出会いは押入れ
「死ぬほど疲れた……」
あっという間に夜。
トーン貼りまで終えた紬は、立ち上がると同時にベッドの上にパタリと倒れた。
細い体でも安物のベッドのスプリングは軋み、勇気を出して染めた、ダークブラウンの肩口まである髪がシーツに散らばる。
「体のあちこちがきしむ……きしめん……食べたい……」
長時間ぶっ通しの作業で頭はガンガン痛むし、意味不明な一言だって飛び出す。
紬はもうこのまま寝てしまおうかと瞼を閉じた。夕ご飯もお風呂もまだだが、明日は幸い学校が休みの土曜日。
ここまで完成すれば、残すところチェックだけだ。担当さんが引き取りに来る時間までには、朝一起きてやればなんとか間に合う。
今回は学校のテストも重なったため、少々修羅場ってしまった。
デジタルに切り替えたら色々と楽なのだろうが、パソコンを持っていてもアニメ鑑賞かオンラインゲームでしか使っていない紬である。
だがそろそろ、徐々に仕上げの段階からデジタル作業に移行すべきなのかもしれない。
今度そういうのが得意な兄に教わるべきか。アイツに頼るのはすっごく嫌だけど、背に腹は代えられない。
そんなことを考えながらも、紬の脳はうつらうつらと船を漕ぎ出した。
あとはぜんぶ寝て起きてからでいいや……と意識を飛ばそうとするも、そこで「ぐううう」と盛大に腹の虫が鳴る。
「……なにか食い物」
睡眠欲と食欲の一騎打ちは、僅差で食欲に軍配が上がった。
ベッドから這い出るように起きて、紬はふらふらと押入れの前まで行く。確か非常食用のチョコレートがこの中にあったずだ。
ガッと取っ手を掴んで押し入れを開ける。
なんか変なのがいた。
「――――む。邪魔をしている」
「……はあ」
学校から近いというだけで選んだ格安アパートだが、押入れだけは妙に広い。
二段になっていて、下は布団や衣類。上には百均で買った棚を置き、紬は自作品の単行本を並べたり、ボツネームや原稿を無造作に仕舞っていた。ついでに非常食のチョコの袋も。
しかし、その上の段に人がいたのだ。
「あの、あなたは……?」
「我か? 我は魔人だ」
「はあ、マジンさん」
名前的に台湾人とかだろうか。
少なくとも日本人ではなさそうだ。
手に漫画を広げて持つ男は、押入れの中で窮屈そうに身体を丸めており、わりと良い体格をしている。そしてテレビの中でもなかなかお目に掛かれない、かなりの美丈夫だった。
シュッとした輪郭に、切れ長の瞳はエキゾチックな深い紫色。見事なプラチナブロンドの髪は襟足が長く、一房だけ細い三つ編みが垂らされている。
ゆったりした布を組み合わせた、民族衣装みたいな服を着ており、ペンダントや腕輪など、ところどころに高価そうな金細工のアクセリーを身に付けている。
台湾人というより、見た目はアラビアンな雰囲気……というより、ゲームのキャラみたいな容姿だった。ファンタジーイケメンである。
ついでに、頭の横には渦を巻く、羊みたいな角が左右に一つずつ。
「なんのアニキャラコスだろう……」と冷静に考える紬は、もう食欲も睡眠欲も限界で、一周してすべてを受け入れる悟りモードだった。通常時なら、この不審者レベルが極めて高い不審者に、叫ぶか警察を呼ぶかくらいはしている。
「すまぬ、そろそろ体が痛むのでな……いったんここから出てもよいか」
「あ、どうぞ」
反射的に紬は体を引いた。
のっそり押入れから出てきた男は、立ち上がるとやはり背が高い。180は優にあり、チビな紬は自分がミジンコにでもなった気分になる。
あと彼には尻尾も生えていた。
目と同じ紫色の鱗がついた、長い竜の尾みたいなものが。
「あの、すごくレベルの高い造りの尻尾ですね。角も……」
「む。我の世界では至って普通だぞ。人型の魔物の中では、わりとよく見かけるタイプだ」
「世界……ああ、コスプレ業界ですか。昨今のコスプレは、もはや職人芸ですよね」
「こすぷれ……? なんだ、それも面白そうだな。やはりこの人間界は興味深い」
なにやら話が噛み合わない。
しかし紬の疲労はいよいよピークで、もうどうでもいいから一口だけ何か食べて眠りたかった。
マジンさんの後ろに見える、棚に置かれたチョコの袋を指差し、「あの、ちょっとあれ取ってもらえませんか」と頼む。「これか?」とマジンさんが片手で引き寄せる動作をすると、袋はふわりと宙に浮き上がり、紬の手の中に落ちてきた。
「へ」
さすがにこれには、悟りモードの紬も目を見開いた。
マジンさんは親切にも、「ゴミはゴミ箱へがルールだったな」と言い、デスクの下にあるゴミ箱までも、同じように浮かせて紬の足元に置いてくれる。
「食わないのか?」
「た、食べます」
紬はひとまず袋を開け、個包装のチョコを一つ口に放り込んだ。包み紙はちゃんとゴミ箱へ。「分別は欠かさずにな」となぜか庶民派な注意も受ける。
舌に広がる甘さと共に脳に血が巡り、ようやく紬の頭は覚醒し始めた。
じわりと、同時に嫌な汗が背に伝う。
え、待って。え?
超今さらだけど、この人何者?
「――――して、娘よ。我は貴様に問いたいことがある」
「は、はい。なんでしょう」
「この書物の作者は貴様か?」
マジンさんが掲げてみせた漫画は、紬のデビュー作。
冴えない男子高校生とツンデレ顔なロングヘアー美少女が、コミカルに描かれた表紙の単行本だ。現在は3巻まで出ているシリーズもので、あれは記念すべき第1巻。
売れ行きは大人気! とは決して言えないが、コアなファンのおかげでなんとか、少年向け月刊漫画雑誌で連載を続けている。今もその原稿を仕上げたところだ。
普段ならひた隠しにするところだが、紬は反射的に頷いた。
マジンさんは「そうか!」とアメジストのような瞳をキラキラと輝かせる。カラコンかと思ったが、どうも裸眼みたいだ。
「我は、ずっと貴様に会いたかった……!」
「え、あの、うえ!? ちょっと!」
ぐいっと綺麗な顔が紬に迫る。
なんとか高校デビューで、最低限クラスの男子とは話せるようになった紬だが、もともとは引きこもりだ。対異性への免疫力など塵に等しい。しかもこんな人外クラスのイケメン(下手したら本物の人外な気もしてきた)などと。
なお、紬は身内にルックスだけは完璧な兄もいるが、アイツは論外である。
あわあわと赤い顔で慌てる紬などお構いなしに、マジンさんは腰にくる艶美な声で「我は……」と吐息のような囁きをもらす。
「我は――――貴様のファンだ。サインしてください」
「…………はい?」
どこからともなく現れ、差し出されたのは真白な色紙。あとサインペン。
呆けながらも、紬は押しつけられるがままに色紙を受け取り、書く頻度が極々少ないペンネーム『温玉カレー丸』のサインを施す。
尻尾をびたんびたんさせて喜んでいる様子のマジンさんは、「あ、『ジンくんへ』って入れてください」と言う。注文のまま書き加えれば、尻尾は千切れんばかりに振られた。
「うむ、素晴らしい。……ありがとうございます、家宝にします」
「いや、こちらこそ……そんな喜んでもらえて……」
二人は改めて向かい合う。
紬の二大欲求はどこかへ吹っ飛び、ただただ目の前に立つ、角と尻尾の生えた喜色満面なイケメンを見つめていた。
――――これが、隠れ漫画家女子高校生の紬と、魔人のジンさんの出会いであった。





