レトルトカレーの時間
「食べちゃダメ」
そう言われると、食べたくなるから人の心は不思議だ。
聡一は恋人である梨々子の部屋の、保存食用の棚を開き、一人悩んでいる最中だった。
この部屋の主である梨々子は、今日はバイトで留守だ。帰宅は店が終わる10時すぎ。炊飯器の中のゴハンは炊きたてで、聡一の腹はぐうぐうと鳴っている。棚の中には3つのレトルトカレーが入っており、その中の2つは『カレーの月曜日』、そしてもう1つはコンビニ売りの新発売、『有名店のウマイカレー』だ。
梨々子はこの、『有名店のウマイカレー』を楽しみにとっていた。
何しろ発売されるとすぐに売り切れるシリーズだ。そのうえたった一つしか手に入れることが出来なかった。梨々子は売れ残った最後の1箱をゲットしたのだ。
「絶対に食べちゃダメだよ。これは私が食べるんだからね」
梨々子は聡一に、何度も釘をさした。
だが……。
今、梨々子はこの場所にいない。
そして聡一の今日の気分は『カレーの月曜日』ではなかった。
どうしよう? 『カレーの月曜日』を選ぶべきか、それとも『有名店のウマイカレー』をとるべきか?
聡一の心は揺れた。
そして最後には、己の心に負けてしまった。
聡一の手は、『有名店のウマイカレー』をつかんだ。そして封を切る。もう後には引けなくなった。
「ごめん、梨々子」
そうつぶやいて、聡一は鍋の中の熱湯にレトルトカレーの袋を投げ入れる。湯立つ鍋の中で、レトルトカレは徐々に温まっていく。
そして30分後。
聡一に後悔が押し寄せたのは、食べ終わった後のことだ。
どうしよう?
梨々子がせっかく楽しみにしていたカレーを……あろうことか食べてしまった!
聡一は悩んだ。
その時、床に転がっていた『有名店のウマイカレー』の箱が目にとまる。
そしてひらめいた。
そうだ、中身を入れ替えよう。確かまだ棚の中には『カレーの月曜日』があったはず。
聡一は保存食用の棚の前に行き、『カレーの月曜日』の箱を開けた。そしてその中身を、『有名店のウマイカレー』の箱の中に押し込んだ。
これでよし、と。
聡一は『有名店のウマイカレー』の箱を糊付けし、そしてまた保存食用の棚の中にしまった。
空箱となった『カレーの月曜日』をゴミ箱に捨てると、聡一は独り言をつぶやいた。
「ゴメンな、梨々子。許してくれ」
そして聡一は、自分の行いをきれいさっぱり忘れてしまった。再び保存食用の棚が開かれるその日まで……。
程なくしてその日はやって来た。
梨々子と聡一はとある日曜日、同じ電気量販店のバイトを終わらせて、一緒に帰ってきたのだった。梨々子は言った。
「ああ、今日は疲れたな。聡一、今日はレトルトカレーで済ませてもいいかな?」
聡一は軽く、
「ああ、いいよ。カレーは好きだから何食続けて食べてもいいくらいだ」
それを聞いた梨々子はすぐに保存食用の棚に向かった。棚をあけると、そこには『カレーの月曜日』と『有名店のウマイカレー』が2つ並んでおいてあった。
「ああ、そうだ。『有名店のウマイカレー』だ、今日こそ食べる時なのね」
梨々子の言葉に、聡一はハッとした。
苦い記憶がよみがえる。
だが、聡一はつとめて平静を装った。
「『有名店のウマイカレー』って、結構人気があるんだろ?」
「ふふふ。だから私も目をつけてたんだー」
梨々子は鍋の中に水を入れ、湯を沸かしはじめた。そして鍋の中の湯を見ながら、梨々子はふとこんなことを言い出した。
「そうだ、聡一も食べてみない?」
「え? 『有名店のウマイカレー』を?」
梨々子はうんうんとうなずいた。
「だけど1個しかないんだろ? どうやって2人で食べるんだよ?」
梨々子は言う。
「もち、半分ずつ食べるんだよ。『有名店のウマイカレー』と『カレーの月曜日』と」
聡一はギクッとした。
それはマズイ。
箱の中身はどちらも『カレーの月曜日』なのだ。半分ずつ食べたら、一発でバレてしまう。
聡一は梨々子に言った。
「いいよ。せっかく楽しみにしてたんだろ? 梨々子一人で『有名店のウマイカレー』を食べるといいよ」
梨々子は言った。
「ええ? でもさ、せっかくの機会じゃない。私はね、聡一にもおいしいカレーを食べて欲しいと思ったんだよ。一緒に半分ずつ、食べようよ」
聡一は困ってしまった。そして苦し紛れに出た言葉は、
「ああ、そうだ! カレーと言って思い出したけど、駅前に新しく開店したインドカレーの店があったろ? これからあそこへ行こう」
だった。
「ええっ? なんで急に?」
反論する梨々子。
「いいよ。せっかくお湯を沸かしはじめたんだもん。このまま今日はレトルトカレーで済まそうよ。で、また次の休みの時にでも、ゆっくり食べに行けばいいじゃない」
「イヤ、今すぐ行きたい。なんか急にインドカレーが食べたくなってきたんだ」
聡一は必死に取り繕おうとして、いろいろ言葉を投げかける。が、それがかえって梨々子の不信感を煽った。
「なに? 聡一、なんか隠してない?」
「イヤ、そんなことはないよ。気のせいだよ」
そこで電話が鳴った。
梨々子が電話に出る。
電話の主は、梨々子の友達の真澄だった。
「あ、真澄。どうしたの?」
真澄は電話の向こうでこう言った。
「ねえ、梨々子はさ、『有名店のウマイカレー』は手に入れた?」
「うん、1個だけね。今食べようと思ってたところなの」
すると真澄は興奮した口調で梨々子に語る。
「実はね、駅の反対側のコンビニで多量に手に入れたんだよ。もし良かったら、分けてあげるけどいる? 今すぐ持っていってもいいよ」
「え? くれるの? 助かるなぁ」と梨々子。
「うん、とりあえず1個でいい?」と真澄。
「ちょうど良かった。今ね、聡一と2人で食べようとしていたところだったんだよ。1個手に入ったら、1人1個ずつ食べられてちょうどいいよ」梨々子が言った。
それから5分ほどして、真澄が梨々子の部屋を訪れた。そして『有名店のウマイカレー』を1箱置いて帰っていった。
聡一は助かった、とばかりにホッと一息ついた。
「ああ、これで2人で1個ずつ食べられるね」
「うん。さっそく温めよう」梨々子が言った。
すると聡一は言った。
「じゃあ、梨々子は友達に貰った方にしなよ。僕は梨々子が買ってきた方を食べるからさ」
梨々子はまた疑いの目で聡一を見た。
「えー、何で? だって、どっちを食べてもおんなじじゃない? なんでこっちを私が食べなきゃいけないの?」
そして梨々子ははたと気付いた。
まだ封を解いていないはずの『有名店のウマイカレー』、どうも箱の開け口の合いが悪い。梨々子は首をかしげながら封を開け、そして唖然とする。
箱の中には、『カレーの月曜日』が入っていたのだった。
「なんで『有名店のウマイカレー』の箱の中に、『カレーの月曜日』が入っているのよ? なんで? 聡一、なんでなの?」
聡一は言った。
「ゴメン。入れ替えたんだ」
「じゃあ『有名店のウマイカレー』は?」
「ゴメン。食べちゃった」
梨々子は手を腰にあて、聡一の前で仁王立ちになった。
「あのねぇ、あれほど食べちゃダメって言ったのに、聡一ったらズルイよ。こうなったら……」
「こうなったら?」
「駅前の『インドカレー屋』のカレーはぜんぶ聡一の奢りだからね。これで心おきなく奢ってもらえるわ」
聡一は再び頭をさげた。
「ドウモスミマセンデシタ」
そして梨々子はカレー皿にゴハンを盛ると、レトルトカレーを湯から取り出した。
梨々子は封を切ると、『有名店のウマイカレー』と『カレーの月曜日』を半分ずつ皿に盛った。
「じゃあ、最初の予定通り半分ずつね」
「え?」聡一は驚いた。
「僕が勝手に食べちゃったのに、半分ずつでいいの?」
「いいよ。やっぱりおいしいものは、恋人と一緒に食べるのがいいんだよ」
梨々子はコタツに2皿のカレーライスを運んだ。そして梨々子と聡一は向かい合って座った。
「さあ、食べよう。2人のレトルトカレーの時間だよ」
梨々子と聡一は、いつものように向かい合って頭をさげ、
「いただきます」
と言った。そしてカレースプーンで、カレーをすくって食べ始めた。
テレビはニュース番組を流している。今は夕方。もうすぐ聡一の好きなスポーツニュースが始まる時間だ。
2人の時間は、始まったばかりだ。