前篇
*
冷蔵庫を開けたら空っぽだった、という描写で、主人公の内面世界を描いたマンガを読んだことがある。
とても分かりやすくて共感できると思ったのは過去のわたし。そして今のわたしは、冷蔵庫のなかにある大量のビターチョコレートと、自分では決して飲まない辛口の生ビール3缶に、大いに溜息を吐きかけるのだった。
冷蔵庫はずるい。
開けたときにだけ明るくなればいいんだから。
だけどしがない会社員であるところのわたしは、いついかなるときでも、どんな理不尽なことが起きたり言われようとも、常に最良の笑顔を保ち続けなければいけない。
銀紙でまともに包み直していない食べかけのビターチョコレートを無理やり噛み砕いて、飲みこんだ。2日間何も口にしていなかった所為か、ひどく苦しい作業だった。
築15年の1DKには前の住人が残していった当時最新のエアコンがついている。除湿機能のスイッチを入れると一瞬異音がしてから冷たい風が流れてきた。何年か前に奮発して買ったジェラートピケのルームウェアのまま、わたしはフローリングに仰向けになる。目を瞑ると、似合ってるね、という柔らかな幻聴が聴こえた。
くだらない。
全部、くだらない、取るに足らないことばかりの積み重ねだ。
だけどすべて、何ひとつとして、欠けてほしくはなかったことばかり。
「……帰ろうかな」
日曜日の夜だった。
わたしは、数年ぶりに、遠く離れた実家へ帰ることを思いついた。
*
25歳を過ぎたくらいからだろうか。実家に帰る度に、結婚とか、出産とか、周りはどうだとか親戚はどうだとか耳にたこができるくらい聞かされて、自分の実家のくせに帰りづらいとか会いたくないと思うようになって、この前27歳の誕生日を迎えてしまった。
田舎は世間様の視線を気にする。
子どもの頃には気づかないことだった。性別に関係なく、海や山で自由に遊んでいた頃には、まさかそんな不自由が隠れているなんて思いもしなかった。
各駅にしか停まらない私鉄の駅を降りて、バスの最終発車時刻は午後3時。大荷物を抱えたわたししか乗客はいない。
帰省の時期とはかけ離れているし1泊2日くらいなら小言にも耐えられるだろうと思っての突発的行動だ。同級生はおろか両親にも報せていない。
とにかく今のわたしを知る人間が誰もいないところに行きたかったのだ。
40分ほど未舗装の道路を走るバスに揺られて、町内では最大の集落の入り口で降りた。
空は、晴れている。雲ひとつない。
わたしが帰ってきたことが誰かに伝わればあっという間に広まってしまうだろうから、最新の注意を払って、周りに誰もいないことを確認して、わたしはおそらくほとんどの人間が想像するだろう『田舎の一軒家』に辿り着いた。インターホンもなければ玄関に鍵もかかっていない。
引き戸を開けると、土と歴史の混じった匂いが鼻をついた。
ただいまも言わずに靴を脱いで居間へ向かうと、母が背中を丸めて、ちゃぶ台の上に積まれた新聞広告のつるつるとした紙で簡易ごみ箱を折っていた。
母が気配に気づいてゆっくりと振り返る。
その瞳が大きく見開かれて、唇がゆっくりと開いた。
「あずさ?」
「1泊だけしに来た」
「びっくりした。連絡してくれたらお父さんが駅まで迎えに行ったのに。あんたの好きなよもぎ餅あるよ、食べる?」
「うん。お茶もほしい」
わたしは荷物を畳の上に置いて、座り、母の真似をして広告を折る。
のろのろと立ちあがった母は台所へと向かう。しばらく会っていない内に、皺が深くなり、背中は丸くなり、白髪も増えたように見えた。
「お父さんは?」
台所へ声を投げる。
「畑。あんた、自炊するなら、野菜持ってく?」
「考えとく」
自炊はしないので持ち帰っても腐らせてしまうだろう。だけど無碍に断ることもできなかった。
広告に手を伸ばす。母親のようにきれいに折るのは難しい。
「まさか、あんたが帰ってくるとはねぇ」
「びっくりさせてごめん。明日には帰るから」
「仕事、忙しいのかい」
「そうだね。今日明日も無理やり有休出してきた」
ちゃぶ台の上にたくあんを見つけてぽりぽりと囓る。しょっぱい、田舎の味だ。
母がお盆にふたり分のよもぎ餅と緑茶を載せて戻ってくる。
「病気や怪我はしていないかい」
「おかげさまで健康にやってます。お母さんは、歳取ったね」
「そりゃ、もう60近くなればね。足腰も弱くなるし」
ふぅ、と母はお茶を飲みながら息を吐く。
外から大きな物音が響いてきた。父が帰ってきたのだろう。
「母さん!」
正解だ。ただいまの代わりに玄関から母を呼んでいる。よっこらしょ、と母親は立ちあがった。
「はいはい。今行きますよ。あずさもいますよ」
「なに? あずさが?」
玄関にわたしの靴があっても気づかない大雑把さは健在だ。ずかずかと父は居間に入ってくるや、わたしの顔を見て破顔した。
「どうした! 仕事を辞めて戻ってくる気になったのか!」
「そんな訳ないじゃない。はい、お茶」
「お前には聞いてない。だいたい、都会になんて女性の幸せは存在しないんだ。生まれ育った場所で結婚して子どもを育てることが、女性の一番の人生なんだぞ」
「はいはいはいはい」
母に任せてわたしは立ちあがる。
これ以上居間にいても空気が悪くなるだけだ。父を見ないようにして言い捨てた。
「晩ご飯まで寝る」
*
わたしの部屋は高校卒業と同時に出て行ったときのままだ。おそらく、埃を被らないように母が定期的に掃除してくれているのだろう。高校生の頃大好きだったアイドルグループのポスターも、まだベッド上の天井に貼ってある。端が少し劣化しているけれど笑顔は変わらない。今でこそ情熱も落ち着いてきたけれど、嫌いになったのではない。
そうだ。
子どもの頃は、あんなにたくさん、『好き』も『嫌い』もあったんだ。
いつからか自分のなかにある熱量が減っていった。もしくは、日常にすり減らされていった。どちらが先だったのかは、分からない。
そんななかで、ひとを好きになるということだけが、わたしにとって明るいものだったのだ。
「くだらな……くなんか、なかったのに」
ぽたり。畳の上に、雫が落ちた。涙だと自覚した途端、次から次へと溢れてくる。体のどこに心があるのかは知らないけれど、心臓の辺りがぎゅっと掴まれたように痛くて苦しい。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああ」
好きだった。
あのひとのことが。
笑うと目尻にできる微かな皺も、いつでも温かな大きい掌も。仕事に注ぐ情熱と真面目さも、他者の失敗を許容する懐の広さも。辛口のビールが大好きで、生クリームが苦手で、感動系のドキュメンタリーに弱いところも。酔って気分がよくなるとつい口ずさんでしまう歌声も。
大好きだった。既婚者だと知っていても、子どもがいるのを解っていても、どうしようもできなかった。悪いのはすべてわたしだった。100人に尋ねたら、100人がわたしの味方をしないだろう。それでも諦めきれなくて、見苦しくて、最低な振る舞いをしてしまった。
ひとしきり泣いた後、わたしは嗚咽を漏らしながら、箪笥を開けてよろよろと高校時代のジャージに着替えた。
手の甲で目を拭うと、涙の所為でマスカラが落ちていた。
髪の毛はゴムでまとめて、こっそりと台所にある勝手口から裏手にある山へと出る。
荷物は何も持っていない。スマートフォンすら。