ストーカー ③
貰った紙切れをどうしようか迷って、彼がしていたように、財布の中に入れることにした。財布はだいたいいつでも持ち歩いているので、これで肌身離さずということになるだろう。
本当に大丈夫なんだろうか。影宮くんは「ちょっと面倒だけど何とかします」って言っていたし、それは安心してかまわないだろう。
彼はうそをつかない。どういったことにも、どんなことでも。隠しごとは人並みにしているようだが、根っから正直者なんだろう。隠しごとさえへたくそだ。
「一日二日くらいなら、何とかなるか……」
問題は、夜だな。
今日も明日も、もちろん両親は仕事である。おまけに今日は帰ってこれないらしい。冷蔵庫にメモが貼られていた。
……夜。人でないモノたちが、より活発にいる時間。こういうとき傍にいてくれる友人がいれば心強いんだろうけど、私にそんなものはいない。花蓮は、それなり話す方だけど、家に呼ぶほど親しいわけでもなく。
誰もいない、いつもの通学路を振り返る。
しいん、と静まった住宅街は、見慣れたもののはずなのに、いつもより気味が悪い。ぎちと、胸を暗い靄でつぶされる感じだ。
嘆息。
こつん、と歩みを速めた。
◆
かれこれ。
三十分は歩き続けただろうか。
気づくのが遅すぎたような気もしたが、私は、ぴたりと足を止めた。
「…………可笑しくない?」
この道は、こんなに長かったか?
家は、こんなに遠かったか?
いや、ていうか。
…………同じところを、ぐるぐる回っているだけのような。
「…………」
歩く。
右足を出して、左足を出して、右足を出して、左足を出す。
その動作を意識して、意識して、意識する。
ぎう、とカバンを強く握って、早く早く、最終的には、小走りになっていた。
さっきのさっきで、これかよ。
まったくついていない。
ひたり、と、後ろから何か得体の知れないものが近づいてくる感じがした。
違う。
これは気のせいだ。
言い聞かせる。
足音がするのは気のせいだと。
気配も何もかも、気のせいだと。
私は知らない。
こんな、気持ちの悪いもの。
寒さに、鳥肌が立つ。
ぞわぞわとした感覚。
影宮くんのばか。
今はいない彼に、悪態をついた。
ばか。あほ。オカルトマニア。毛根死滅しろキューティクリン。最後は個人的な私怨だ。
何が身代わり人形だよ。効かないじゃないか、全然。
家には全然着かないし、道程は長いし、後ろには何者かがついてくる。走って流れたわけではない汗が、私の頬をつるりと撫でた。
たったった、と走る。
誰かもたったった、とついてくる。
十字路を右に曲がる。
後ろも右に曲がる。
今度は左に曲がる。
後ろも左に曲がる。
ああ、完璧についてきている。どうしよう、参ったなあ。もしかしたら勘違いかも、私が少し自意識過剰だったかも、そうだったらどれほどいいか。って、思っていたのに。
ああそうだ、携帯。スピードを落とすことなく、カバンをまさぐる。爪先にかつんという、確かな感触。それを必死に手繰り寄せて、青色のスマホを、何とか取りだした。
「って、圏外!」
なんて王道! 幽霊に追いかけられる展開としては、ありきたり! でも今そんなサービス求めてない!
「あっ……」
そんなふうに気を緩めてしまったからか、するりと、青いそれが手のひらからすっぽ抜けた。かつーんと、買ったばかりの最新機器がコンクリートに弾けて、軽快な音を立てる。
それがいけなかったんだろう。
その、あまりに軽快な、こつんという軽すぎる音に、私は足を止めてしまった。
ずしんという、重すぎる音。
その音が私を捕らえて、離れないように、がっちりと抑えられる。
「…………っ。ひ、」
上げようとした悲鳴は、生暖かい何かに阻まれた。
『何か』が乗っている。
見えない『何か』が。
得体の知れない『ナニカ』が。
私を『あちら』に連れていこうとしている。
はー……はー……。微かな息遣い。興奮、しているのか、それはやけに大きく聞こえる。
ああどうしよう。
捕まってしまった。
逃げられない。
体は、何かに縛られたように動かない。
腹の上に何かが乗っている。
重い。
重い。
重くて重くて、仕方ない。
じりじりと、視界がにじむ。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
このままじゃ殺される。
連れていかれてしまう。
死ぬのは嫌だ。殺されるのはもっと嫌だ。こんな得体の知れないやつとあの世でランデブーだなんて、そんなの殺されたってごめんだ。
だって私、まだやりたいことが残っているし。中間試験が近いから帰ったら勉強しなきゃいけないし、もうすぐとても楽しみにしていたシリーズの新刊が出るし、今日は好きな俳優がゲストに登場するバラエティ番組を見る予定だ。……とにかく、私はまだ死ぬべきではない。
こんな、顔も名前も知らない誰かのために、死ぬわけではないのだ。
息が苦しくなってくる。
酸素が足りなくなる。
考えが上手くまとまらない。
人間のものとは思えない力が、私の首に絡んで、おもちゃをひねりあげるみたいに、私の首を上に引っ張って――――。
じゅう、と何かが焼け焦げたにおいを、確かに感じた。
「ぅっ…………げほ、ごほ、ごほ、こふっ、……!?」
途端に、肺いっぱいに息を吸い込む。
その勢いでむせてしまって、私は慌てて起きあがって、思いきり酸素を堪能した。
はあ、と息が上がる。
白黒する目で、何とか状況を確認した。
「…………」
思わず、首筋に指をあてる。
首……繋がってる。
息、吸える。
重たくない。
…………生きてる?
実はもうすでに死んでいて、ここはすでにあの世なのみたいな、いらないどんでん返しはないだろうな。
私、ちゃんと生きてる?
「っ、そうだ。さっきのやつ……」
ばっと顔を上げる。
しかし私には、それを見つけることはできない。好かれはしても視認することは適わないと言うなら、やはりそれはこすいものだった。
目の前には、何もいない。
ただ、もぞり、もぞり、と何かがうごめく感覚が、空気を通して伝わるだけ。
わっ、と、背筋に一気に悪寒が駆け上がってくる。
にじりと、後ずさった。腰が抜けてしまったらしく、今は立ちあがれそうもない。
もぞもぞ、何かが動く。
どこにいるんだろう。あっち? それとも、もっと遠くの方?
見えないことは恐怖だ。ばくばくと大きな音を立てて警戒心を強める心臓をぎゅ、と上から押さえながら、見えない何かを必死ににらみつけた。
ああでも、本当どうしよう。
次はどうしたら。
今度はどうやってくる?
また掴みかかられる?
いや後ろから来る?
それともまだ来ない?
次は、次、次次次次つぎつぎつぎツギ……。
「はいどーん」
「!?」
いきなり、何の前触れもなしに現れたのは影宮くんだった。
何もないように見える箇所にぐるりと回し蹴りをお見舞いして、ちらりと私を一瞥する。
「か、影宮くん!?」
「あー先輩、どうも。さっきぶりですね。別に会いたくはなかったです」
そう、とぼけたように言って。
影宮くんは、ぐしゃり、と見えない何かを踏みつぶした。
◆
「こういう無駄に勘のいい幽霊を相手にするときは、囮作戦とか使うのがいいんですよね。奴ら鼻は利くけど頭は使えないし、脳みそないから」
やはりとぼけたように言って、影宮くんは無表情に「あはは」と音を立てた。口角はぴくりともしていない。
あのあと影宮くんは、後ろ手に何かを引っ張るようにして、ずるずる私から見えない位置に移動していった。
それからどか、ばき、ぐちゃ、と耳を塞ぎたくなるような擬音のあと、何事もなかったかのように私の前に現れたのである。いったい何をしたのかは、聞いていない。
「ええっと……まだはなしをよめていないけど。つまり影宮くんは、私のあとをつけてたってこと?」
「はい」
影宮くんの歩幅に合わせて、ゆらゆらと、視界が揺れる。
腰が抜けてしまって、立ちあがることさえ許されそうにない私は、恥ずかしながら、影宮くんの背中におぶさっていた。
「……見てたんなら、すぐに助けてよ」
「はあ、それは申し訳ないと思ってるんです」
本当かよ。
「想定外なことに、邪魔が入っちまって。先輩をちょっとだけ、見失いました」
「…………」
まあ、助けてもらったんだし。
文句は、言わないけど。
ああそうだ。と、思い返す。
彼の肩に片手を置いたまま、スカートのポケットをかさこそとあさる。影宮くんが「先輩暴れないで下さいよ、重い」というので、あまり動かないように気をつけながら。
何とか目当ての、二つ折りの財布を取りだした。中身を落とさないよう、気をつける。
「これ、もう必要なくなったし帰す……って、あれ?」
身代わり人形を返そうと、中からしまったはずのものを出すが、出てきたものは黒く焼け焦げた、何かだった。ぼろぼろと、私の手のひらからこぼれていく。
「ああ、燃えていますね。役目を果たしたんでしょう」
「え、うそ、これ燃えるの? ちょっと、私の財布、灰だらけなんだけど」
ていうか、正直言って私、この人形の効果あんまり信じてなかったんだけど。オカルトって信じるのが大事だから何となく信じていないと効果は薄いんだろうなと思っていた。ちゃんと守ってくれていたんだね、ありがとう。身代わり。でも財布を灰まみれにしたのは許さない。
……そういえば、あの、私がもうだめかってときに感じた、何かが焼け焦げたかのような匂い。
あれって、身代わりが身代わりになってくれたからなのか。
ふうん。
「影宮くんてさ」
「はい」
「なんで私を守ってくれるの」
影宮くんは少し黙ってから、
「それが俺の役目らしいですから」
と言った。