dead and seek
「正直言わしてもらうなら、君は寿命が伸びたといえるだろうね」
医者は僕の定期検診後の結果報告の場面でそう言った。
僕が首を傾げるのと同様に、医者もよく分かっていないようだった。
「一種の精神的なストレスの解除とかじゃないかな。暫くは安静にしておけばまた気楽に過ごせるかもしれないよ」
「本当ですか」
「…。君、雰囲気かわったね」
医者は僕を見て微笑んだ。
「明るくなったね。本当にあの子に救われたのかなあ」
「…あの子とは?」
「君の部屋で住む匿名の女性だよ。家族が亡くなってから親の貯金を使ってここに住んでいる子さ。話すことはあるかな?」
「まあそれなりには」
「この前も二人仲良く外出していたね。茶化してあげようかと思ったんだけど、そんな時間も僕には残されていなくてね」
医者はどこか淋しげだった。
まるで、人生に疲れたような表情を浮かべていた。
「こんな中年の話だけど、一つだけ聞いてくれないか」
断る理由はない。
少しだけだが医者の話を聞いてみたいという欲求もあったので首肯すると、医者は微笑んで「ありがとう」と言った。
「僕は学生の頃、友を知らなかったし、愛を知らなかったし、自由を知らなかった。まあ学生といっても何年前かは覚えていないな。僕は両親に優秀な医者になるように育て上げられていたから、外で普通の子供のように遊ぶことは許されていなかった。ずっと勉強して、僕はそれが普通だと思っていた。僕は反論することはなかった。ぶたれるからという理由もあったけれど、単純に僕はその時自分がしたいことを見つけていなかった。医者になったら、沢山お金が儲けれるから、医者になりたい。僕は不純な医者だった。今だって、なにも自分が清純な医者だとは思えないよ。だけど、救える可能性が低い医者をすべて見捨てて、そのままでも生きていける患者に追加手術して救い、功績を得た僕は本当に愚かだった」
僕は気づけば話に聞き入っていた。
「そんな僕の元へ、瀕死の患者と重傷の患者が救急車に乗ってやって来た。重傷の患者は僕の先輩が担当したから、僕は瀕死の患者を担当することになったんだ。彼女は救うことのできるレベルの傷ではなかった。内臓はぐちゃぐちゃ、おまけに左手は真っ青に膨れ上がっている。ああ、彼女はどれだけ手術しても三日で死ぬな。僕はその時確信したよ。だから、無敗の僕の功績を傷つけたくなかったから、僕が手術するまでに死んでくれないかな、と僕は心の中で願っていた」
「…」
「でも彼女がまた不思議な人でね。僕が一人、瀕死の彼女の元に行くと、彼女は僕を見て大笑いしたんだ。[こんなに重病な私の元に来るのは若い貴方だけなのか]ってね。僕は何も言えなかった。無言で、彼女の手術に望んだ。彼女が僕に何を聞いても、僕は淡泊にしか答えなかった。彼女は、死を恐れていない、珍しい人間だったんだ」
医者はこつんとボールペンを鳴らして過去を思い出すように笑った。
やはり、その仕種にも寂しさが感じれた。
「彼女はいつも笑っていた。僕が彼女の元に行くと、彼女は僕に彼女の家族のお話をしてくれた。僕はずっと彼女の話を聞いた。[そうかい]とか[そうなんだね]とか淡泊な返事を返しても、彼女はうれしそうに微笑んで僕にいろんな話をしてくれた。初めは聞き流していたけれど、僕は途中から彼女の話をノートに夜取ることにした。毎日毎日、彼女の話をノートに取ると、一週間でノートは満タンになった。彼女の面白いお話は底をつかなかった。そこで僕は悟ったんだ。彼女は淡い永遠の孤独の中に住んでいる人なんだって」
「…淡い永遠の孤独、ですか」
「長年医者をやって来て気付いたことは、人間が死を恐れるのは、直接恐れているという訳ではないという事だね。人間は、誰かに知られているからこそ死を恐れるんだと。深い漆黒の闇は、孤独のすぐ傍にあって、淡い永遠の孤独に住んでいた彼女のような人は、なにも死が怖くなかったんだ。そしてそれと同時に、僕は彼女の話がすべて空想だと悟った」
「…」
「彼女の話によると、彼女の両親は彼女をいつも愛し、彼女の事を第一に考える素敵な両親だと聞いた。でも、ある日保護者と対面した時に、僕は気付いたんだ。彼女の両親は、全く彼女の事など愛していないということに。僕が彼女の具合の話をしている最中に、平気で二人で談笑をしたり、彼女の病室に誘った際には、[面倒]という一言で断られた。僕がその言葉に文句を言おうとすると、先輩達に遮られたんだけどね」
彼女は本当に孤独に住んでいたんだ。そう医者は言った。
本当の孤独というものがいかに寒く、苦しい場所であるかがひしひしと伝わってきた。
「僕は恋に溺れていた。いつの間にか泡沫のように消えてしまいそうな彼女に僕は溺れていたんだ。そして彼女が僕に微笑む度、彼女が僕から目を逸らす度僕は息苦しくなっていたんだよ。彼女は近い内に僕の傍から消えるんだ。だから、僕は彼女を見ていられなかった。彼女が消える瞬間を、彼女の魂が存在しない彼女の肉体を、ね」
「彼女は、本当に事故だったんですか」
「…彼女はある日僕に言ったよ。[もしも私に定められた命の鎖から逃れる事が出来る力があっても、私は逃げることはないと思う。だって、私は今孤独に生きてないから]とね。そしてこう続けた。[孤独の空間は恐ろしく冷たくて吐息が凍るような感覚に襲われる。だから、私はそんな空間にいるより死んだ方が楽になれると思ってた]とね。僕はその言葉を聞いた時、ようやく気付いたんだ。彼女は交通事故でここに運ばれて来たんではない、本当は彼女は自殺をしようとしていたんだと。それなら、確かに身体に受け身をとったような傷がみられないのも納得が言った」
「…」
「僕らには明日がある。明日したいことや、未来したいことを好きなだけ空想し、実行に移すために努力することが出来るよ。でも彼女は違ったんだ。僕らのように人に囲まれ会話を常識と認識する事も出来ずに、彼女はただただ孤独という深い闇の中で足を捕まれ呼吸出来ずに笑っていたんだよ。そして自由を求めた先には自殺という結末が存在していた」
医者はそう言い終わると机の上に置いてある写真立てを手にとって、僕に見せてきた。そこには若い頃の医者と思われる青年と、薄く微笑む目の細い女性が映っていた。場所はどこだろうか。病院には見えなかった。
「僕は命を掛けた。僕の出来ることを、使えることを全て注いで彼女を救おうとした。その時はただ僕は彼女にしあわせを知って欲しかった。誰でも感じることのできるしあわせを、彼女に味わってほしかったんだ。彼女への過剰な熱望が、いつしか彼女との友情に代わり、そして彼女との愛情にかわった。僕は彼女を愛し、彼女は僕を愛した。そしてしばらくして、彼女は死んだ」
医者の話は聞き手を話の中に牽き入れる強い力があった。それ故に、僕は医者の話の結末が淡泊に述べられたことに驚いた。
だけどなんとなく分かった。
別に医者は彼女と過ごした日々を後悔している訳ではないだろう。
むしろ、逆のようだった。
「君とルームシェアしている彼女は、そんな泡沫な少女だよ。いつ消えるかなんて分からない。だけど、そう長くないかもしれないね」
「彼女がですか?」
「そうは言っても、当然だが先に去るのは君だろうね。彼女を一人に残す覚悟は君にあるかな?」
「…そんなの、分かりませんよ」
「君は若いよね。だからこそ責任は重い。だけど一つだけ考えてほしいのは、誰かを残して去るということが想像以上に相手を傷つけることになる、それだけは知って置いたほうがいいよ」
医者は微笑んで僕に退室を促した。僕も素直にそれに従う。
―――――誰かを残して去るということ。
僕はため息を吐いて部屋に戻った。