閑話 隠れオタクなチャラ男子高生くんの悲劇 後編
匡の姉・星野月子は、匡の四つ年上の大学二年生。
スラリとしなやかな体つきに、ふんわり優しげな面立ちの美人で、栗色の長いストレートの髪がサラサラと靡く様は、落ち着きもあってとてもお上品だ。例えるならば清潔さの漂う女子アナ風。
月子はその慈愛の溢れる瞳で固まる弟を見据え、「たあくん?」と再度、匡の昔からの愛称を呼ぶ。
ちなみに匡の激推し神漫画である、温玉カレー丸先生著『恋はギガンティック!』のマスコットキャラ・タスマニアデビルの『タアくん』と同じ響きなのはたまたまだ。
「もう一度聞くわ。どこに行こうとしていたのかしら?」
「ね、姉ちゃん……ええと、その、ちょっとトイレに……」
「まあ、わざわざ財布を待って?」
「こ、これは、あの!」
「…………たあくん、いや匡」
スッと、月子の瞳が細まる。
宿る鋭い光は、獲物を狙い定める猛禽類のごとく。
「――言い残すことはそれだけか?」
「す、すいませんでしたあああああ!」
匡は長年染み付いた服従精神のまま、頭を90度にきっちり下げた。誰が見ても完璧な角度だ。
月子はふんっと髪を乱暴にかきあげ、先程の淑女モードから打って変わって、大の男さえ射殺せそうな凄みのある眼差しで匡を睨む。
「この私を出し抜いて、こっそり出掛けようだなんていい度胸だなぁ、匡? まったく、念には念を入れてトラップを仕掛けておいて正解だったわ」
「そ、それだよ、姉ちゃん! なんだよあの空き缶!」
匡はびしっと、己の脱獄をけたたましく姉に報せた、にっくき空き缶どもを指差した。
まだカラカラなっているのがなんともウザい。
「ああ、あれは現役ヤンキー時代、あたしらのアジトに敵グループが襲撃してきたときに、張ってあったトラップの一つさ。あれが鳴ったことで見張りが気付いて、返り討ちにしたこともあったわね」
「敵グループ……返り討ち……」
「最後は敵の頭とのタイマン勝負よ。まあ私が当たり前に勝ったけど」
月子はブラウスのシフォン袖から覗く、たおやか(見た目だけ)な腕を思案げに組んだ。
なんでもない顔で「あの時の戦いは熱かったなあ……」とかしみじみ思い出に浸っている。
匡からすれば時代錯誤のただの凶悪ヤンキーだが、さすがは当時、ここら一帯をしめていた最強不良チーム『烈怒満月』の初代女ボス、『血染めの月子』である。
それこそヤンキー漫画でしか見たことのないあれやそれを、実際にしてきたのがこのお姉さまなのだ。
ただ古式ゆかしい人情派ヤンキーなので、一般人には手を出さないとか、法に触れることは八割しないとか(二割はしたらしい)、守るべき境界線がしっかりあったようだが。
なにはともあれ、元を正せばただの人畜無害なヲタクである匡が勝てる相手ではない。
そもそもにして、匡のチャラ男スキルは月子の教育の賜物だし、力関係が当に出来上がっているきょうだい間で、弟が姉に下克上を仕掛けるなど、ハムスターがライオンに飛びかかるようなものだ。
萌え系アニメでたまに見る、か弱く可愛い理想の姉など、三次元には存在しないのだと匡は遠い目をする。
しかし、大人しくヒマワリの種をかじることしか許されないハムスターとて、時に捨て身で交渉くらいは申し出てみなくてはいけない。
「あ、あのな姉ちゃん、勝手に出掛けようとしたことは俺が全面的に悪いんだけどさ、もうこの通り何事もなく超元気になったから、何度も言うけどお願いだから遊園地に……」
「匡、何度も言うけど、ちょっとくらいの外出ならまだしも、あんなに苦しんでいたあんたを、遊園地なんて危険たっぷりなところには送り出せないわ。今日は諦めて大人しくしてな」
「う、で、でも……」
「あんたの行きたい気持ちもわかるけど、何事も体が第一だろうが。次に抜け出そうとしたら、そっとシメるからね」
「姉ちゃん……! 『そっと』と『シメる』って日本語は並列に置けないと思うよ……!」
体が第一と言っている本人が、シメるとはこれ如何に。
だが月子のわかりにくい気遣いに、匡はもう何も言えなくなってしまった。
危うく持っていき忘れかけていた、学習机のスマホが視界を過れば、アプリでメッセージが表示されていた。間宮悠由さんからだ。
『お大事にね!
もうみんな揃ったけど、メンバーはなんとかなったから、こっちは気にしないで! オギハギコンビも凛子も紬も、とっても心配していたよ!
歯痛とはいえ無理しないでね』
……ああ、なんかもう、壬生紬さんにも心配してもらえたなら、いいかなそれで。これで『歯痛で欠席したやつ』と印象には残っただろうし、うん。
いよいよ持って、匡は肩を落として諦めた。
おかしいなあ、視界が滲むや……屋内なのに雨かな? とか、ベタな台詞が頭を過る。
そのあとでなんとなく、今は『ベタ』という言葉がすごく恐ろしく感じた。
明らかに落ち込む弟に、月子はふうと溜め息をつく。
「仕方がないわね……これはあんたの誕生日にでも渡そうと思って、隠しておいたんだけど」
月子は一旦自分の部屋に戻ると、なにかを手にして戻ってきた。「ほら、やる」と表では決して見せないだろう雑な態度で、匡に向かってカードをペラリと投げ渡す。
薄いカードを上手くキャッチ出来るわけもなく、落ちたそれを匡は慌てて拾い上げるが、次いで大きく目を見開いた。
「これ! としょ、図書カード! しかもただの図書カードじゃない! 雑誌の応募で俺が外れた、『恋ギガ』の限定イラスト入り図書カードじゃないか……!」
カードを持つ手がブルブルと震えた。
知らぬ者には、ただの水着の少女が描かれた500円分の図書カードだが、匡にとっては喉から手が出るほど欲しかったものだ。
「なんだっけ、あんたそれ好きでしょ? 半熟ハヤシライス先生の『恋はエロティック!』」
「ハヤシじゃなくてカレー! そんな18禁なタイトルでもないけど……! ど、どうしたんだよ、姉ちゃんこれ!」
動揺しまくりな匡に反して、月子は興味薄げに「もらったの」と答える。
「この前、他校との合コンに無理やり呼ばれてさ。面倒くっせと思いながら参加したら、相手方の男に優男風なものすごいイケメンがいてな。まあ私のタイプじゃなかったけど。私のタイプは見た目からもう私より強い奴だから」
「姉ちゃんより強い奴って、それヒト科のフリしたゴリラじゃ……」
「ああ?」
「で、で!? そのイケメンがまさかこの神のカードを?」
「タイプじゃないけど気は結構合ってね。手元にあったからってもらった。なんかその作者の身内らしいわよ、秘密だけどって」
「温玉カレー丸先生の身内!?」
それって神の身内? つまり神? いやこんなカードをくれるだけでそもそも神?
むしろ温玉カレー丸先生、お住まいはこちら? つまりここは神の神域?
混乱を極めている匡は、とりあえず神に祈りを捧げておいた。
「ありがとう姉ちゃん! 俺、死ぬほど大事にする!」
「おー。まあ図書カードだし、適当に本でも買って……」
「使うわけないだろ!?!? 額縁行きだよ!!!」
「お、おう」
匡、人生で初めて姉を迫力で圧倒した瞬間である。
姉が部屋から出た後、匡は自室で一人、図書カードを電球の灯の下に透かしてみた。雑誌を見たときからずっと欲しくて、外れたときは血の涙を流した代物だ。
間宮悠由さんに返信も済ませ、温玉カレー丸先生のブログでも報告した。匡はへへっと笑う。
「めげずにまた頑張ろう……」
星野匡は、案外幸せだった。





