魔人のジンさん
「あ、でも、最初に見つけたこの一冊は我の所持品だぞ? 汚されたら嫌だからな、こちらはずっと手元に保管して何度でも読み返している。こ、この世界に返却する気もないからな!」
「いや、いいと思いますよほんの数冊くらい……」
漫画を守るように抱き締めて、ちょっと身体を退いて威嚇の姿勢を取る魔人さん。その動きは俊敏な猫のようだった。
取り上げるつもりなど毛頭ない紬は、「よかったら本のほうにもサインしましょうか」と尋ねる。すると魔人さんは「頼む!」と今度はすごい勢いで漫画を手渡してきた。
本当に幾度となく読んでくれているのだろう、受け取って見れば、しっかりと読み跡がついているのがわかる。
「……我は、魔界では少々異端でな。争いの世のときより、強さなどに興味はない。特に同族の中では浮いていた。平和になってからは他種族との交流も増え、魔王とは親しき仲になったが、長らく独りだったのだ。孤独というのは楽だが……ときに味気ない」
魔人さんは切れ長の瞳をスッと細める。
語るその様が、なんとなく高校デビュー前の自分の姿を思い出させ、紬は表紙裏にサインをする手を止め、正面に座る魔人さんを見つめる。
「退屈な日々に飽いていた。だが貴様の漫画は、そんな我に楽しさというものを思い出させてくれた。この気持ちを作者である貴様に伝えたくて、ファンレターなるものも書いてみたのだが……」
「え、そんなものまで……」
「穴に放り投げて無事に届くかは分からぬ。なにより我は、どうしてもこれを生み出した者に直接会ってみたかった。穴を潜り抜けた者はかつておらず、無謀な賭けではあったが、我はこの漫画から気配を辿り、なんとかここに来れた。多大な魔力を消費したがな。それでも……こうして貴様に会えた」
サインペンを握る紬の手の上に、魔人さんの金の指輪がついた大きな手が重ねられる。慈しむような優しい手つき。紬の内心はくぁwせdrftgyふじこlpだ。
「我は心底、貴様のファンだ」
――――もちろん、紬はファンだなんて言われたのもこれがはじめてである。
はじめてファン宣言してくれたのは人間じゃなかったが。
逆に人間じゃないくらいなんだ。
空間を越えて会いに来てくれるファンだなんて、もうこの先一生出会えないだろう。
「わ、私も、あなたに出会えて良かったです……魔人さん」
「ジンだ。親しき者はそう呼ぶ」
「ジ、ジンさん!」
「ああ…………温玉カレー丸先生」
そこで、それこそ漫画みたいに紬はズルッと内心でズッコけた。なんともいいムードが呼び名ひとつで台無しである。
「あの、そのペンネーム呼びは止めてもらえると……あんまり気に入ってないので」
「む。そうなのか?」
ジンは「覚えやすい良い名だと思うのだがな」などと呟いているが、紬としては隙あらば変えたいペンネームだ。
考えたのは、紬を創作界に引き込んだ元凶とも言える、容姿の良さで色々と誤魔化して生きている兄である。
最近は緩い感じの変なペンネームが受けがいいんだとかで、はじめての賞応募のときに提案されてからそのまま使う羽目になった。ちなみに兄の好物だ。
「ふーん」と当時の紬は素直に納得して受け入れたが、今となっては兄をぶん殴る準備はいつでも出来ている。担当さんからのメールや電話では、『温玉先生』や『カレー丸先生』などと呼ばれるのだ。打ち合わせ場所がファミレスだと、いつも奢られるのはカレーだ。時折死にたくなる。
「では、なんと呼べばいい」
「えーと、壬生紬って名前なんで壬生で……」
「ではツムギだな!」
ジンは薄い唇を持ち上げてにっこりと微笑む。整い過ぎている美貌に無邪気さが滲むその笑みと、まさかの名前呼びに紬は強烈なボディブローを喰らった。
ぐふぅとやられている紬を前に、ジンは尻尾を機嫌よさげに左右に振っている。あの紫の光沢のある尻尾は、どうもジンの感情をそのまま表しているようだ。
なんとか立て直してサインを書き終え、紬が漫画を返せば、やっぱり尻尾のふり幅は大きくなった。
その光景を見ていると変に気が抜ける。思わず紬は、ふわあと欠伸をもらした。
机の上にある置き時計を見れば、もう日付を越えている。忘れていた眠気が再び襲ってきた。
目がとろんとしてきた紬に目敏く気付いたジンは、「人間はもう寝なくてはいけない時間だったな」と言い、スッと立ち上がった。
……どうやらもう魔界にお帰りになるらしい。
紬も眠気を耐え、見送ろうと腰を上げる。
「あの、本当にわざわざ遠いところ……ていうか別世界から、会いに来てくれてありがとうございました。これからも、えっと、いち漫画家としてがんばります」
「うむ。我はこの先も貴様のファンだ。応援しているぞ、ツムギ」
自然と握手を交わす。
その手の暖かさにドキドキしながらも、紬はこれでお別れはちょっと寂しいな……と心の片隅で思った。
無事に新刊を出せたら、またジンさんの元にちゃんと届きますようにと祈る。
そして魔界に通じる穴が中にあるのか、押入れに向かうジンの背中を、紬はほんのり名残惜しげに見守っていたのだが。
「して、ツムギよ――――我はどこで寝ればいい?」
「……ん?」
ピタリと足を止めて振り返ったジンは、そんな不可解なことをツムギに尋ねた。
「どこで寝るって……え? ま、魔界に帰るんじゃないんですか?」
「む? 普通に無理だが」
「普通に無理だが!?」
ジンは不遜な態度でゆったりと腕を組む。
「穴を通るのには多大な魔力を消費すると、そう申したはずだろう。帰りも同じだ。回復するまでは帰れぬ」
「行きの段階で全力使わないでくださいよ!? 往復切符持たずに旅行しに来ないで! 回復ってどのくらいかかるんですか!?」
「人間界だとやはり勝手が違うな……まだまだかかりそうだ。帰宅に必要な魔力が100MPだとしたら、今は2くらいしかない」
「ゲームだと画面赤いやつ!」
そんな魔力がない状態でゴミ箱を浮かせたりするから、余計溜まらないのではないかと、ツムギは頭が痛くなった。
薄々気づいていたが、この魔人さん、けっこう天然だ。
しかし、ここでジンを外に放り出すなどは出来ない。それはさすがに可哀想すぎる。ジンは妙な適応力があるので、案外生きていけそうな気もするが、些かズレた日本知識と天然さも不安要素だ。
つまり、選択肢など最初からないのだ。
紬は様々な葛藤を乗り越え、その末に諦めて決断した。
「わかりました……寝床はなんとかします。魔力が溜まるまで、ここに住んでいいですよ」
「おお! 温玉カレー丸先生とご一緒に!」
「だからその呼び名はやめろ」
嬉しそうに「感謝する。これからよろしくな、ツムギ」と口角を緩めるジンに、ツムギは曖昧な笑みを返した。
こういうの、もしかして押し掛けファンって言うのかなーなどと思いつつも、この魔人と離れ難い気持ちを抱いていたことも事実なので、「こちらこそ、よろしくお願いします」とツムギは小さく頭を下げたのであった。
お読み頂きありがとうございます!
ここから同棲スタートですーゆるゆるでお送りしますが、気楽に楽しんでもらえると嬉しいです。





