ストーカー ②
昼休みももうすぐ終わり間近。次の授業は体育だったはずなので、私はそろそろ戻らなくてはならない。
じゃあそろそろ帰ろうか、というと、ういと返ってくる。なんだその返事と思いつつ私はパンパンとお尻についた汚れを手で払って、少し伸びをする。影宮くんはなぜだかそんな私を、じっと見つめていた。
「……なに?」
「いえ。何も」
問いかければ、ふるふると首を横に振る。言いたいことはそのままオブラートに包むこともせずド直球で言っちゃうような影宮くんだから、はてと首をかしぐ。しかし、言いたくないことをむりやり吐かせるのもどうかと思うので、ここは放っておくのが正解なんだろう。私はすぐに彼から視線を逸らした。
そして、くるりと視界を反転させて、右足を前に突きだす。びしりと、また突き刺すような視線。その瞬間。
ぐいと後ろに引っ張られた体。
がしゃんとけたたましく響いた音。
目の前に寄せられた黒い何か。
足もとに跳ねる、土色の何か。
すべて一瞬の出来事だった。
一瞬すぎて、何が起こったのかわからなかった。そっと、いつの間にか私の前に現れていた影宮くんより、後ろの方を覗いてみる。
そこにあったのは、ぐしゃぐしゃに潰れた、プランターだった。中に入っていたスミレは、かわいそうにどろどろに汚れて、花びらも数枚散ってしまっていた。
「? ? ???」
状況が理解できない。
だって、なんだ、あれは。いや、あれはプランターだ。それくらいは理解できる。私が言いたいのはそうじゃなくて。
空を、そろりそろりと見上げる。先程まであんなに晴れていたのに、雲行きは怪しい。どんよりとした天上を妨げるような障害は、校舎、くらい。
でも、窓なんてなくて、壁一面に広がるクリーム色は、ただ静かに鎮座している。いやそもそも、私が立っていた場所とは、それなりに離れていたはずなのに。
どこから降ってきたんだ? これ。
そんなふうに視線をきょろきょろ落ちつきなく動かしていた私に、影宮くんはため息を吐いた。
「先輩って本当に、『穴』ですよね」
あ。やっぱり、これってそういうこと?
懐かしくなるようなフレーズをつぶやいた彼に、私は頬をひきつらせたのだった。
◆
「幽霊にもストーカーはいますよ」
何か最近、変わったことはないかと聞かれて。
そういえばストーカーをされているらしいと答えて。
影宮くんは少し考えるように沈黙した後、じゃあたぶんそれですねと言った。
それってなに、と聞いて。
幽霊に惚れられたんですよ先輩、と返される。
わけがわからない。
授業はサボった。
空き教室に鍵をかけて、異性と二人きり。これだけ聞くと、なんともいかがわしい。
私と影宮くんは、机を挟んで、お互い向き合うように座っている。絵面としては、かなりシュール。
「幽霊がストーカーっていうのも、なかなかえぐいですけどね。だいたい見えないから、部屋に侵入しようが着替えを覗こうが胸をもまれようが捕まらないんだから」
「…………」
ぞっとした。「あ、幽霊だから揉んでも感触はしないか」と影宮くんは言うが、そういう問題でもなく、私は瞬間的に鳥肌の立った腕をさする。
「……ここにも、いたり、するの…………?」
「いませんよ。いたら俺に焼かれてるでしょ」
焼かれてるのか。
それはどういう意味なんだろう。
「さっき、プランターが落ちたのも、いまさら言うことじゃないと思いますが、霊の仕業ですよ」
「な、なんで? 私、ひょっとして恨まれてる?」
慌てて最近の自分の行動を考えてみる。なにか罰当たりな行いでもしてしまったろうか。
うーんと考え込む私に、「あれは純粋な恋慕でしょ」と返す影宮くん。
「本当に純粋かは知りませんが」
「ええ……恋なら、むしろ相手の幸せを願うものなんじゃないの?」
「…………」
「な、なに」
「いえ。まあ、全員が全員そうだとは限らないってことでしょ。あっちは死んでるから、先輩にも死んでほしいんですよ。死んで、一緒に仲良くあの世の生活を送りたいんです」
あっちの世界って。
あの世って。
「……私はまだ死にたくないよ」
「そうですか」
わかりました。じゃあ何とかしますね。と、影宮くんは言った。
なんと頼もしいことか。
◆
「とはいえ」
もうすぐ予鈴が鳴る。
予鈴が鳴ったら戻らなくてはならない。私のクラスは進学クラスなので、さすがに二時間もまとめてサボるのは心象が悪い。それに授業についていけなくなってしまう。一時間だけでも、取り戻すのは一苦労なのだ。
そんな中、口を開いたのは影宮くんだった。私は読んでいた本から顔を上げる。
もうずっと、目をつむって黙りこくっていたので寝ているんじゃないかと思っていたが、どうやら考え事をしていたらしい。影宮くんの、無機質な黒い瞳がこちらを向く。
「何とかするにしても、あっちがこちらに来ないと何とも言えないんですよね」
「そうなの? ああいうのって、相手がこの場にいなくてもできるもんだと思ってた」
「はあ。先輩が何を連想したのかは知りませんが、俺の場合は近距離に来てくれないとダメなんです。もっと言えば、相手を殴れるような距離」
「…………殴るの?」
「殴るのは個人的に遠慮したいので、蹴り殺します」
蹴り殺すのか。
できるのか、そんなこと。素人考えで恐縮だが、幽霊っていうのはだいたい透けていて、触れることもできないと思っていたのだけれど……。
しかも幽霊なのに、殺すって言っちゃったし。
「相手の幽霊は、どうやらかなり鼻が利くようですよ。さっき、先輩も視線を感じたでしょ? 俺振り向いたんですけど、逃げられました」
先ほど、影宮くんが勢いよく振り向いたあれか。なるほど、振り向いたのは幽霊がいたからなのか。
「あのプランターは、幽霊が落としたやつじゃないの?」
「だから、その場にいたら俺が焼き殺してますって」
蹴り殺すんじゃなかったのか。
「まあ、一種のポルターガイストですね。よくある霊的現象。こっちが近距離でしか戦えないからって、あっちもそうだとは限らないってわけです」
そう言って、影宮くんは肩をすくめた。
「……なんだか、それってずるいね」
「はあ。ずるいですか」
まあ先輩が言うなら、そうなんでしょうね。
影宮くんはそんなふうに言うと、自分の財布から、一枚の紙切れを取りだした。それは人型にくり取られていて、中央に、「女」と書かれている。
「どうぞ」
「え、やだ何それなんか気持ち悪い」
「気持ち悪いとは失礼な。この人形が、先輩の助けになってくれるというのに」
「助け?」
ていうか、人形? これが? 確かに人の形はしているが。
いつまでも受けとらない私に、焦れることなくいつまでも差しだし続ける影宮くん。
「身代わり人形ってやつです。人形ってのは災厄を引き受ける性質がありますからね。念のため、肌身離さず持っていてください。今、ちょうど手持ちがないのですいませんけど」
そんなことを言われたら、受けとるしかなくなるじゃないか。
ぞわぞわとした感覚に襲われながら、私はそれを受けとった。
しかし、何だろう。ただの紙切れのはずなのに、この、心の底から這ってくるような得体の知れなさは。
気持ち悪い。
生理的嫌悪。
身代わり人形、という言葉のせいか?
くるり、と、何となく「女」と書かれた表面をひっくり返してみた。
「……ねえ。なんかこの紙、変な、赤い斑点があるんだけど…………」
「まあ、身代わり人形ですからね。そんなこともありますよ」
本当に勘弁してほしい。
きーん、こーんと、チャイムが鳴った。