完璧すぎる少年は眠り、ココアが未知の世界を切り拓く
五歳の時、弟が生まれた。その時から、俺はいつも完璧を目指していた。両親を盗られそうで怖かった。独りになってしまいそうで怖かった。だから、苦手だったスポーツを頑張って、運動会ではどんな種目も一位がとれるようになった。縄跳びも、鉄棒も、クラスの中で一番上手かったのは、この俺だ。本当はやりたくなかった勉強も、毎日毎日頑張って、九十五点以下の点数は、取ったことがない。おかげで、親は盗られずに済んだ。俐斗は、良い子だ、と褒められた。しかし……。親以外の大切なものを得られたかといえば、否。上手くできても、好きなスポーツなんてない。満点を採れても、好きな教科なんてない。
「完璧すぎて、自分が駄目な人間に思えてくる」
「元島って、本当に人間かよ。 出来過ぎてて怖いわ」
「俐斗は、すげえと思うよ。でもなあ……」
皆、同じようなことを言って、俺のそばから離れていった。幼いころの小さな嫉妬心が、学校生活をすべてぶち壊した。唯一、珀だけは離れていかなかった。変わったやつだ、あいつは。逆にいえば俺は、珀以外に、親しい奴がいない。
中学校に入ってからは、テストで、わざと間違えるようになった。でも、九十五点以上は取れるように。
「つまらない」
「退屈だ」
いつからか、そんな風に思うことが多くなった。退屈な毎日。つまらない世界は、俺を置いて今日も廻る。
心優しい母が作ってくれた朝ご飯。俐斗たち一家はそれを思い思いに食していた。父と母と、俐斗とその弟の彩斗の四人家族。よくある一般家庭の朝の風景だ。
「無計画な奴らだ」
朝のニュースの感想のひとつを俐斗はボソリと呟いた。どっかの会社の不祥事に対してだ。無論、完璧に計画を立てていても、不祥事を起こしてはいけないと俐斗は思っていたが。
「出たよ、にーちゃんの完璧主義」
「うるさいな」
そう言って、隣の生意気な弟の鳩尾を一突きする俐斗。
「ぐはぁっ!」
――オーバーリアクションだっての。もう一発かましたいところだが、親の手前、やめておくか。
それに、俐斗には時間が無かった。後、十分で食べ終えたい俐斗には彩斗なんぞにかまっている暇はない。
「行ってくる」
「テスト、頑張るのよ~」
「あいよ」
今日も退屈な世界に足を踏み出す。いつもとなんら変わりのない、つまらない一日が始まる。
俐斗が外に出ると、太陽はすでに空高く昇っていた。
「おはよう、俐斗」
「ああ」
ここらで合流するのも、俐斗は計算積みであった。まあ、あくまで珀が寝坊しない限りの話なのだが。
――いつも思うが、その髪型は熱くないのだろうか。
男子にしては、長めの髪。もともと色素が薄い蒼輝の茶色い髪は、太陽に照らされ、さらに日本人離れした、薄い色に見える。
「どうかした? 俐斗」
「いや、何でもない」
十センチも上から見下ろされたのでは、答えづらかった。
珀は俐斗よりも背が高い。俐斗だって、決して背が低いわけでもないが、珀は特別背が高い。
――こいつ、いつも明るいけど、病気なんだよな。
ひたすら、背が伸びていく病気。筋肉があまりつかずに、背だけが伸びていく。珀の体型は、針金のようにヒョロヒョロしている。
「ああ~もう、どうしよう……。今日、テストだよ?」
何の脈絡もなく、珀は言った。
「無計画でいるから悪い。前に悪かった所を徹底的に復習し、授業で悪かった所もまた徹底的に復習すればいい。簡単なことだ」
「うう、俐斗はそうかもしれないけどね?」
「珀だって、頭が悪いわけじゃないだろう?」
俺よりは悪いが、という言葉は心の中にしまっておく。
「いつも五教科合計、四百七十点越えの人に言われてもな~」
自信出ない、と珀は言う。
――こんな風にして、珀もいづれ、俺の傍から離れて行ってしまうのだろうか。完璧すぎて自分が駄目な人間に思えてくる、と言って。
「で、俐斗の今回の目標は?」
「勿論、全教科九十五点以上だ。高二の夏だからと言って、気を抜くわけにはいかないからな」
笑いながら俐斗は言った。感情があまりこもっていないような乾いた笑い。
「……珀。最近思っていることがあるんだ」
「何?」
「こんな人生やり直せるなら、やり直したい、と。馬鹿な願いだよな」
変なことを言ってしまった、と俐斗は思った。蒼輝は、しばらくして答えた。別に、反応に困っていたのではない。答えに困っていた。
「今までがどうであっても、これからの行動を変えていくことはできるんじゃないかな?」
まさか、真面目に言葉を返してくれるとは思っておらず、俐斗は驚いた。笑って流されるかと思っていた。
「ありがとな、珀」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
「そっか」
「ああー、終わった、終わった。二つの意味で」
――これだから、無計画な奴らは……。終わった、終わったというほとんどの人は、二つの意味を込めて言っている。
「まあ、俺らがどんなに頑張っても一位はあの俐斗サマだろ?」
「だよなー。やっぱ天才は違うよな」
――勝手に言ってろ、馬鹿どもが。別に、俺は天才なんかじゃない。お前らは、俺に勝る努力をしたのか?
俐斗は、ぐちぐち言う彼らに、そう問い質したい気分だった。ただ、それを行動に移せば、さらに面倒な事になるのは明白だった。
「俐斗、どうだった?」
「ああ、いつもと変わらな―――」
そう言いかけた俐斗は、急に頭が締め付けられるような感覚に襲われた。
「だ、大丈夫!? 俐斗、保健室に行った方がいいよ!?」
急に椅子から崩れ落ちた音に珀だけが反応したわけじゃない。皆が反応した。
――こうやって来てくれるのは、珀だけか。ま、別にどうでもいいが。
「ちょっと、保健室に行ってくる」
「うん……」
「失礼します」
保健室や病院のあの、多種多様な薬が混ざった臭いが、俐斗を包み込む。
――嫌いな臭いだ。まあ、こんな臭いが好きな人なんて、天然記念物並みに少ないと思うが。
「あらあら、珍しい来客もあるものね。どうしたの? 元島君」
――相変わらず、変わった雰囲気を持つ先生だ。まるで、この世界に存在していることが、不思議なような……。何を考えているんだ、俺は。あまりの頭の痛さに、思考回路がやられてしまったか?
「ところで、どうしたのかしら?」
「俺としたことが、テスト勉強にかまけて、体調管理を怠ってしまったようです」
俐斗は、帰りのショートホームルームをやっている頃だということを考慮して、熱があるかないかだけ確かめて、家に帰る気でいた。しかし、先生は、マグカップにコポコポとお湯を注ぎ、茶色い袋を開けてその粉と、何か良く分からない物を入れた。
――夏なのにもかかわらずホットココアか。
「勉強を頑張ることは大事だけど、たまには体を休めることも大事よ。はい、これ、飲みなさいな」
「これが、噂の先生特製ココアですか」
「噂なの?」
保健室で出されるココアにはある黒い噂があった。ココアを出された生徒が次々と行方不明になっているのだ。行方不明になっているにもかかわらず噂が出ているのは、保健室の麗しい先生の手作りココアを放っておけなかった強靭な男たちがいたせいだ。
「はい、美味しいと評判です。しかし、このココアを飲んだ生徒が、次々と行方不明になっているのは、穏やかじゃないと思いますが」
先生は、必死だった。このことをどうやってごまかすべきか、と。この、すこぶる頭のいい生徒を欺くための言葉を必死になって探していた。
「……このココアは、具合が悪い生徒に出すことよりも、心の健康に問題がある人に出すことが多いわ。結果的に功を奏さずに、不登校になってしまっているだけよ。大体、貴方は、考え過ぎるきらいがあるから、気をつけた方がいいわよ?」
「そうですね……」
そう答えたものの、俐斗は腑に落ちないでいた。
「もう、つべこべ言わずに飲みなさい」
湯気を立てている、いかにも熱そうなココアを口にする俐斗。
――やっぱり、熱い。けど美味しい。なんだか、気分がほわほわしてくる。
「どう、おいしい?」
「はい、とっても」
「それは良かった」
先生は、さも満足そうに笑った。俐斗が、眠たげにしている事を周知の上で。
――まずい、瞼が重いくなってきた。やっぱりこのココアには何かあるのだ。
俐斗は襲い来る睡魔に抗おうとしたが、それは無駄なことだった。
「安らかに眠りなさい。貴方は、この物語の主人公なのだから」
俐斗は一介の養護教諭が、美人な顔にそぐわぬ笑みを浮かべていることなど、知るよしもなかった。そして、深い深い眠りの底へと、落ちて行った。それはもう、死ぬ寸前の深さの眠りにまで。
「あ~ら、何? この子」
「明らかに転生者または、転移者ですね。何もなかった道端に急に現われましたから」
「どうする!? どうする!? 魂、狩っちゃう!?」
ロレンスは幾分驚いた。道端に、転生者やら転移者がいることに、ではない。随分整った顔立ち。美しい紺碧の髪は、肌の白さを際立たせていた。身体は全体的に細く、華奢。しかし、どう見ても男である、という事実に驚いていた。
「待て、この子は俺が拾う」
――本当に、人間は面白い事を考える。楽しくなりそうだ。
「え、拾われる? その子を気に入られたのですか? ロレンス様とあろうお人が。妬けてしまうわ」
「ロレンス様がそうお決めになられたのなら構いませんが……。これは人間ですよ? いくら、転移者でも……」
全然構ってるよね、と言おうとしたロレンスだが、後が面倒だということに気付いた。
「そんなに気にすることでもないよ。これはただの暇つぶしだからね」
「え~? いいな~、ロレンスさん。僕も、この子気にいったんだけどな~」
――君は、人のことを気にする前に、言葉づかいをどうにかしようか。
全く持って、うるさい外野に、困り果てていた。ロレンスも含めたったの四人だけだというのに、いつもまとめるのに一苦労だ。
「今日はここで解散だよ」
「わかりました、ロレンス様」
「了解しました」
「はいは~い」
ロレンス以外、誰もいなくなると、辺りは静寂に包まれた。
「どれだけ五月蠅いんだ、あの子らは」
魂を狩るときは穏便にしなければならない。そのことを彼らは分かっていながら、実行してはいなかった。とんだ問題行動である。
「さて、と」
目の前で横たわり、意識を失っている少年を仕方なく担ぎあげる。
――こういうことは女の子にしかしたくないんだけどね。でも皆の前で言った手前、置いていくわけにもいかないし。
ロレンスは、困っている他人を放っておけない性格なのだ。しかし、それは職業柄、大きな問題があることにロレンスは気付いてすらいなかった。とんだ問題行動である。
「僕も帰ろうか」
この子が目を覚ました時。そして、自身の正体を知った時。一体、どんな反応を見させてくれるのだろうか。ロレンスは今から楽しみで仕方が無かった。