐き出して、地面に視線を落とした。
大人から出てくるのが本当の愚痴だとは思わなかったのだろう。少年が困惑しているのが、空気で分かった。
「ぼ、僕も、親のことは、嫌いだ」
「……そうなの?」
「勝手に産んでおいて、収拾がつかなくなったら放り出すんだ。なんて勝手な生き物なんだろうと思っている」
少年はひとつひとつ、丁寧に言葉を選んでいるようだった。
取り繕う必要のない、もう二度と会わない大人の為に。
「でも、そう思う僕も勝手な人間だと思ってるから、人間ってきっと自分勝手な生き物なんだよ。それが他人にうまくはまって感謝されるか、嫌われて離れるのかは、偶然にすぎないんだ」
10歳以上離れているだろう少年の言葉が、身に染みた。
彼にとってわたしは嫌われて憎まれるべき対象であるだろう。もしもわたしがあのひとに選ばれていたら、あのひとの子どもたちは、少年と同じ道を辿っていただろうから。勿論、それはありえない選択肢であるけれど。傲慢な未来であるけれども。
そんなパラレルワールドの彼に、わたしは静かに、深く、懺悔をする。
「ありがとうね。お姉さんの愚痴を聞いてくれて」
「べ、別に」
わたしは嫌がられるかなと思いながら少年の頭を撫でた。
彼は照れながら俯く。言葉は達者だけれども態度は年相応に感じた。
「さて、わたしは都会に戻るけれど、君も幸せになるんだぞ」
「随分と勝手な発言。幸せって、なんなんだ」
「なんだろうね」
わたしは立ちあがってジャージについた土や落ち葉、埃を払う。
「あんた、人間に見せかけて、神さまだったりして」
ぷっ。その言葉があまりにも現実から離れていて、思わず噴き出してしまう。
「だとしたら?」
だとしたら、わたしの方こそ、君が人外の存在かと一瞬疑ってしまったというのに。
「神さまに出逢えた僕はきっと幸せになれる」
あまりにも確信的な表情だったので、わたしは顔を綻ばせずにはいられなかった。
「そうしたら、きっと、それは正しいよ」
だけど、それは、嘘だ。
神さまなんてものは存在しない。
もし存在したとしても、わたしたちは、神さまが見つけてくれる場所には生きていない。
だって神さまが見てくれていたら、わたしは、──
*
「胃腸風邪はよくなったんですか?」
月曜からの溜まった伝票を無心に仕訳していたら、頭上から声が降ってきた。わたしは立ちあがって頭を下げる。
「はい。おかげさまで。突然休んですみませんでした」
「仕事はチームでするものだから、気にする必要はないですよ。また少しでも体調がおかしくなるようなら、今日は早退していいですからね」
「ありがとうございます。係長」
スーツ姿の男性が微笑む。目尻に皺ができる。
自席に戻る背中を見つめながら、大丈夫とわたしは心のなかで自分に言い聞かせた。
もう二度と彼がわたしの部屋を訪ねてくることはないし、彼がわたしを名前で呼ぶことはない。
時々はどこにあるか分からない心だって痛むにちがいない。
だけど、それでいい。
そうやって日々は過ぎていく。
わたしは大丈夫。
神さまが、いなくても。
了