015:絵描きと災厄獣 - 前編 -
「ひっ……ッ!」
叫んでしまいそうになるのを、彼は何とか堪えることができた。
木の陰に潜んで、必死に息を殺す。
(何なんだ、あれは……)
先ほど、この辺りでは珍しい――とはいえ、最近は多くなっている気がするが――大きめの地震があった。
家屋が倒壊するほどではないだろうが、家具くらいは倒れた家もあることだろう。
その直後に、彼はあの異形の姿を見つけたのだ。
あの異形が居たから地震が起きたのか、地震が起きたからあの異形が現れたのか――そこまでは彼に判断できなかったが、偶然と言い切れるほどの理論を彼は思いつくことができなかった。
ここは、カイム・アウルーラの北東。
カイム・アウルーラの街と聖パッシフェル・ツァイト王国を繋ぐ街道。その途中にある、木漏れ日が示す林道という土地だ。
元々は乱雑に木々が生える土地に、道を通しただけの場所だ。その道を通すため切り倒された為、街道周辺はやや木々の数が少なく、重なり合う枝葉の隙間から漏れ落ちる陽光が、道を迷わぬようにと示しているように見えることから、この名前が付けられた。
反面で、その街道周辺はともかく、そこから少し離れると、徐々に鬱蒼としはじめる。そこから先は野生の動物や魔獣も少なくない。
だが、獣達とて馬鹿ではない。
街道を行き来する人間は、襲わなければ返り討ちにされないと学習しているらしく、街道を行く限りは滅多に襲われることはない。
逆に言えば、街道から離れ雑木林の奥へと足を踏み入れれば、命の保証はされない道とも言える。
どちらであれ、人も獣も馬鹿では生きていけないという命の在り方を体現しているような場所だ――と、彼は考える。
同時に、ならばその危険な雑木林の奥へと足を踏み入れている自分はなんなのであろうか――とも、彼は考えた。
結論は単純だ。馬鹿なのだ自分は。
絵描きとしてスランプを抱えた自分は、何も描くことを出来ないままキャンパスの前に座っているのも意味はないとして、普段やらないようなことを、あるいは見たこともないようなものを見たいと、そう思った。
その結果が、この場所へ来ることだった。
それが、もしかしたら間違いだったかもしれない。
いや、そもそも危険だと言われている場所に足を踏み入れたことそのものが間違いなのだ。
どうして先人が、そこを危険だと言っていたのか。
自分に足りなかったのは、危機感や知識ではなく、先人への敬意だったのではないか。
とにもかくにも、彼はそんなことを考えながら、息を潜め続ける。
うぞうぞと木々の間を徘徊し、ぐねぐねとした手を伸ばして歩く。そんな異形が自分から遠ざかっていくのを見ながら、彼はゆっくりと後退していく。
気付かれないように、気付かれないように――どうにかこうにか、異形が視界から完全に消えたのを確認すると、彼は持ってきていたキャンパスも筆も放り投げて、カイム・アウルーラ目指して走り出すのだった。
災厄獣。
おとぎ話や神話に出てくる、人間に対する脅威の名を思い浮かべながら。
♪
「……っんとにもうッ!」
苛立ちを隠さず口にしながら、ユノが地下から上がってくる。
「コレクション。大丈夫だった?」
「一応はね。棚に関しては、こういう時に倒れないようにはしてあるから」
心配そうに訊ねてくるユズリハに、備えあって嬉しいなって奴よ――と返しながら、ユノは嘆息する。その表情はちっとも嬉しそうではない。
「最近、頻度高いよね、地震」
「微震程度は時々あったけど、ここまで大きいのが数度っていうのはね」
「ソルティス山って噴火するんだっけ?」
「もう五百年近くは噴火してないって話だけど、どうなのかしらね」
ユズリハの疑問に答えながら、ユノはダイニングに椅子に腰を掛けた。
「まぁでも、この地震ってソルティス山じゃないと思うわよ。
確証はないけど、北からっていうより、南側からっぽい気がするし」
「そうなの?」
「さぁ。確証はないって言ってるでしょ」
ユノが腰を掛けるのと入れ替わりにユズリハは立ち上がり、キッチンへお茶を淹れに向かう。
すでにある程度は準備はしてあったのだろう。手早く用意を終えて、戻ってきた。
温かな五華茶を口にすると、ようやくひと心地という気がしてくる。
「この後、キズモノチェックするんでしょ?」
「ええ。大事な花導品達に、ケガがないか確認しないと」
地震で棚から落ちたものも、いくつもあるのだ。
大きな被害がないのは確認できたので、今度はさっと見ただけでは確認できないものを調べていく必要がある。
「ごめんください」
二人で話をしていると、店先から声が聞こえてきた。
このダイニングは店舗部分へと扉一枚で繋がっている。お客さんの呼び掛けが聞こえる程度の薄壁なのだ。
「ユノはお茶してて。必要があったら呼ぶから」
「そう? じゃあお願い」
ユズリハはユノを制して、椅子から立ち上がると、店舗部分へと繋がっている扉を開けた。
開けっ放しにしたまま接客を始めたのは、ユズリハとお客さんとのやりとりを聞き取りやすくするためだろうか。
そんなことを考えていると、お客さんと思われる聞き覚えある女性の声が響いてくる。
「ユノちゃん、ユズ姉……緊急事態かもしれないッ!」
切羽詰まって聞こえるその声に、
(つまり、あの子達のケガを見る余裕がないかもしれないってコト……?)
ユノはうんざりとした心地で、五華茶を啜るのだった。
♪
「アホらし」
実用性の低い、フリル過多の侍女服に身を包んだ女性――サイーニャの説明を聞き終えたユノの感想としてはそんなものだった。
道すがら、空腹だったのを思い出して買ったリンゴをかじり、ユノは億劫そうに嚥下する。
戦闘前提装備をして、綿毛人協会に来て欲しい。
綿毛人協会の従業員の一人で、顔見知りであるサイーニャ・ネリアスに慌てた様子でそう頼まれれば、ユノとて無碍にする気はない。
しかし、サイーニャのいう危険は、ユノにとっては比較的どうでも良いものだった。
「えっと、ユノちゃん」
赤フレームのメガネのツルの付け根に人差し指で触れ、ズレを直しながら、サイーニャはややひきつった顔をする。
ユノは、少しそばかすが見えるものの、愛嬌あるサイーニャの顔をちらりと一別して、改めて告げた。
「アホらしいって言ったの」
シャクリ……と、手に持っていたリンゴをかじって、ユノは嘆息する。
「災厄獣って、本気で思ってる?」
「え? でも、目撃した人は、林道周辺じゃまったく見かけたコトがない異形だって……」
緩く結んだ左右二本のお下げを揺らしながら、不安そうにするサイーニャに、ユノは足を止めた。
「確認するに越したコトはないと思うわ。でもあたしは、確認するだけで終わる話だと思ってる」
「ユノ、根拠はあるの?」
「あるけど、言ったところで納得しないだろうし、納得したって結局は確認業務が発生するから、言う必要はないとも思ってる」
サイーニャに加勢するように質問をしてくるユズリハに、ユノはそう返すと、またリンゴをかじった。
「あたしからしてみると、この大きめのリンゴを食べきれるかどうか――この問題ってその程度の話だと思うのだけど」
「食べきれるんじゃない? 今日のユノって朝ご飯も食べてないし」
「なら、その程度の問題なのよ」
肩を竦めて、踵を返す。
「帰る。あたしの想像が外れて、本当に災厄獣クラスの魔獣が出てくるようなら、改めて呼んで」
「え? あの、ユノちゃんッ!?」
バイバイと手をひらひらさせて去っていくユノを、一緒についてきていたドラも追いかけていく。
ユノとドラの後ろ姿に、サイーニャは蜂蜜色の瞳を戸惑いで揺らす。その背中をユズリハが叩いた。
「ユノにはユノの考えがあるってコトでしょ。
行こうサイーニャ。ユノも言ってたけど、災厄獣の正体が何であれ、居るかもしれないって時点で調査はしないとだしね」
そうサイーニャを説得しつつも、ユズリハは、
(ユノは単純に花導具を診たいだけなんだろうなぁ……)
そんなことを考えていた。
♪
綿毛人互助協会。
風に乗る綿毛のように、あちこちをさまよう旅人――綿毛人たちを助ける為に生まれたこの協会は、比較的新しめの互助協会でありながら、その信用の高さは、他の互助協会の追随を許さないとされている。
この互助協会と呼ばれる組織の始まりを正しく知っている者はいない。気がつけば広まっていたシステムだ。
職人が、師より独り立ちの許可を得ても、そうそう上手くいかないのが世の常だ。
そこで、互助協会の出番である。
協会ごとに規定は違うが、加盟さえしていれば、定期的に仕事を斡旋してもらえるので、駆け出しでも食うのに困ることが少なくなる。
他にも、協会を間に挟むことで、職人と依頼人の間でのトラブルに仲裁をしてくれたり――その代わり手数料は取られるが――、お金のみではあるが財産の預かりなどもしている。
預けたお金は、預けた支部でなくとも、別の支部でおろすことができるので、遠出する時なども、出先の街に協会があるなら、わざわざ予算として大量の現金を持ち歩く必要もない。
いずれかの職人がそういう協会を立ち上げると、他の職人も真似て互助協会を作り始め、今では互助協会の存在しない職人の方が少ないくらいになっている。
そんな中で、綿毛人互助協会は異質だった。
職人でもない綿毛人をサポートするという目的もそうであるし、職人の互助協会と違って、職業専門の技能や知識を有しておらずとも、誰でも加入できるという点も、異質であるといえよう。
基本的に自由人な綿毛人をサポートをする為に、街中の困り事・相談事を募集しているというのも特異といえば特異だった。
それらを依頼という形で、協会が受けて、綿毛人に解決させることで報酬を渡す。
それが、綿毛人互助協会の支援の仕方であった。同時にその在り方だからこそ、綿毛人以外の多くの人に受け入れられる要因にもなっていた。
信用ならない根無し草の余所者という意味で使われていた綿毛人という言葉を、今の旅する何でも屋という意味合いに変えたのは、間違いなく綿毛人協会であり、そういう意味では正しく支援してみせたとも言える。
そして、そんな協会としての異質な在り方も綿毛人を手助けするのだと考えれば仕方がない面もあるのだ。
綿毛人というのは、何かに認められたり技術を持っていたりするからなるものではなく、誰でもなろうと思えばなれるし、自分がそう名乗れば、旅をしてなくても、綿毛人だと言う者もいるくらいなのだから。
だからこそ、誰にでも門戸を開いている。そして、そういう面を好む職人も少なからずいる。
自身の技能職の互助協会を気に入らないというユノのような職人の多くは綿毛人互助協会に加入することが多い。
何より、支店数がどの協会よりも多いのだから、あちこちの土地を巡る放浪職人などは、職人協会よりもずっと便利なのである。
そして、時には基本的に自由人である綿毛人を、一つの目的の為に集めることもあった。
大規模な問題に対して、人手が必要な時などは、国やら街やらの依頼で、綿毛人を招集することもある。
今回の一件――協会の独断ではあるが――はまさにそれだ。
災厄獣。
民間では、おとぎ話や神話に出てくる、人類の敵たる恐ろしい魔獣という認識だろう。だが綿毛人たちや、国の上層にいる政治家たちからすると、認識はまったく異なる。 災厄獣は実在する、生きた災害だ。
国内に出現が確認されようものなら、国の最強戦力を投入し、さらには有志の実力者を募って、合同で退治にあたる必要がある存在。
だからこそ、立場を問わず綿毛人互助協会に加盟している実力者を集めようとしたのだ。
実際に、この街を拠点にしている者や、カイム・アウルーラ滞在中の者など、結構な数がこの協会のロビーに集まっていた。
にもかかわらず――
「ユノはアホらしいと帰ったわけか」
「うん」
アレンが呆れ顔を浮かべ、ユズリハが苦笑してうなずく。
「地震で花導具が棚から何個も落ちちゃったしね」
「なるほど。なら、仕方ないか」
ユノのことをよく知っているアレンや、他の綿毛人たちも仕方がないと苦い笑みを浮かべる。
だが、知らない者からすれば、面白くなかったようだ。
「何なんですかその人。どんな実力者だか知りませんけど、花導具と災厄獣のどっちが重要だと思ってるんですか?」
「花導具だと思うよ」
「花導具だよな絶対」
抜群の信頼を持ってユズリハとアレンが答えると、文句を言った若き綿毛人は絶句する。
「本物の災厄獣が出てくるなら、渋々と顔を出してくれるだろうが、そうじゃないなら、あいつにとってはどうでも良いコトなんだろう」
「だよねぇ。今回の出来事なんて、大きなリンゴを食べきれるかどうか程度の問題でしかないとか言ってたし」
「ユノは見かけによらず結構食うから、軽いだろリンゴ一つくらい」
「なら、その程度の問題なんだってさ」
「意味がわかりませんよ、その人ッ!」
やはり納得できないのか、若き綿毛人は叫ぶ。
だが、アレンは今のユズリハとのやりとりで、だいたい理解した。
何やら喚いている若人は無視して、アレンは視線をサイーニャへと向ける。
「サイーニャ」
「はい」
アレンは協会に入ってきた時は、今の若き綿毛人と同じような表情をしていたサイーニャに問う。
「どう思ってる?」
「突然引き返した時は驚きましたけど、冷静になってから、ユズちゃんの頭の良さと性格を考慮すると、ある程度は納得できる答えは自分の中で用意できました」
基本的にフランクなサイーニャだが、今いる場所は協会のロビーだ。
協会の従業員であり、今回は多数の綿毛人を召集している以上、この場でフランクな態度を取るのは問題があるので、丁寧な口調と仕草で、アレンに答える。
「確証はないので、答えは控えますけれど」
「構わねぇよ。そういう言葉が出てくるのであれば、俺と同じところへ落ちついたんだろうしな」
ユノとそれなりに友好な関係を築けている者であれば、そこへたどり着くだろう。
なるほど、アホらしいと言いたくなる。
「自分たちだけで納得しないでくださいよ」
先の若き綿毛人の少年が不満を口にするが、彼を見ながらユズリハは肩を竦めた。
「若いなぁ」
「お前の場合、幼いだろうが」
「この状況下で、相手を見た目で判断しちゃう辺りが殊更に若い」
「ガキ……ッ!」
「誰かが必ず答えを与えてくれると思うところと、そうやってすぐ頭に血を昇らせる辺りも若い」
淡々と告げるユズリハに、若き綿毛人は拳を握る。
そんな彼の肩に、大柄な男の手が乗った。
「やめとけ。お前さんじゃユズにゃ勝てねぇよ。口もケンカもな」
それが理解出来てないから、若いと言われるのだと、ベテランの風格を持つ男から暗に言われれば、彼も黙らざるを得ない。
「ほう。心境はどうあれ、オレの説得で一応黙って見せるコトは出来るのか。見込みはあるな。
本当に若い奴は、静止するやつの手を振り払ってでもユズを殴ろうとするだろうさ」
大柄な男はそう言って笑った。
状況が落ち着いてきたと判断したアレンは、軽く手を叩いて周囲の注目を集めて告げる。
「何であれ……確認作業は必要だ。
ガチで災厄獣がいた場合、その確認作業すら死に物狂いになるだろうけどな」
「災厄獣に関してピンと来ない人はね、この間、私が切り捨てた寵愛種のスタッガーを思い出すといいかも。
まったくもって正しい例えではないけど、イメージ的な話ね。ああいう感じにパワーアップした動物や魔獣が、見境なしに暴れ回るところとか、想像してね」
ユズリハの補足の意味を理解できた者たちの顔がひきつった。
スタッガーであれなのだ。元々、凶暴な動物や魔獣が肥大化して暴走したらどれほどのことになるか、想像ができない。
「それを踏まえて、この俺――アレン・ジルベントは、状況確認の先見隊を希望する。最悪、一人で構わない。その方が身軽だしな」
「私がついて行くのはダメ?」
「ユズリハなら構わないぞ。必要なら躊躇わず切り捨てられるしな」
「お互い様でしょ。恨みっこナシだよ?」
「当たり前だ」
本当に災厄獣がいた場合、どちらかが足止めをし、片方が逃げる算段だ。
置いて行かれた方は、恨み言を言ってはならない。これはそういう口約束だった。
それを理解できたからこそ、多くの者は敢えて手を挙げなかった。
この街を拠点にしている者たちは、アレンやユズリハが、見掛けによらない実力者であることを知っている。
そんな二人が、ここまで言うのだ。生半な腕で付き合うことなど出来ないと、判断した。
それに、アレンとユズリハは、それが必須な場面になれば仲間や友すら切り捨てる冷徹さを持ち合わせている。
同時に、どちらの役割も、自らの命核を掲げてでもやり遂げる覚悟が必要なのだ。
「おれも行かせてください」
アレンとユズリハが軽口を叩き合うように、言外に命核を掲げあう話をしているところへ、先の若い綿毛人が手を挙げた。
それに、アレンとユズリハは同時に答える。
「いらん」
「邪魔」
顔をひきつらせながら反論しようとする彼を制して、サイーニャが一歩前に出る。
「ならば、私はどうでしょうか?」
「どうなんだ、ユズ?」
「サイーニャなら問題ないと思うよ」
「何で、受付嬢がよくておれがダメなんだよッ! おれだって、命核を掲げるつもりだッ!!」
彼はサイーニャを押しのけながら、そう怒鳴る。
「軽く掲げるモンでもないだろ」
「そうだよね。軽く考えすぎてない?」
声を荒げる若き綿毛人に、アレンとユズリハは軽い調子で、肩を竦めた。
「何で他の人たちが名乗りを上げないのか――それを考慮しないで、浅慮に立候補するものでもないよ」
「優しいよなぁ……ユズは。もっとハッキリと言ってやったらどうだ?
自意識過剰の身の程知らずは邪魔だって。軽々しく命核を掲げる覚悟はあるなんて口にするってのは――信用できない奴とか、覚悟を履き違えた自殺志願者だとか思われるだけぜ」
「だけどッ、アンタ達だってそんな感じで言ってたじゃないかッ!」
「口には出してねぇよ」
「わざわざ出す必要がないしね」
「そんな屁理屈……ッ!」
なおも言い募ろうとする若き綿毛人に、
「うるせぇんだよ」
――冷たく乱暴な言葉を投げかけたのはサイーニャだった。
「命核を掲げるとか、覚悟があるとか、そうやって軽々しく口に出来るところがガキだって、さっきからユズ姉も、アレンも言ってンだろうがッ!!」
おそらくは想定していなかっただろう言葉遣いに、彼は目を見開く。
そんな彼の胸ぐらを捕まえて、メガネの奥の瞳を鋭く光らせながら、サイーニャは告げる。
「命核ってのはな、割と簡単に幻蘭の園へと旅立っちまうもんさ。だけどな、だからって決して軽いモンじゃねぇんだよ。命核ってのはよ。例えお前みてぇな、勇気と無謀をはき違えてる無知なガキのモノであろうと、な」
掴まれた胸ぐらを乱暴に手放され、そのまま尻餅をつく少年を一瞥すると、サイーニャはアレンとユズリハの方へと向き直り、非常に丁寧な仕草でスカートの裾を軽く持ち上げる。
そして、それはそれは愛らしい笑顔と共にお辞儀をした。
「それではお二人とも、よろしくお願いいたしますね」
それを見ながら、アレンは半眼で訊ねる。
「おいユズ。誰の仕込みだ?」
「四分の一くらいは私の責任だろうなぁ……とは思ってる」
「残りは?」
「西の女帝と環境?」
「育ちがそっちなのか。納得」
ユズリハの言葉に小さく息を吐き、気を改めて顔を上げる。
「まぁ、とにかく――俺たちは準備が出来次第すぐに出発する。
他の連中も、ガチで災厄獣がいた場合は、領地挙げての討伐になりうる。
協会から正式に、問題ナシって通達が出るまでは、全員準備と覚悟を怠るなよッ!!」
アレンのあげる声に、綿毛人協会のロビーが沸く。
こうして――アレン、ユズリハ、サイーニャという災厄獣調査の先見隊が結成されたのだった。
その盛り上がる様子を、ロビーの片隅で眺めている男が一人。
本当は仕切って、アレンに対して調査依頼を正式に頼む予定だったのに、まったく出番がなかった男。
皆が、勝手に盛り上がり、それでいてちゃんと纏まっているならそれで良いと、泣き笑いを浮かべながら、自分に言い聞かせるように独りごちる。
「……うん、僕は裏方。あの輪に入れなくても、寂しくないさ、寂しいもんか……」
彼はフォーゲル・ドーン・ノーミット。
影響力はあるのに本人の影は薄いと従業員たちに言われている、この綿毛人互助協会カイム・アウルーラ支部の支部長であった。
サイーニャ……というか、この街の綿毛協会の制服が、フリル過多のメイド服なのは、支部長の趣味です。そして制服を見て何かを拗らせてしまう利用客が時々いるとかいないとか……そういうところが、彼が無駄に影響力が高いと言われる所以。