未来への旅
精霊は徐々に、おごそかに、黙々として近づいて来た。
スクルージのそばまで精霊が近づいて来た時、彼は地にひざま
ずいた。なぜかというと、精霊は自分の動いているその空気の中
へ、陰うつと神秘とを漂わせているように思ったからだ。
精霊は真黒なローブに包まれていた。その頭も顔も姿もローブ
に隠されていた。ただ、片方の手に大きな砂時計を持っていた。
砂時計は、大きいという他に金色に輝く砂、片方の底がないと
いう特徴があった。だから、金色の砂は穴から落ちると貯まるこ
とはなく、地面に着く前に消えてなくなっていった。そのため、
金色の砂が、最初にどれぐらいの量があったのか分からなかった
が、かなり減っていて、残りわずかなことは分かった。
その砂時計がなかったら、暗闇から精霊の姿を見分けることも、
精霊を包囲している暗黒から区別することも困難だったろう。
スクルージは、精霊が自分のそばへ来た時、かなり背が高く堂々
としているように見えた。そして、そういう不思議な精霊にもか
かわらず、自分と相通じるものを感じた。まるで、自分自身を鏡
で見ているような一体感があり、それと同時に自分の心が、ある
種の厳粛な畏怖の念にみたされたのを感じた。
それ以上は、スクルージにはまだ分からなかった。というのは、
精霊はしゃべりもしなければ、身動きもしなかったからだ。
「私の前におられるのは、最後に来られることになっているクリ
スマスの精霊様ですか?」と、スクルージは聞いてみた。
精霊は応えることはなく、空いている片方の手で前方を指し示
した。
「精霊様は、これまでは起らなかったが、これから先に起きよう
としている出来事の幻影を私に見せようとしていらっしゃるので
ございますね」と、スクルージは言葉を続けた。
「そうでございますか、精霊様?」
精霊のフードが、そのひだの中に一瞬の間、収縮し、それがう
なづいたように見えた。
これがスクルージの受けた唯一の反応だった。
スクルージもこの頃は、いくらか精霊との付き合い方が分かっ
てきた。しかし、この沈黙の態度に対しては脚がブルブルと震え
るほど恐ろしいものがあった。そして、精霊の指し示す方向に歩
いて行こうと体を動かした時には、まっすぐに歩けそうもないぐ
らいにふらついていることに気がついた。
精霊もスクルージのこの様子に気がついて、少し待って落ち着
かせてやろうとでもするように、しばらく立ち止まった。しかし、
スクルージは、その気使いをされたことで、ますます気が遠くな
りそうになった。
クルージには、どう考えても砂時計の砂は、自分の生命の残り
時間としか思えず、黒いローブを着た精霊は、そのフードの中に
自分の死を見つめる目があるのだと思うと、漠然とした、なんと
も言えない恐怖で体中がゾッとした。
「未来の精霊様!」と、クルージは叫んだ。
「私は今までお会いした精霊様の中で、貴方が一番恐ろしいので
す。しかし、精霊様の目的は、私のために善い道を示してくださ
るのだと覚悟しています。ですから、どんなことが起きても精霊
様に従うつもりでいます。精霊様に心から感謝しているのです。
どうか私と会話してくださいませんか?」
精霊は、その言葉にも応えなかった。しかし、その片手は前方
にまっすぐ向けられていた。
「そうか! 私は今までお会いした精霊様の教えにより、未来に
はきっと改心しているはずです。どんなすばらしい未来になって
いるのか。それにも何かの教訓があるのですね。行きましょう!」
と、スクルージは言った。
「さあ行きましょう! 夜はどんどんふけてしまいます。そして、
私にとっては尊い時間でございます。私は存じています。行きま
しょう、精霊様!」
精霊は、スクルージの前に現れてきた時と同じよいうに浮遊す
るように移動した。
スクルージは、そのローブの影に誘われるように、後をついて
行った。彼はその影が自分を持ち上げて、どんどん運んで行くよ
うに思った。
精霊とスクルージは、街の中へ入って来たような気がほとんど
しなかった。というのは、むしろ街の方から自分たちの周囲にこ
つぜんとわき出して、自ら進んで精霊とスクルージをとりまいた
ように思われたからだ。しかし、(どちらにしても)精霊とスク
ルージは街の中心にいた。
そこは取引所で、商売人達が集っている広いフロアにいた。
商売人達は忙しそうに行きかい、ポケットの中でお金をザクザ
クと鳴らしたり、いくつかのグループになって話しをしたり、時
計を眺めたり、何か考え込みながら自分の持っている大きな黄金
の刻印をいじったりしていた。その他、スクルージがそれまでに
よく見かけたような、色々なことをしていた。
精霊は、商売人達の小さなひとかたまりのそばに立った。
スクルージは、精霊の片手が彼らを指差しているのを見て、彼
らの会話を聞こうと歩み寄った。
「いや」と、恐ろしくあごの大きな太った男性が言った。
「どちらにしても、それについちゃ、よくは知りませんがね。た
だあの男が死んだってことを知っているだけですよ」
「いつ死んだんですか?」と、もう一人の鮮やかな金髪の男性が
聞いた。
「昨晩だと思います」と、あごの大きな男性が応えた。
「だって、一体どうしたというのでしょうな?」と、またもう一
人の男性が、非常に大きな嗅ぎタバコの箱からタバコをうんと取
り出しながら聞いた。
「あの男ばかりは、永遠に死にそうもないように思ってましたが
ね」
「そいつは誰にも分りませんね」と、あごの大きな男性があくび
をしながら言った。
「あの男の財産はどうなったのでしょうね?」と、鼻のはしに雄
の七面鳥のえらのようなコブのある赤ら顔の男性が言った。
「それも聞きませんでしたね」と、あごの大きな男性が、またあ
くびをしながら言った。
「あの男には、たしか甥がいたでしょう」と、金髪の男性が言っ
た。
「その甥ですがね、アメリカに移住して成功したらしいですな。
今、船でこっちに向かっているようですが、葬儀には間に合うわ
けないのにね。そう、それで、あの男の財産を相続するのは拒否
したらしいですよ」と、タバコを手にした男性が言った。
「それじゃ、財産は政府のものになるのか」と、金髪の男性が残
念そうに言った。
「まあ、私に残していくはずはないがね。ああ、それでか。酒場
で役人が浴びるほど酒を飲んでいたよ」
皆、苦笑いした。
「これで、当分増税はないね」と、あごの大きな男性が言うと、
皆、こんどはどっと笑った。
「すごく安っぽい葬儀でしょうな」と、タバコを持った男性が言っ
た。
「私の住んでる周辺では、誰かがそこに行くというのは私は知ら
ないからね。まさか私達がやることになるんですかね?」
「食事会をするならやってもいいがね」と、赤ら顔の男性が言っ
た。
「当然、その一人になるなら、食えるだけは食わせてもらわなくっ
ちゃね」
皆はまた大笑いをした。
「なるほど。そうすると、皆の中では結局、僕が最も無関心なん
だね」と、あごの大きな男性が言った。
「僕はこれまでまだ一度も黒い手袋をはめたこともなければ、葬
儀の食事を食べたこともないからね。しかし、誰か行く人がいりゃ、
僕も行きますよ。考えてみれば、僕はあの男の最も親密な友人で
なかったとはいえませんからね。道端で会えば、いつでも立ち止
まって話しをしたものですから。それじゃ、いずれまた」
話をした者も聞いていた者も、それぞれの方向に歩き出した。
そして、他のグループへ混ってしまった。
スクルージは、この人達を知っていた。そこで、説明をしても
らうために精霊の方を見た。
精霊は、スクルージが何も言っていないのに、それを察したよ
うに進んで、ある街の別の取引所の中へ滑り込んだ。そして、精
霊の指は立ち話しをしている二人の紳士を指した。
スクルージは、今の説明の応えはこの中にあるのだろうと思っ
て、再び耳をかたむけた。
スクルージは、この人達もまたよく知りつくしていた。彼らは
実業家だった。大金持で、しかも非常に有力者だった。
スクルージは、この人達からよく思われようと、始終、心がけ
ていた。つまり、商売上の評価だけで、厳密に商売上の評価だけ
で、よく思われようとしたのである。
「や、今日は?」と、一人の紳士が言った。
「おや、今日は?」と、もう一方の紳士も挨拶をした。
「ところで」と、最初の紳士が言った。
「奴もとうとうくたばりましたね。あの地獄行きがさ。ええ」
「そうだそうですね」と、相手の紳士は言った。
「それで寒くなくなったよ」
「クリスマス間近のこの季節にふさわしいね。ところで貴方はス
ケートをなさいませんでしたか?」と、最初の紳士が聞いた。
「いえ、いいえ。まだ他に考えることがありますから。さような
ら!」と、相手の紳士は言った。
この他に二人の紳士からは一言もなかった。これがこの二人の
出会いで、会話で、そして、別れだった。
最初、スクルージは、精霊がみるからにこんなささいな会話を
重要だとしているのにあきれかえろうとしていた。しかし、これ
には何か隠れた思惑があるのだろうと思い直したので、それはいっ
たいなんだろうとよくよく考えてみた。
あの会話が、元の共同経営者だったジェイコブ・マーレーの死
になんらかの関係があるとはどうも想像されない。というのは、
それは過去のことで、この精霊の領域は未来であるからだ。最初
のグループの会話の中の「甥」というのは気にはなったが、自分
の甥がアメリカに移住するとは思えないし、精霊の持っている砂
時計が、自分の死を暗示するのなら、砂がなくなっていると思っ
たから、自分のことではないと考えていた。だからといって、自
分と直接関係のある者で、あの会話にあてはまりそうな者は一人
も考えられなかった。しかし、誰にそれがあてはまろうとも、自
分自身の改心のために、何か隠れた教訓が含まれていることは少
しも疑われないので、スクルージは自分の聞いたことや見たこと
は、すべて大切に覚えておこうと決心した。そして、自分の幻影
が現われたら、特にそれに注意しようと決心した。というのは、
彼の未来の幻影の行動が自分の見失った幸せへの手がかりを与え
てくれるだろうし、また、これらの謎の解決を容易にしてくれる
だろうという期待を持っていたからである。
スクルージは、自分の幻影を求めて、取引所のフロアや廊下の
辺りを見回わした。しかし、自分のいつもいた片隅には他の男性
が立っていた。そして、時計は自分がいつもそこに出かけている
時刻を指していた。けれども、出入り口から流れ込んで来る群衆
の中に、自分に似た幻影は見えなかった。とはいえ、それはそれ
ほど彼を驚かさなかった。なにしろ心の中に生活の激変を考えめ
ぐらしていたし、またその変化の中では、新たに生まれ変わった
自分の決心が実現されるものと考えてもいたし、望んでもいたか
らである。
静かに黒く、精霊はその手で何かを指し示したまま、スクルー
ジのそばに立っていた。
スクルージが考え込んでいて、ふと我に返った時、精霊の手の
方向と自分に対するその位置から思い描いて、精霊の見えざる目
は、鋭く自分を見つめているなと思った。そう思うと、彼はゾッ
と身震いをして、ゾクゾクと寒気がしてきた。
精霊とスクルージは、その寒々とした取引所を去り、街のよく
分からない場所の中に入って行った。
スクルージもかねてからこの街の周辺や、またこの辺りのよく
ない噂も聞いてはいたが、今までまだ一度も足を踏み入れたこと
はなかった。
そこにある横道は不潔で狭かった。
商店も住宅もみすぼらしいものだった。
人々は、ほとんど古着を着込んでいて、酔っ払い、だらしなく、
見苦しかった。
路地やアーチの通路からは、まるで下水道のように、彼らから
にじみ出る、非常に多くの不正な臭い、ほこり、そして、みじめ
な人生を吐き出していた。また、その地域全体が犯罪と共に汚物
や不幸の悪臭を放っていた。
この悪名高い巣の中に、軒の低い突き出した店があった。
屋根の下に閉じ込められたような建物で、そこは鉄や古いボロ
服やビン、骨、そして、油で汚れたゴミまで買う古物商の店だっ
た。
内部の床の上には、さびた鍵、釘、鎖、ちょうつがい、とじ金、
秤皿、分銅、そして、あらゆる種類のくず鉄が積み重ねられてい
た。
ほとんど洗われていない汚れの目立つボロ服の山や腐った油脂
の塊りが骨の墓場の中に埋もれて隠されていた。
古いレンガで造った木炭ストーブのそばで、男性が商品に囲ま
れた中に座って商売をしていた。
七十歳ぐらいの白髪まじりの人相の悪い老人だった。彼は、外
から吹き込む風を防ぐのに薄汚いボロボロの幕をロープの上にか
けていた。そして、すべてが満たされた中で、静かに余生を送っ
ていた彼は、パイプでタバコを吸った。
精霊とスクルージが、この老人の前に来ると、ちょうどその時、
一人の女性が大きな包みを持って店の中へいそいそと入り込んで
来た。それから、その女性がまだ入ったか入りきらないうちに、
もう一人の女性が、同じように包みを抱えて入って来た。そして、
この女性のすぐ後から、ヨレヨレの黒い服を着た一人の男性が続
いて入った。
二人の女性は、お互いの顔を見合せて驚いていたが、この男性
は、二人を見て同じように驚いた。
短い間の驚きがあった後、三人は笑いころげた。すると、パイ
プをくわえた老人も彼らに加わって笑いだした。
「最初は、家政婦が一人でいいだろうに!」と、最初に入って来
た女性は叫んだ。
「二番目は洗濯女が一人で、三番目は葬儀屋が一人でいいだろう
に、よりによってオールドジョーのここでそろうかね。もし私達
が三人会わなかったら、その意味は分からなかったろうに」
「あんたらはこんないい場所じゃなきゃ出会えないよ」と、オー
ルドジョーは口からパイプを離しながら言った。
「店に入りな。あんたらは、ずいぶん前からそれをまぬがれられ
なかったんだよ。あんたは知ってるんだろう。そして、そちらの
二人も見知らぬ人じゃないね。待った。俺が店のドアを閉めてや
るから。ああ、どうしてきしむんだ。ちょうつがいの中にサビた
金属の破片みたいなのが入ってりゃしないだろうに。本当に。そ
れに私の古い骨みたいな物も入ってないけどね。ははっ、ははは
はぁ! 類は友を呼ぶだ。俺達は釣り合いがとれてるよ。さぁ、
店に入った、入った」
店というのは、ボロ服のカーテンの後ろにある空間だった。
オールドジョーは、古い金棒でストーブの火をかき集めた。そ
して、彼は煙臭いランプを手入れした。(夜だったためだ)それ
から、彼はパイプの吸い口を再びくわえた。
オールドジョーがこんなことをしている間に、すでに三人で話
をつけた家政婦は、床の上に彼女の包を投げた。そして、これ見
よがしの態度をしながら丸イスの上に座った。彼女は、両腕をひ
ざの上で組み合せて、他の二人に大胆な挑戦をするようにみえた。
「それがなにさ。なにさねぇ、ディルバーの奥さん」と、洗濯手
伝いの女性が言った。
「皆も自分自身はまともな世話をしたからもらったんだと。奴は
いつもそうしてたさ」
「そりゃそうだとも、本当に!」と、葬儀屋の男性は言った。
「奴ほどじゃないよ。なぜ今さっき、あんたは恐れたように、こ
ちらの奥さんを見つめながら座ったんだね。誰よりも賢いのかい?
俺達はお互いの身元まであら捜しはしちゃいられないよ。そうじゃ
ないかい?」
「そう、本当だよ」と、洗濯手伝いの女性が言った。
「もちろんそんなつもりはないとも」と、ディルバー夫人は応え
た。
「そりゃ、たいへん結構なこった!」と、洗濯手伝いの女性は叫
んだ。
「あれで十分だよ。誰があんな人のために、あそこまでする者が
いるんだい? あの人の商売のやり方はもと悪かったよ。私らは、
あの人のやり方をほんの少し真似ただけじゃないかい。こんな少
しの物じゃ大損だけどね。死んだ人、そうじゃないかい?」
「まったくそうだよ」と、ディルバー夫人は笑いながら言った。
「悪い年寄りのひねくれ者が・・・。もしあの人が死んだ後も私
らの得物をそのままにしてほしかったんなら・・・」と、洗濯手
伝いの女性は続けた。
「なぜ生きている時に、当たり前のことをしていなかったんだい?
もしあの人が死んだとしても、こんな仕打ちは受けずに誰かに世
話をされていただろうに。それどころか、あの人の最後が自分一
人で外に横たわって息をひきとるなんて・・・」
「まったく、そりゃ本当の話だよ」と、ディルバー夫人は言った。
「あの人に罰が当ったんだねえ」
「もう少し重い罰にしてほしかったね」と、洗濯手伝いの女性は
言った。
「そうさ、そうするべきだよ。オールドジョー、それを頼むよ。
もしそうなら私は他にも、何か手に入れることができただろうに。
さあ、包みを開けなよ、オールドジョー。それで、それはいくら
になるかね。はっきり言ってよ。私が最初だからね。どおってこ
とはないよ、皆に見られても・・・。どおってことはないんだ。
私らがここで会う前に、私らは私らなりに助けてたことは知って
るんだからね。私はそう思うね。それは罪じゃないよ。包みを開
けな、ジョー」
ディルバー夫人と葬儀屋の男性は、洗濯手伝いの女性の割り込
みを認めなかった。それで、葬儀屋の男性が今度は割り込んで略
奪品を並べた。それは大量ではなかった。
印鑑が一つ、二つ、ペンケースが一個、カフスボタンが一組、
それに、安物のブローチと、これだけだった。それらは、オール
ドジョーによって別々に検査され、そして評価された。
オールドジョーは、チョークで壁にそれぞれの値段を決めて書
いていった。そして、もう何もないと分かれば、すべてを加えて
合計を提示した。
「これがお前さんの分だよ」と、オールドジョーは言った。
「俺は、それ以上たったの六ペンスでもやれないよ。もしそれが
不満で、俺を煮ると言われてもやれないね。お次は誰だい?」
ディルバー夫人がその次だった。
シーツとタオル、少し着古した衣服、旧式の銀のティースプー
ンが二本、シュガートングが一対、それにブーツが少しあった。
ディルバー夫人の買い取り値段も同じように壁に書かれていっ
た。
「俺は女性にはいつも余計に出し過ぎてね。これが俺の悪い癖さ。
またそのために、損ばかりしているのさ」と、オールドジョーは
言った。
「これがお前さんの買い取り値だよ。もしお前さんが、他の値段
がいくらかと聞いたら、そりゃ自由だが、俺は後悔するだろうね。
そして、半クラウンは買い叩くよ」
「さあ、今度こそ私の包みをほどきな、オールドジョー」と、洗
濯手伝いの女性が言った。
オールドジョーは、その包みを開きやすいように両膝をついて、
いくつもの結び目をほどいて、大きな重そうな巻き物になった、
なんだか黒っぽい布きれを引きずり出した。
「こりゃ、なんだね?」と、オールドジョーは聞いた。
「ベッドのカーテンかい?」
「あはっ!」と、洗濯手伝いの女性は一声あげた。そして笑い、
彼女は腕を組んで前かがみになった。
「そうさ、ベッドのカーテンだよ」
「お前さんは、まさかその人をベッドに寝かせたまま、リングご
と全部、これを引き外して来たと言うつもりじゃないだろうね?」
と、オールドジョーは聞いた。
「そうだよ、そのとおりだよ」と、洗濯手伝いの女性は応えた。
「いけないかい?」
「お前さんは、ねっからの商売上手だね。ひと財産出来るよ」と、
オールドジョーはあきれて言った。
「そう、お前さんは確実にそうなるだろうよ」
「そんなの、私はこの手に出来はしないよ。確実にね。こんなこ
とぐらいで、いつ、どうやってそれにたどりつけるんだい? そ
のためにはあの人だよ。奴のようにしなきゃね。私はあんたほど
でもないよ、オールドジョー」と、冷静に洗濯手伝いの女性は言
い返した。
「そのロウソクのロウを毛布の上へたらさないようにしておくれ
よ」
「あの人の毛布かね?」と、オールドジョーは聞いた。
「あの人のでなけりゃ、誰のだというんだよ?」と、洗濯手伝い
の女性は言った。
「あの人は毛布がなくたって風邪をひきもしないだろうよ。本当
の話がさ」
「まさか、伝染病で死んだんじゃあるまいね、ええ?」と、オー
ルドジョーは仕事の手をとめて、洗濯手伝いの女性を見上げなが
ら言った。
「そんなことはビクビクしなくてもいいよ」と、洗濯手伝いの女
性は言い返した。
「そんなことでもありゃ、いくら私だってこんな物のために、い
つまでもあの人の周りをうろついているほど、あの人のお相手が
好きじゃないんだからね。ああ! そのシャツが見たけりゃ、お
前さんの目が痛くなるまでよーくごらんよ。だけど、いくら見て
も、穴一つ見つけるわけにはいかないだろうよ。すり切れ一つだっ
てさ。これがあの人の持っていた一番良いシャツだからね。本当
に実際いい物だよ。私がこれを手に入れなかったら、他の奴らは
むざむざと捨ててしまうところなんだよ」
「捨てるって、どういうことなんだい?」と、オールドジョーは
聞いた。
「あの人に着せたまま、一緒に埋めてやるのにきまってらあね」
と、洗濯手伝いの女性は笑いながら応えた。
「誰か知らんが、そんな真似をするバカがいたのさ。でも、私が
それを脱がして持って来ちまったんだよ。どうせ埋めるんならキャ
ラコで十分だろ。そのシャツは、あの人には不似合いだよ。あん
な体と一緒にするにはね。もうあの人が誰かに会うことはないん
だし、キャラコよりもあの人のしたことは見苦しいんだからね」
スクルージは、恐怖しながらこの会話を聞いていた。
四人は座り、彼らが集めた略奪品に、オールドジョーのランプ
がとぼしい光をさしていた。
スクルージは、彼らに憎悪と嫌気をおぼえた。
スクルージと彼らのおこなっている「商売」の悪どさは、どち
らがより大きいかは、ほとんど分からなかった。けれども、自分
は法律の範囲内で商売をしているが、彼らは、それを超えた悪魔
だ。まさに、死体そのものを市場で売買したようなものだ。
「ははっ、ははははっ!」と、洗濯手伝いの女性が笑った。
その時、オールドジョーがお金の入ったフランネル製のカバン
を床の上に出し、彼らの利益がいくらか伝えた。
「これでおしまい。それでいいね。奴が生きていた時、誰もを怖
がらせて、奴は自ら我々が離れていくようなことをした。だから、
奴が死んだ今、これらの品物まで奴から離れていき、私達に利益
が入ったということだ。ははっ、はははっ、はははははっ!」
「精霊様!」と、スクルージは頭から足の爪先までブルブルと震
えながら言った。
「分りました。分りました。この不幸な人間達のように私もなる
かもしれませんね。今までの私の生活もそちらの方へ向いており
ます。慈悲ぶかい精霊様、これは何でしょうか?」
スクルージは恐怖して後ずさりした。それは、光景が変わって
いたからだ。そして今、彼はベッドにほとんど触れていた。
ベッドの周りを覆うカーテンがなく露出していた。そしてそこ
には、ボロボロのシートの下に何かが包んであり、無造作に置か
れていた。また、その何かは無言だったけれど、それ自身が恐ろ
しさを物語っていた。
部屋は非常に暗かった。
どんな部屋か知りたいと思う無意識の欲求で、スクルージは、
その部屋の中をぐるりと見回わしたが、ほとんど何も見分けるこ
とが出来ないほど、余りにも暗かった。
青白い光が、外の空の方からはっして、ベッドの上にだけまっ
すぐにさしていた。
ベッドの上のその人は、身につけた物は略奪されてなにもかも
失われ、誰かに見守られることもなく、泣き悲しまれず、世話も
されていない。ただ、この体一つがあるだけだった。
スクルージは精霊の方を見た。
その手はしっかりと、その人の頭部を指していた。
かぶせてあるシーツはとてもぞんざいで、それをほんのわずか
にのせただけだった。
スクルージが指を上に動かせば、顔が露出しただろう。彼はそ
のことについて考えた。
(そうするのはとても簡単にできるだろう。そして、そうしてみ
たい。しかし、私には、そばにいるこの精霊を追い返すよりも、
このシーツを取り去る勇気はない)
(おぉ! 冷たい、冷たい、厳粛なまでに、怖ろしき死よ! こ
こに汝の祭壇を設けよ! そして、汝の命じるままになるような、
さまざまな恐怖をもてその祭壇を飾り立てよ! この領域は汝の
ためにあるのだ! しかし、愛され、尊敬され、そして、名誉あ
る支配者。これらのものを遠ざけた汝には出来はしない。それは
手が重いからではないぞ! 汝の恐ろしい企みは、一本の毛を変
えること。いや、一つの憎らしい人相を生み出しただけなのだ!
しかし、いつか、汝は、その恐怖から抜け出し、おちのびるだろ
う! それは力強い心ではない。しかし、静かな鼓動である。あ
あ! あの人の手は開いていた! 本当に寛大! 勇敢な心!
やさしく思いやりのある。そんな人の鼓動がよみがえるのだ!
励め! 幻影よ、励むのだ! そして、彼の傷ついた体から飛び
出す、よい行為を見せてみろ! 滅びない人生を世界中にまくの
だ!)
何かの声がスクルージの耳に、これらの言葉をささやいたので
はなかった。ただ、彼がまだベットの上を見ていた時に、彼はそ
れらを聞いた。
スクルージは考えた。
(この人は私の身代わりか? そうか、今まで見てきたのは私が
もし精霊の教えに従わなければ、どうなるかを見せようとしてい
るのだ。おお、なんとかわいそうに。もし、この人が今、生き返
ることが出来たとしたら、まず第一に考えることはどんなことだ
ろうか? 強欲か、熱心な取引か、苦しめる心配なことか? オー
ルドジョーの店に集まった彼らは、私に金持ちの最後をあきらか
にしてくれた。それは本当にありありと。この人は暗い空虚な部
屋の中に置かれ、一人の男も、一人の女も、いや、一人の子供も、
そのそばにいない。あの声はこの人。この人が、あれこれと私の
中に親切に言ってくれた。ただ、一つの親切な言葉を覚えさせる
ため。私はこの人のために親切になるだろう)
猫がドアをひっかいていた。そして、暖炉の石の下でネズミの
かじる音がした。何を彼らは死の部屋の中で探しているのか?
そして、なぜ彼らがそんなに落ちつきがなく、そして、暴れてい
るのか?
スクルージは、あえて考えることはしなかった。
「精霊様!」と、スクルージは言った。
「ここは恐ろしい場所です。ここを離れた所で・・・、ここで得
た教訓は忘れません。それだけは私の言うことを信じて下さい。
さあ行きましょう」
ところが精霊は、まだじっと一本の指で、その人の頭部を指し
ていた。
「もう分かりました」と、スクルージは言った。
「私も出来ればそうしたいのですが。ですが、私にはそれだけの
勇気がないのです。精霊様。それだけの勇気がないのです」
まだ精霊は、スクルージを見下ろしているようだった。
「もし、街に人がいたとして、誰がこの死体を触ってみたいと思
いますか?」と、スクルージはとても苦しそうに言った。
「そんな人がいたら、ここに連れて来てください。精霊様、お願
いいたします」
精霊は瞬間に、真黒なローブを翼のように広げて、スクルージ
の体を覆った。そして、それを開いた時には、そこに昼間のどこ
かの部屋が現われた。その部屋には、一人の母親とその子供達が
いた。
その母親は誰かを待っているようだった。それも心配そうに待
ち望んでいた。それというのも、彼女が部屋の中をしきりに往っ
たり来たりして、何か物音がするたびに驚いて飛び上がったり、
窓から外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には裁縫をしようと
しても手につかなかったり、遊んでいる子供達の騒ぎ声を平気で
聞いていられないほど、そわそわしていたからだ。
長い間、待ち望んでいた、ドアをノックする音が聞こえた。
母親は、急いで出入り口に行き、彼女の夫を迎えた。
彼はまだ若かったが、誰か別人のように顔が心配でやつれ、そ
して落胆していた。今、その中に注目すべき表情が現われた。ま
じめそうでもうれしさがあった。しかし、それを彼は恥ずかしい
と感じた。そして、それを彼は抑えようと努力していた。
彼はゆっくりとイスに座った。
彼のために用意された夕食は暖炉の火にかけられていた。
その間に彼女は彼に、なにかニュースがあるか、おずおずと聞
いた。(それも長い間、沈黙していた後で)
彼はどう応えようかと戸惑っているように見えた。
「良かったのですか?」と、彼女は聞いた。
「それとも、悪いのですか?」と、彼をなぐさめるように聞いた。
「悪いんだ」と、彼は応えた。
「私達はすべて失うんですね」と、彼女は落胆した。
「いや、まだ望みはあるんだ、キャロライン」と、彼は明るく言っ
た。
「もしあの人が優しくなれば・・・」と、彼女は彼をビックリさ
せようと言ってみた。
「まあ、すべて希望にすぎませんけど。もしそんな奇跡が起こっ
たら」
「あの人は優しくなりすぎた」と、彼は言った。
「あの人は死んだよ」
彼女の顔が真実を物語っていた。
彼女は温和、そして忍耐強い人だった。しかし、彼女はそれを
聞いて、心の中で感謝していた。そして、彼女はそう言った。そ
れと同時に神に感謝した。
次の瞬間、彼女は神に許しを請った。そして謝った。しかし、
最初の彼女が本心なのだ。
「昨日の夜、私が、酒に酔っていた女のことについて、お前に言っ
たね。彼女が私に言ったあの人のこと。いつだったか、私があの
人に借金のことで会おうとしていて、そして、一週間だけ支払い
の延期をもらおうと。それなのに、あの人は病気を口実に会って
はくれなかった。私が思ったのは、私を避ける単なる言い訳だっ
たと。それが、あの酔った女が言っていたことが本当だというこ
とが分かったんだ。あの人はひどい病気だけじゃなかったんだ。
いや、あの時は死にかけていたんだよ」と、彼は言った。
「私達の借用書は誰に移されるんでしょう?」と、彼女は不安そ
うに言った。
「私には分からないよ。でも時間はまだある。私達はお金の用意
ができているさ。そして、たとえ私達がだめだったとしても、彼
の後継者の中にひどく冷酷な債権者が現れたら、それは本当に悪
運だろう。とりあえず心配のなくなった夜だ。私達は眠るとしよ
う、キャロライン」と、彼は微笑んで言った。
「はい」と、彼女も微笑んだ。
それは彼らを和らげるだろう。
彼らの心は晴れやかだった。
子供達は、静かな顔をしていた。そして、周りに集まって父親
の話を聞いた。すると、彼らはとても少しだが理解して、明るく
なった。そしてそれは、あの人の死により幸福になった家庭だっ
た。
精霊が、スクルージに示すことができた唯一の感情は、この出
来事によって起こった満足感だけだった。
「精霊様! 私はもう死んだのですね」と、スクルージは言った。
「この二人には、私が金を貸している。あの死体は私の身代わり
ではなく、私自身だったんだ! 私は前の精霊様に教えていただ
いた教訓を活かせなかったのですね。そして、あの暗い部屋で、
私はみじめな死に方をし、私の死は多くの人達を喜ばせていると、
そう言いたいのですね。分かりました。誰だって一度は死ぬんで
す。だけど、精霊様。私は、そんなに罪深い人生だったのでしょ
うか? お金に困っている人にお金を貸すのが、そんなにひどい
ことなのでしょうか? 少なくとも今まで見てきた人達よりも多
くの税金を納め、社会に貢献しています。一度だって罪を犯した
ことはない。それに、私は政治家じゃない。私一人で、すべて面
倒をみろというのでしょうか? もし、そんな手本になるような、
いい人生を送った人がいるのなら、それを私に見せてください」
精霊は、その言葉に同意したかのように、スクルージがいつも
歩きなれた街並みを通りぬけて、彼を案内して行った。
歩いていく間に、スクルージは、まだあきらめきれず、自分の
幻影を見つけようとあちらこちらを見回わした。けれどもやはり、
どこにもそれは見つからなかった。
精霊は、スクルージが前に訪問したことのある、貧しいボブ・
クラチェットの家に入った。すると、母親と子供達は、暖炉の周
りに集まって座っていた。
静かだった。
非常に物静かだった。
いつも騒がしい次男と三女は、石像のように片隅で静かだった。
そして、ピーターを見上げながら座っていた。そのピーターは、
本を広げていた。
クラチェット夫人とマーサとベリンダは、一生懸命に裁縫の仕
事をしていた。そして、この三人もまた、非常に静かにしていた。
ただそこには、病弱なティムの姿はなかった。
(そして彼は子供を連れて行った。そして、彼らのまん中に彼を
置く)
どこでスクルージはそれらの言葉を聞いたのか?
スクルージは、それまでそれを夢に見たこともなかった。彼と
精霊が家に入ったので、ピーターがそれらを朗読したのに違いな
い。
なぜ、ピーターは朗読を止めたのだろう?
クラチェット夫人は、裁縫の手を止めた。そして、テーブルの
上に縫いかけの品物を置いて、顔に手を当てた。
「私の目には色が苦痛だねぇ」と、クラチェット夫人は言った。
「色が?」と、マーサが聞いた。
「時々、目がかすむんだよ」と、クラチェット夫人は応えた。
「ロウソクの光で弱くなるんだろうね。私は、お父さんがお帰り
の時には、どんなことがあっても、弱くなった目を見せたくない
と思ってるんだよ。もうそろそろお帰りの時間だね」
「遅いぐらいだよ」と、ピーターは言って、広げていた本を閉じ
た。
「お母さん。お父さんは前よりも少し遅く歩くようになったと思
うよ。この少し前の夕方も・・・」
皆、ふたたびとても静かになった。
ついにクラチェット夫人は言った。とても落ち着いた機嫌のい
い声だった。しかし、一度だけ口ごもった。
「私は知ってるよ。お父さんが歩いて・・・。私は知ってるよ。
お父さんが歩いて、病弱だったティムを肩車してね。ほんとうに
とても速く・・・」
「僕も覚えてるよ」と、ピーターは言った。
「よく見かけたよ」
「私も覚えてるわ」と、三女が同じように言った。
皆がそうだった。
「まったく、お父さんはとても軽々と肩車していたね」と、クラ
チェット夫人は言うと、また裁縫の仕事の続きをやり始めた。
「そしてお父さんは、あの子を愛していたから、それは苦痛じゃ
なかったんだよ。苦痛・・・。おや、ドアが・・・、あなた達、
お父さんよ!」
クラチェット夫人は、ボブを出迎えるために出入り口へ急いだ。
そして少しして、首に毛糸のマフラーを巻きつけたボブ(彼には
それが必要だった。気の毒な人・・・)が、入った。
ボブの紅茶が、暖炉の棚の上に準備ができていた。そして、誰
もが彼の着替えを手伝おうと、彼ら全員で先を争っていた。
それから、次男と三女は、ボブのそばに座り、そして、それぞ
れが小さな頬を彼の顔にほおずりした。
(気を落とさないで、お父さん。悲しまないで)
そう二人は言っているようだった。
ボブは、皆と一緒にいることで、とても機嫌がよかった。そし
て、家族全員で楽しく話をした。
ボブは、テーブルの上に置いてあった裁縫された品物に気がつ
いた。そして、クラチェット夫人と娘達の巧みさと速さを褒め称
えた。
「この三人でやれば、日曜日よりずっと前に仕上がるだろうね」
と、ボブは言った。
「日曜日? 今日も行ったんですね、ロバート」と、クラチェッ
ト夫人は言った。
「そうだよ、お前」と、ボブは応えた。
「お前も行けるとよかったんだけど。あの、今でも花束の絶えな
い光景をお前も見れば、どんなによかっただろう。だけど、お前
はいつでもそれを見られるからね。私は日曜日には必ずそこに行
くことを、あの子に約束したんだよ。私のかわいい。かわいい、
あの子に!」と、ボブは泣きだした。
「私のかわいいティム!」
ボブは突然、泣き崩れた。彼はティムを助けることができなかっ
たのだ。もし、彼がティムを助けることができたら、彼とここに
いる子供達は、おそらくティムを遠い存在に感じることになった
だろう。
いつかティムが教会で考えていた「自分の不自由な体を見せる
ことで、困った人に手をさしのべる人が増えれば街中が楽しくな
る」という話は、街中に噂となって口伝いに広がり、誰もが心を
暖かくし、ティムの考えていたとおりに、困った人に手をさしの
べる人が増えていった。それを見とどけて安心するかのようにティ
ムは息をひきとったのだ。
ティムの死は、街中の人を悲しませ、その葬儀の日には、街中
のほとんどの人が沿道に出て、小さな棺が教会に向かうのを見送っ
た。
その日は、街中が泣いているように、すべての教会の鐘が鳴り
響いた。
その噂は、他の街にも伝わり、ティムの墓に訪れる人が多くな
り、花束が絶えることがなかった。
ボブは、皆の集まっていた部屋を出て、階段を上って二階の部
屋へ入った。そこには、まぶしいぐらいの明かりがともされ、多
くの人からティムに贈られた沢山のクリスマスのプレゼントや飾
りが鮮やかに輝いていた。
まだ、死んだティムのイスがあった。そして、そこに誰かがい
るような気配があった。
そのイスに哀れなボブは座った。そして、彼は、ティムと一緒
に、イスを組み立てた頃を思い出していた。
しばらくして、ボブは立ち上がり、イスの小さな背もたれにキ
スをした。そして、彼は過ぎたことだとあきらめた。それから、
とても楽しそうにしてふたたび一階に向かった。
家族全員が、暖炉の火の周辺に集まった。そして、話し合った。
クラチェット夫人と二人の娘達は、まだ裁縫の仕事をしていた。
ボブは、スクルージの甥がとても親切にしてくれたことを皆に
語り始めた。その甥とは、ただ一度しか会ったことがなかった。
その日、ボブは街の路地でスクルージの甥が自分の方に向かっ
て歩いて来るのを見かけ、立ち止まった。
「貴方をほんの少し知っています」と、ボブは言った。
甥は、ボブの顔を見て、心苦しそうに近づいて立ち止まった。
「どこかへお出かけですか?」と、ボブは聞いた。
「貴方が以前、事務所で愉快な話をされたのを聞きました」
「クラチェットさん。私は心からお詫びします」と、甥は言った。
「そして、貴方の素敵な夫人にも心からお詫びいたします」
ボブは、この甥がどうしてクラチェット夫人のことを知ってい
たのか分からないとつぶやいた。
「何を知っているのがですって、貴方?」と、クラチェット夫人
が、ボブの話に割り込んで聞いた。
「なぜ、お前が素敵な夫人だと」と、ボブは応えた。
「皆、そんなことは知ってるよ」と、ピーターは言った。
「とてもよく見ているね、それでこそ私の子だ!」と、ボブは言っ
て微笑んだ。そして、話を続けた。
「心からお詫びします」と、スクルージの甥は言った。
「そして、貴方の素敵な夫人にも心からお詫びいたします。いず
れにしても、もし私が貴方に役に立つことができるなら・・・」
甥は、ボブに名刺を渡した。
「私は今、アメリカに住んでいますが、こちらにも住まいと事務
所があります。どうか来てください」と、甥は言った。
話し終わったボブは泣いた。
「彼は私達のために、何でもすることができるかもしれなかった。
彼のとても親切な対応が、すごくうれしかったよ。それは本当に、
彼が私達の病弱だったティムを知っていてくださったように思え
た。そして、私達と同じように感じたよ」と、ボブは言った。
「きっと彼はいい人ですよ」と、クラチェット夫人は言った。
「お前もそう思うだろ」と、ボブは言った。
「もし、お前が彼にお会いして、そして話したら、私の言ってい
ることが正しくなくても驚かないでくれ。彼は、ピーターに、もっ
と良い勤め先を紹介してくれると言ってくださった」
「ピーター、よくお聞きよ」と、クラチェット夫人は言った。
「そして、それから」と、ベリンダが言った。
「ピーターは誰かと会社を経営してるでしょうね。そして自分で、
会社を創るのよ」
「お前も加えてやるよ!」と、ピーターは言い返して、ニコッと
笑った。
「それは、あるいは本当かもしれないね」と、ボブは言った。
「そのうちに。けれども、そうなるには沢山の時間がいる。なぁ、
お前。だけど、どんなに時間がかかってもその前に私達は、お互
いに別れることになるだろうね。きっと私達は・・・、かわいそ
うなティムを忘れないだろう。皆、そうだろ。最初に遠い存在に
なったのは、私達の中で、あの子だったもの」
「決して、お父さん!」と、皆が叫んだ。
「そう私は思ってるよ」と、ボブは言った。
「私は分かってるよ、お前達。私達が思い出す時、あの子がどん
なに忍耐強く、そして、あの子がどれくらい愛情にあふれていた
か。あの子は弱かったけど、かわいかった。何もしてやれなかっ
たけど、不満も言わず、私達を明るく、楽しくしてくれた。街中
の人たちにも愛嬌を振りまいて、歌も上手だったね。あの子のお
かげで、救われた人が大勢いるよ。私達は、お互いにたやすくケ
ンカはしないだろう。そして、かわいそうなティムを忘れること
は・・・」
「いいえ、決して、お父さん!」と、また皆が叫んだ。
「私はとても嬉しいよ」と、ボブは小さく言った。
「私はとても嬉しい!」
クラチェット夫人はボブにキスをした。それから、二人の娘達
も彼にキスをした。そうしたら、次男と三女も彼にキスをした。
そして、ピーターは彼と握手をした。
(病弱なティムの魂よ! 汝の子供らしき本質は、神から与えら
れたもうた!)
「精霊様!」と、スクルージは言った。
「あの病弱な、なんの地位も、財力も権力もない、あのティムが
多くの人達に暖かい心を芽生えさせたのですね。たしかに、短い
人生ですが、手本となる人生だったと思います。ああ、かわいそ
うに・・・。私もあの子のことは忘れません。絶対に・・・。ど
うやら私達の別れる時間が近づいたような気がいたします。精霊
様のお持ちの砂時計の砂が残りわずかになりましたから。私のあ
の亡がらは、どうなるのでしょうか? どうか教えて下さいませ」
精霊は、以前と同じように何も言わず、スクルージを連れて、
まっすぐに行った。そして、どんなことがあっても立ち止まらな
かった。しかし、スクルージが少しの間、止まるように懇願する
声に気がついた。
「この路地は」と、スクルージは言った。
「今、私達が急いで通って来たここは、私が商売をしている場所。
しかも、長い間、使っている事務所でございます。その建物が見
えます。今はどうなっているのでしょうか? どうか見に行かせ
てくださいませ」
精霊は立ち止まった。その手はどこか他の所を指し示していた。
「その建物は向うにございます」と、スクルージは言った。
「ほんの少しの距離です」
無常な指は変化を受けつけなかった。
スクルージは、彼の事務所の窓の所へ急いで、中をのぞいて見
た。そこはやはり、事務所だった。しかし、彼のではなかった。
備品が前と同じではなかった。
イスに座っている人物も知らなかった。
精霊は前の通りを指さしていた。
スクルージは、あきらめて精霊に従った。
やがて精霊とスクルージは、鉄の門まで到着した。
スクルージは入る前に、ちょっと立ち止まり、辺りを見た。
教会の墓地。
そこは価値のある場所だった。
壁をめぐらせた家のそばで、芝生や雑草がはびこっていた。
草木の生長は終わり、枯れていた。
得体のしれない生き物が、とても多く埋まり、悪臭を放ってい
た。
毒々しい鮮やかな色のキノコが、おうせいな食欲で太っていた。
価値のある場所だ!
精霊は立ち止まって、その中の一つの墓石を指さした。
スクルージは、ブルブルと震えながらそちらに歩み寄った。
それでも精霊は、まったくそのままだった。しかし、スクルー
ジは恐れた。彼はその厳粛な姿の中に新しい意味を見出した。
「あなたの示す墓石に私が近づく前に・・・」と、スクルージは
言った。
「私の一つの質問に答えて下さい。これが私の墓ということでしょ
うか? それとも、ボブの子のティムの墓ということでしょうか?
どちら?」
スクルージは、自分には立派な墓を造れるぐらいの財産があり、
これは貧乏なボブの子のティムの永眠する墓で、精霊はまだ自分
に何かの教訓を与えようとしていると思った。
まだ精霊は下向きに示し、そして、それは立っている殺風景な
墓石に向けられていた。
「精霊様のお持ちの砂時計は、きっと私の人生が終わる前兆を教
えてくれるのでしょう。どちらにしても、もし、この悲しみを我
慢したら、精霊様は、私を導いてくださるのですね」と、スクルー
ジは言った。
「しかし、もし、私が人生をやり直したとしたら、その終わりは
変わるでしょう。ここで何を精霊様は私に示そうとしているので
しょうか? それを教えてください」
精霊は依然として動かなかった。
スクルージは、墓石に向かって忍び足で歩いた。彼は震えなが
ら行った。そして指に従い、墓石の上を読むと、誰も訪れること
のないこの墓石に彼自身の名前があった。
エベネーザー・スクルージ。
「そんなはずはない! 私の墓はもっと立派なはずだ!」と、ス
クルージは膝をついて叫んだ。
精霊の指は、墓石からスクルージの方に向けられた、そして、
また元に戻った。
「なぜこんなことに・・・、精霊様! 私がユダヤ人だからです
か? もしそうだとしたら、マーレーにあんな立派な墓は出来な
かったはず・・・。ああ、まさか、私は財産を誰にも指一本、触
れさせないと、遺言でもしたのでしょうか? 今までの私なら考
えられることです。おお、なんてバカなことを!」と、スクルー
ジは叫んだ。
スクルージは、精霊が哀れむような目で、自分を見ているよう
に感じた。
「精霊様!」と、スクルージは泣いた。そして、精霊のローブを
グイッとつかんだ。
「お聞き下さい。私は以前の私ではありません。私は以前のまま
ではいられないでしょう。私はそうに違いありません。もし、こ
の体験がなければ、私は気づくことが出来ませんでした」
精霊の持っている砂時計の砂が、あと少しとなった時、スクルー
ジは胸を締めつけられるような苦しさを感じた。
「もし、私に・・・望みがまったく・・・ないのでしたら・・・。
なぜ・・・私に・・・こんなに・・・辛い・・・体験をさせ・・・
るのですか?」と、スクルージは息絶え絶えに言った。
この時、初めて精霊の手は震えるように見えた。すると、スク
ルージの苦しさが少し和らいだ。
「善良なる精霊様!」と、スクルージはおいすがった。地面を下
へ上へと、彼は精霊の前にひれ伏した。
「精霊様のお力で、私にチャンスをお与えください。そして、私
に慈悲深い行いを・・・。私は約束します。私はまだ変われます。
私は精霊様から見せていただいた、これらの幻影により、もっと
改心いたします」
情け深い精霊の手は震えた。
「私は心の底からクリスマスを尊びます。そして、一年中それを
守ってみせます。私は過去のことを心に刻んで暮らします。現在、
そして、未来のことも・・・。すべての精霊様へ。私は努力いた
します。私は皆様に教えていただいた教訓をよくかみ締め、面倒
なことから目をそらしたりはいたしません。おお、私に、この墓
へ入るまでの少しの猶予を与えてもよいと、私におっしゃってく
ださい!」と、スクルージは祈った。
精霊は苦悩しているようだった。
スクルージは精霊の手をつかんだ。
精霊はそれを離そうとした。しかし、スクルージは強く、心か
ら握り締めた。そして、精霊を引き止めた。
精霊は、より強く、スクルージを突き放した。
スクルージは、手を上げて最後の祈りを捧げた。すると、彼の
運命は永久に取り消された。彼は精霊のフード、そしてローブの
中に変化を見た。それは縮まり、崩壊した。そして、ベットの下
の支柱の中へ小さくなった。