夢に染まれ
目が覚める。
時計を確認すると、朝の五時過ぎだった。
体を起こし、僕はそのままリビングスペースに向かう。そこでお茶を入れて、テレビの電源を入れた。
何も見たいテレビがある訳じゃない。
ただ、静寂は今の僕には少し堪え難かった。
ニュース、天気予報、ニュース。
どれも平凡なものばかりでどんな事件があっても平和を表面では象徴していた。
僕がもうすぐ死ぬことなど誰も知らない。
そんなの当たり前だけれど、幸せそうに手を繋ぐ家族や駅前で洋菓子を食べさせ合うカップルや一人死にたいと嘆く自殺願望者を見ていると、意味はないと分かっていても無性に腹が立った。
そもそも僕が死ぬことなんて誰が知って得するのだろうか。
見知らぬ他人が死ぬことを聞いて喜ぶ人はいるだろうか。
そんな人はいない事を分かっているのに、僕はただ自分が一人じゃないと誰かに認めてほしかった。
この命の灯が尽きるまでに。
「…馬鹿だなあ、僕は」
本当に僕は馬鹿だ。
こんな僕も生きてて構わないのだろうか。
僕に生き甲斐なんてものは存在しない。
全て全て、失った。
生き甲斐も、僕の子供心も。
全て全て、奪われた。
「…おはよう、ございます」
不意に後ろから声をかけられて首を向けると、そこには彼女がいた。
眠そうに、目を擦る彼女がいた。
「おはよう、サンドラちゃん。起こしちゃったかな?」
「…」
「…うん。朝食は暫く後だからもう一眠りしたらどうかな。僕はここでテレビを見ているけれどね」
彼女は首を振ってリビングスペースのキッチンと思われる場所をあさりだした。何か食べ物を探しているのだろうか。
そのまま暫く探していたかと思うと小さな声で僕に聞いた。
「…ねえ」
「ん?何かな?」
「テレビの横に紅茶を入れる機械があるわよね」
「うん、あるね。ティーメーカーの事かな」
「それの材料はどこにあるのかしら」
僕は立ち上がって彼女の元に歩いて行った。そして彼女の横に腰を下ろす。
そして近くを探しはじめると、不意に一つの事が気になった。
「サンドラちゃん、一つ聞いても良いかな」
「…?」
「君、何歳?」
初めて会った時は中学生のように見えたのでそう確信して話をしていたが、今よく観察してみると睫毛は長く酷く落ち着いている。高校生といっても言動だけなら通じそうだ。
「19よ」
「ああ、19なんだね…ってええ!?」
少し距離をとってキョトンとしている彼女を見つめる。
僕も19歳なので同じ歳となる。
都市伝説のようだ。
「何かおかしいかしら」
「いや、僕も同い年だからさ。もっとサンドラさんは若いように見えるから」
「私は貴方が年下だと思ってたわよ。それと急に呼び名を変えなくて良いわ」
「いや、でも『ちゃん』は失礼じゃないかな?」
「それなら、今までの貴方は失礼だったのかしら」
どうして気づかなかったんだろう。
容姿は中学生でも、明らかに言動は成人じゃないか。
「で、でもさ。サンドラちゃんは初めて会った時僕の事をお兄さんと呼んでたよね」
「何?名前で呼んだ方が良かったかしら?」
「…いや、それはいいよ」
「私も貴方も、自分の名前が嫌いなのね。違う?」
そう言う彼女は少し淋しげであった。僕は彼女の目を盗む。
それでも彼女は薄く笑っていた。
「私たちは、お互いに孤独なのね」
孤独の証明。
僕が孤独であること。
僕は言われたくなかった。信じたくなかった。
誰にも言われなかった。誰も言ってくれなかった。
僕の事を心配して。僕に気を使って。内心では僕の事を嘲笑して。
それなのに、彼女は。
「そうだね」
「でも私はここでは一人じゃないわ」
「僕だってサンドラちゃんがいる限り一人じゃないんだね」
微笑む。
誰への微笑みだと自分の中で問いただす。
彼女へか。
自分へか。
僕らは隠しているのだ。表面では、お互いを孤独と言っていても自分は孤独でないと信じていたい。
僕らはそんな偽りの輪の中で生きている。
「あ、これじゃないかな。紅茶、僕が入れようか?」
「レモンティーが良いわ」
「いや、見たら分かると思うけどストレートティーしかないからね」
「…」
彼女は恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。
何故か内心からの笑みのように見えた。
僕には、到底生み出すことのできないようなまばゆい笑みだ。
「うん、ならとびっきり美味しい紅茶を入れてあげるよ。僕はかつて喫茶店を開くという夢を持っていたんだ」
「…素敵な夢ね」
「…だから、紅茶を入れるには自信がある。美味しい紅茶を入れてあげるよ」
「…そう」
彼女は僕にティーパックを渡す。そして取り出した物を直しはじめた。
僕には、夢があった。そう、彼女に言った通り喫茶店を経営することだ。
だけど、いつだろうか。ずっと前な気もするし、最近な気もする。
僕はその夢を放棄した。
理由は覚えてない。それは病院に入院する前に決めた事は確かだからどうせ飽きたとかいうところだろう。
でも中学生の頃は確実に情熱を注いでいたから、かなり紅茶を入れるのには自信があった。
水を組み、機械に注ぐ。そしてティーパックを入れ、軽く掻き交ぜ砂糖を入れる。水の温度を機械で上げ、僕は一息付いてソファに座りテレビを見る彼女の横に座った。
「この時間は面白いテレビが何もないのね」
「まあ朝はそんなもんだよね。一緒に外の散歩でも行く?外出許可が出てたらだけど」
「…私は外出制限が出てないよ」
外出制限が出てないということは軽度な入院なのだろう。
それはしばらくしたらこの部屋から出て行くということを暗示していた。
「じゃあ散歩に行こう。朝食前に戻って来て紅茶を飲めば良い」
「そうね。なら着替えるわ」
よく見てみると彼女は水色の全身パジャマを着ていた。別の言い方をしたら着ぐるみのような。
さすがに朝とはいえパジャマで外出するのはおかしいだろう。
僕らはお互い着替えるということでお互いの寝室に入った。
しばらくして僕がリビングスペースに戻ると、既にそこには白い半袖ワンピを纏った小柄の少女がバッグも持って準備してくれていた。
おでこには大学生とは思えない黒色のリボン。
しかし焦げ茶色の彼女の髪型にはピッタリあっているといっても過言ではなかった。
僕は素直に褒め言葉を口にした。
「おや、サンドラちゃん可愛いね」
「そうかしら」
「まるで不思議な国のアリスみたいだ」
実際に不思議の国のアリスを読んだことはない。読もうと思ったことはあったが、僕はその世界観に負けた。
「…素敵なお話よね」
「…そう、だね」
彼女は僕の顔を覗き込んで笑った。
子供のような笑みだった。
「もしかして不思議な国のアリスを読んだ事なかったりする?」
「…ん」
「読んでみたら良いと思うよ。一回読んだだけならよく分からないと思うけど、私は何十回も読んで少しだけだけど理解できた」
彼女は自分の好きな本を話すとき少し饒舌になる。そういう所を見ても彼女が19歳だとは到底思えなかった。
「機会があれば読んでみるよ。じゃあ行こうか。朝食は戻って来てここで食べる?それとも外食する?」
「どちらでもいいわよ」
「じゃあ外食しようか。僕はアレルギーなどはないからサンドラちゃんの好きな食べ物を食べに行くよ」
「私の好きな食べ物といえば少し大人の食べ物よ」
彼女は心配そうに僕を見つめる。僕の舌は元から大人の舌なので大人の料理の方が美味しいと感じるのだが、彼女の言う大人の料理がどれ程大人の料理なのか分からなかったので、僕は小さく頷いた。
「僕は結構渋い料理の方が好きだからサンドラちゃんのお店がどんなのかは分からないけど美味しいと感じるかもしれないね。まあ楽しみにしているよ」
「ええ、すごく美味しいところよ」
そうして僕らは久しぶりに病院の外へ出た。
朝早いというのに、薄い日差しに僕は少しのけだるさを感じたのはまた別の話であろう。