ゾンビ ①
むかしむかし。
子供の頃の話だ。
たぶん、四歳くらいだったと思う。
私こと、穴倉夜々の、最初の記憶。
その頃から両親は多忙に多忙を極めていて、朝から晩まで仕事、仕事、仕事の毎日。私は、母方の祖父母の家で過ごした。周りには田んぼしかない、田舎町だった。
祖母は、顔を見せにも来ない両親を、好ましくは思っていないらしい。よく電話を片手に、「子供が小さいうちから」「夜々ちゃんがかわいそうだとは思わないのか」と苦言を呈していた。相手は私の母だった。
それでも、両親が私を迎えに来ることなんてなかった。
近所に年の近い子供はいなかった。
だから私はいつも一人で遊んでいた。家だとおばあちゃんたちの邪魔になるかもしれないから、いつも外で。
森に入ってはいけないよ、と祖父は言った。
家の裏にある森には、よくないものがいるからねって。
私は、その言いつけを守っていた。
だけれどある日。
子供特有の、いけない好奇心が爆発した。
どうして森に入ってはいけないんだろう?
よくないものって、なあに?
その日私は、「悪い子」になった。
今考えれば、祖父が「森に入るな」と言ったのは、いろいろ理由は思いつく。クマが出るとか、遭難されてはたまらんとか、それこそ、『よくないもの』が、現れるとか。
でもその頃の私は、子供だった。
子供で、無知だった。
その森で出会ったのは、顔の半分がケロイド状になった、お姉さんだった。
目はぎょろっとしていて、肌は青白い。
腕はなぜかちぎれていて、皮一枚繋がっているのか、ぶらんとぶら下がっている。それから、何かが腐ったような臭い。
私を、××そうとしていた。
私は、そのお姉さんから必死に逃げて。
夢は、そこで覚めた。
◆
「ああ、それはゾンビですね」
何てことないように、影宮くんは言った。
そろそろじめじめとした暑さが本格的になって、うちの学校が、テスト勉強! という雰囲気になってきたころ。珍しく、影宮くんの方から私のクラスを訪ねてきた。
いわく、「勉強を教えてください」と。いつもの、抑揚のない口調で。
彼は、オカルト方面にはめっぽう強い代わりに、おつむはあまりよろしくないらしい。このままでは、部活に出られなくなるとのこと。
私が「相変わらずバスケ馬鹿だね」と言うと、「はあ。別に好きじゃないですけど。部長命令だったんで」と相変わらず薄い反応で言われてしまった。ツンデレにも聞こえなくて、苦笑いを返す。
そんなわけで、私たちは、放課後の図書室で勉強会を開くことにした。本当なら、この場に花蓮も来るはずだったのだけど(ていうか勉強会を提案したのは彼女だ)、ドタキャンされた。急用を思いだしたらしい。「あとはお若いお二人で」と言っていた。お見合いか。
そして、今日見た夢の内容を思いだし、何となく、影宮くんに話してみたのだが。
冒頭に戻る。
「…………ゾンビ?」
「はい。ちぎれた腕に青い肌に腐臭。実物を見てないんで何とも言えませんが、たぶんゾンビです」
「ゾンビって、あの、ゲームとかに出てくる? T-ウイルスとか傘とかどうのこうのなあの?」
「はあ?」
私が教える手を止めたからか、影宮くんも、自然と手を止めた。
今教えていたのは数学だった。
待って待って、待って待って待って待ってと、私。先輩、図書室では静かにしないとだめですよと、影宮くん。しいと、唇に人差し指をあてている。
図書室には、私たちと同じような理由でこもる生徒もいた。室内には四、五人ほど残っている。わりかし近くに着席していた生徒が、じろりと睨んできた。慌てて声を抑える。
「ふ、普通に幽霊なんじゃないのっ?」
「はあ。普通に、違うと思いますけど」
お前の普通と世間の普通をいっしょくたにするな。
「まず、先輩はひとつ大きな勘違いをしています」
「勘違い?」
「先輩に霊感はありません」
ことり。影宮くんが、シャーペンを机に置く。授業を中断させてしまって申し訳ない。だけど今はゾンビの方が重要だ。
「先輩は、幽霊とか妖怪とか、いろいろな『よくないもの』をおびき寄せる『穴』ですけど。でも、言ってしまえばそれだけなんです。なかなか厄介なんすよ、先輩みたいな、引き寄せるだけの人間って。ただ『穴』になってるだけだから、もちろん視えない。視えないし、祓うことも、避けることもできない。近くに専門家がいない限り、ただ唐突に訪れる死を、緩やかに待つだけなんです」
「専門家っていうと……私で言う、影宮くんみたいな?」
「…………」
影宮くんはなぜか、数秒黙ってしまった。
そして話を逸らすように、「先輩はそのお姉さんが見えていたんですよね?」と聞いてくる。私も空気を読んで、うんと答えた。
今のは、聞かれたくないことだったのか。ううん。彼の場合、地雷がどこに潜んでいるのかまったく不明だから、なんともやりづらい。
「ケロイドとなった顔にちぎれた腕に青い肌。おまけに腐ったような臭い。普通に考えて、人間ではないでしょう。明らかに、この世のものではないし」
「……うん。それは、わかる」
「だから、ゾンビです」
一気にわからなくなった。
「ゾンビって、ゲームとか漫画とか……創作の中の生物じゃないのっ?」
「はあ。数は少ないけど、普通にいますよ。あれ、知らないんですか?」
「しらないよ!」
ごほん、と横から咳払い。……申し訳ない。
影宮くんが、ことんと首をかしげる。
「先輩、幽霊とか都市伝説とか……そういう話は信じるのに、ゾンビは信じないんですか? 俺からすればどいつも似たようなものなんですけど」
「ぐっ」
「しかし、ゾンビの存在する森か……。そんなところ、まだあったっけな。もう淘汰されたとばかり思ってたけど」
ふむ、と腕を組む影宮くん。どうやらゾンビというのは希少種らしい。
「まあ、だいたい考えつくと思いますが。ゾンビって、霊感のないやつでも普通に見えるんですよ。先輩が見えたみたいに。だから昔、呪術師の連中が人の世を混乱させるのはよくないとかうんぬんかんぬんみたいなことを言って、ゾンビを死滅させたみたいなんです」
ゾンビなのに死滅とは、なかなか洒落がきいている。
……じゃなくて。
「それなら、どうしてあのゾンビ? は、あそこにいたの?」
「さあ。もしかしたら、その森が住処だったのかもしれませんよ。おじいさんが言ってたんでしょう」
その森には、『よくないもの』がいるって。
穴倉 夜々
あなぐら やや
夕刻学園二年生。女。
八月二十三日生まれのA型。
身長149センチ、体重43キロ。
趣味はお菓子作りや、編み物。
特技は超常現象、心霊現象に巻き込まれること。
好きなものはきれいなものや甘いもので、嫌いなものは虫。
この作品で唯一、フルネームが判明している少女。
わりと大人しい方で、警戒心が強い。人見知りだが、影宮には比較的心を開いている方。
トータルで言えば影宮より花蓮の方が付き合いも長いのだが、彼女には辛らつである。空気は読める方。
心霊現象に立ち会い、命が脅かされても翌日にはけろりとしているので、メンタルはかなりのものだろう。